愛に基づいて蠢いている

泡伏繭己

愛に基づいて蠢いている

 そこは私が産まれた時から憧れていた空間だったのでしょう。

 宇宙の片隅。誰も知らない惑星に、天使の梯子のような一筋の光。それは柔らかい、暖かい、温もりのある観測者の視線でもあり、照明担当の先輩が熱心に作り上げた、私たちだけの太陽の光でもあります。

 兄役の先輩に寄り掛かりながら寝ている演技をして、泣いている先輩をよそに私は安堵して悠々と瞼の外の世界を想像します。きっと観客は私の寝顔を見ていて、まるで赤子を見守るかのよう。彼らは私のまつげが揺れるのを、愛おしく思っているに違いないのです。

 同時に、兄役の小山内さんへ感謝の思いを寄せて……。

 彼は私を支えてくれました。稽古している間には、都度都度アドバイスをいただきまして、私の愛される所以たる部分を引き出してくれました。私は次第に可愛げが増し、男性でありながら人々に頭を撫でられるような存在になりました。そうした時間は、私のかわいらしさを認めない我が両親のいる実家とは異なり、暖かい抱擁を感じました。真の贅沢は人間関係のそれだといいますが、事実、誠に尊いものでした。

 今、ここにいる誰もが心のレンズに私を認めます。それは愛に悶える幼気な魂──。

 それは紛れもなくあなたのおかげでしょう。

 私たちの惑星を周る衛星は、これを「愛の証明」として記録するのです。

 


 瞼の裏の暗闇に蠢くのは、以上のような愚かしい夢、もとい願望であった。



 一日一ステージ、八日間に渡って上演された私たちの舞台『消失』は遂に千秋楽を迎えた。

 上演後、少し泣きそうになった。これは先輩たちにとって最後となるこの公演で、それはつまり、お別れを意味するからだ。少なくとも、滅多なことがない限り今後同じ舞台に関わることはない。堪えられないほどではなかったけれど思わず漏れてしまった涙。それをあざとく見せないために私はトイレに行った。

 手を洗って鏡を見ると、スタンリー・フォルティーとしての自分が映る。仲のいい先輩に切ってもらった自分の髪が愛おしい。だって、スタンとしての証みたい。変な前髪だけれど、「役者だから、その都合で」といえばみんな納得するのだから、これでいい。この髪型にしてから出歩くのが少し恥ずかしかったけれど、家に帰って鏡を見ると、変なの、と思いながらもクスっと笑みをこぼしてしまうのだ。私は鏡にわざとらしい笑顔を見せつけて、ニコニコしながら会場に戻った。

 会場にはまだアンケートを読んでいる先輩や、カンパとしてもらったお金の金額を数える制作スタッフが散らばっていた。そんな様子を見ながら、今日の演技について振り返る。正直今日のは微妙だったけれど、とにかく8ステージやりきったことを褒めよう。自分を労ろう。舞台上の、劇中よく寝ていたソファーに横になってみると、あっという間に眠りに落ちた。

 寝ていたのはたった十五分くらいなのに、ほとんどは帰ってしまっていた。

 「めっちゃ寝てたね」

 体を起こすと、床に座っている小山内先輩と目が合った。大量のアンケートを横に置いて、のろのろと読んでいる。

 「小山内さん、それアンケートですか」

 「うん。もう公演終わったから」

 「ちなみにそれはいつのやつですか?」

 「これは、7ステのかな」

 「ああ、良かった回……」

 「そうだねえ……」

 今日の先輩はいつもと違う人に見えた。普段は冬でも半袖でいるような、少し隙のある格好が多かったのに、今は二月だからだろう、厚手のコートを着ていた。そのせいか彼はもう既に何かに守られている気がして、自分の入る余地がないように感じられた。

 もし彼がスウェット一枚だったら後ろから抱きついていたかもしれない。きっと、彼の匂いと体温とが十分に私を満たしただろう。でも今そうすることは拒まれた。それは、自分が今、どのくらい愛されているのか知る術がないからだろうか。我儘な私は、正面から「おいで」と腕を広げてくれればなと思う。劇中ですら、先輩の抱きしめる腕はぎこちなかった。そんな時、訴えるように自分から強く抱きしめた。

そうでないと、不安になってしまうんだもの。

 「藤野―」

 会場の外から水崎の声が聞こえた。コートを着た彼は寒そうにポケットに手を突っ込んでいた。ぴょこぴょこしながら歩いているのが可愛い。私は項垂れて、頭をふらつかせて猫が餌を欲しがるように声を出す。

 「ん~~」

 「変な髪」と彼が呟く。彼の細く冷えた指が私の髪を掻き撫でた。その指が耳元をくすぐるように私は首を傾けてみたけれど、あっという間に彼の手はポケットにしまわれた。

 「もう帰ろうぜ」

 「ん」

 私はハグを要求しようとしたが、彼はそそくさと外に出て行ってしまった。

 おいおい、私を置いていく気か。

 会場を後にして、駐輪場に向かう。水崎がちょうど自転車の鍵を外していた。マフラーで顔が埋もれているが、綺麗な鼻筋が目の前を横切って、

 「行くか」

 「うい」

 私は自転車を押す水崎の後ろをついていく。少し早歩きして、彼の横に並んだ。

 「自転車、結局どうなったんだっけ?」と水崎。

 「もう古くて使い物にならないんだよ」

 「買わないの?」

 「高いからなあ……あ、泊まりに行っていい?」

 「えーやだ」

 「なんで」

 「眠い」

 むう。せっかく千秋楽が終わったからお疲れ様会でもしたいというのに。

 「それに渚は自転車ないんだから。俺も歩かなくちゃじゃん」

 「うーー」

 「だって渚も疲れてるでしょ、ちゃんと寝ときなよ。明日写真撮影とかあるんだし」

 「……それもそうか」

 「うん」

 駄々をこねる隙も無い。実際、私は主役だから写真撮影は結構ハードな仕事なのだ。まあ、みんなの中心で写真を撮られるのは少し気分がいいけれど。水崎とは大の仲良しだけど、あまりお泊りを許してくれない。やっぱり彼女が出来たからなのかなあ。逆に水崎が泊まりに来るとなればそれこそ尻尾を振って喜ぶのだが。

 そういえばさ、と水崎。少し聞きづらいことを聞くとき特有の、優しい声だった。

 「打ち上げ会、来ないの?」

 「ああ、ちょっと悩んでるんだよね」

 「へー、意外だな」

 打ち上げ会。文字通り、公演に関わったメンバーで打ち上げをするのがうちの部の恒例だった。今回は、舞台「消失」に関わった人たちが参加するというわけなのだが、私はどうにも気乗りがしなかった。

 もともと、人がたくさんいる場所が苦手だった。特に、よく知っている人たちの場合。

 各々が自由にテーブルを行き来できるということは、わかりやすく好意の矢印が現れるからだ。人気者の席にはおのずと人が集まるし、話すのがあまり得意でない、もしくは誰かの注目になっていない人たちは置き去りになる。

 以前、特に一年生のうちはただただ楽しかった。憧れの先輩たちが何人もいて、同期の友達と話すよりも彼らの苦労話、自慢話を聞きたかったから。そもそも連絡先を知らないような関係であったから、彼らが自分のところに来るわけがない、そう思えたのだ。だから自分から話を聞きに行く、それだけでよかった。

 時間が経つにつれて先輩後輩を知る、そして自分を知られる。

 以前の公演の打ち上げで、そういう残酷さを知った。いやいや、残酷というほどでもない。分かってはいたが、やはり苦い思いほど頭に残るものだ。

 置き去りにされる自分のような人間は、他人からの好意を求めたら最後、死に至る。

 まして、自分が主役であるにもかかわらず誰も私の隣に来なかったら……。

 怖いんだ、そう言おうとしたが、人気者の水崎にこれを言っても理解してもらえないだろう。いや、お互いどの同期よりも共にいた水崎と私の仲だ。私、藤野渚のことを理解してくれるかもしれない。

 しかし、だからと言って永遠私の隣にいてくれるわけがないのだ。

 「せっかくだしさ、行こうぜ。俺も渚がいた方が楽しいし」

 「ほんとかよ」

 本当に、「ほんと」なのかよ。

 そう思ってしまうのは、自分に自信がないからか。それとも、彼が私を傷つけるかもしれないと本能が訴えているからなのか。いずれにせよ、私は彼の目を見れなかった。

 交差点にたどりつく。私はなんとなく言葉を発した。

 「やっぱりさあ、泊まりに行っちゃだめ?」

 「ダメ。ばいばい」

 「はーい。じゃあね」

 そう言って彼は自転車で走っていってしまった。

 結局私の隣には誰も残らなかった。LINEを見ると、私が会場で寝ていた間に一つのグループができていたらしく、一部の人たちは夕食へと出かけたらしい。水崎と別れた後、私はコンビニで羊羹を買って、歩きながら食べた。



 家に帰ってツイッターを見てみると、今日の写真が演劇部の公式アカウントにあげられていた。不意に、私は悪夢へと誘われる。



 それは会場の外で数人が肩を組んでいる写真だった。

 どうやらこれは役者らの写真であるらしい。何故かそこに私はいなかった。

 何時撮ったのか、私が寝ていた時か。それともトイレに行っていた時か。だとしたら何故私を呼ばなかった? 小山内さんは何故そのことを教えてくれなかった? 水崎はこのことを隠して私がいた方が楽しいなんて言ったのか?

 幾多もの疑念が脳漿を掻きまわす。見えないはずの幾人もの歯がカチカチと鼓動を刻む。彼らの笑顔は、私を刺し殺すほどの笑みをカメラに向けていたが、嘔吐物に塗れて消えた。

 何故、どうしてそこに私がいない? 主役は私であったのに。……ああそうか。ここはもう舞台上じゃない。私に呼びかける台詞も、私がそこにいないことを悲しむ様子を見せるというト書きもない。そうか、私はもう必要のない存在なのだ。

知っていた。知っていたはずだ。私は必要のない存在だということは。

アイスピックが私の心をいたずらに刺した。お願い、やめて。早く私の肉体の方に痛みを。心に傷を負わせるのは、自分の内に住む赤子を殺すようなものだから。傷つけるのは自分の肉体でだけでいい。

 心臓は私の胸に拘束されていて抜け出せない。呼吸が速くなる。わずか30cmにも満たない赤子が雑巾のように絞られているのを感じた。醜い生き物が柘榴の飛沫をあげて潰れていく。神に見捨てられた赤子は奇声をあげる。

 私は祈るように「落ち着いて、落ち着いて」と自らの子供に告げる。そうして手に取ったシャーペンの先を首元にきつく押し当てる。まるで注射をするかのように。それが自分なりの心肺蘇生だった。

 最後に欲したのは肉声。私の醜い赤子を抱きしめてくれる人の声。

 小山内さんには話せない。あの人は私の本当の扱い方を知らないし。

 水崎にも話せない。彼はあの写真の真ん中で笑っていたから。誰からも愛されるアイドルに私みたいな人は要らない。

 そうだ、あの人に電話しよう。わけもわからず泣いてしまうようなあの人に。今日はこんなことがあったんです、って相談しよう。相談というか、悲しみの電話。心が弱っちゃったから声を聴かせてくださいって、呼びかけるのはおとぎ話じゃないと教えてくれた。私は気付けばボロボロだった。人は知らぬうちに私を刺していることを知らない。小山内先輩でさえ、そうだった。水崎も、前回の打ち上げの際に私を刺していたもの。

 恋人がいなかったから、その人の声を愛しく聞いた。耳元に置いて、まるで恋人の深夜通話。醜い自尊心から生まれた涙を尊いものにするために。この人との会話に潤いをもたらすために。神様へのお供え物は自分の涙。

でも知っていた。泣いたってどうにもならないってこと。ただの、自分のために流す涙。この世界に対する愛憎がいつの間にか膨らみきっていて、はち切れそうだった。



 翌日私は、昨日の涙を「あの人」以外に知られることなく記念写真の真ん中に立った。私は私を刺した人を殺したかったけれど、みんなニコニコ笑っているから私も懸命に笑った。こうやって自分で自分を殺しているからダメなのかしら。でも、こうするしかなかった。

「渚?」

 写真撮影の休憩中、舞台の裏で待機していた時に「あの人」が横に来てくれた。舞台裏は狭くて、観客席から見えないところだったから、ほとんど二人きりだった。

 「すいません、昨日は泣いてしまって」

 「いいよいいよ、悲しかったんだもんね。大事なことだよ」

 「ありがとうございました」

 「『死神』って曲聴きな、靖子ちゃんの」

 「それはなに、オススメなんですか」

 「なんかねえ、あー今日ダメだなあって時に聴くといいよ。歌詞が好き」

 「どんなやつ?」

 うーんとねぇ、たしか、と言って、

「『僕をボロボロにした全て 

 僕はどうしても殺したくて 

 誰もはみ出さないクソ平和のため 

 僕だけが僕を殺してきたけど』」

 彼女はその言葉を、私に花束を手渡すように言った。

 不思議と、私はその言葉を知っていた気がした。身に覚えがあった。まるで夜空への願い事みたいで、愛おしかった。

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