第32話 大炎上⑯

「す、すみません……ちょっと急用ができて……今日の放送はここまでにします……」


 ジャスティス仮面は強引に生放送を打ち切り、カメラとマイクのスイッチを切った。


「…………な、なんで……あいつが……」


 ついさっき、外から車のクラクション音が鳴り響き、何事かとカーテンを開けると、眼下に赤いポルシェの姿があった。


 嫌な予感がしたが、単なる偶然だと思った。あいつが、ここを知るはずがない。賢い自分は、身バレをするような間抜けなミスは決してしない。そう思っていた。


 だが、ポルシェの運転席から顔を出した金髪の女は、まぎれもなく炎城寺紅子だった。


 そして、向こうも自分に気付いた。間違いなく、あの女の目は自分を捉えていた。


「……いや、大丈夫……大丈夫だ……」


 このマンションのセキュリティは厳しい。入口もエレベーターも、鍵を持つ住人しか利用できない。奴がこの部屋までやって来れる筈がない。


 そうだ、俺は矢島春奈のような底辺や、炎城寺紅子のような馬鹿とは違うのだ。


 俺は――――




 凄まじい音が響いて、ベランダのガラス戸が砕け散った。




「え……」


 金髪の女が、カーテンをはねのけて姿を現した。


 つい先ほどまで地面に立っていた女が、マンションの十二階のこの部屋に、だ。


「え、え……えんじょうじ……」


 ジャスティス仮面は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。


「その仮面。間違いないわね」


 恐ろしく冷たい声で、炎城寺紅子は言った。


「お前だな」


 炎城寺紅子が、ジャスティス仮面に向けて詰め寄った。


「な、あ、あ……」


 ジャスティス仮面は何もできないまま、金縛りにあったように立ち尽くす。


 紅子の手が仮面を掴み、引きはがした。


「あっ!」


 そのまま、紅子は片手で、仮面を粉々に割り砕いた。


 彼を守っていた、彼が隠れていた盾は、あっけなく消滅する。


「ふん。それがお前の素顔か。想像より百倍は醜い面ね、反吐が出るわ」


 紅い瞳が、侮蔑を込めて男を見下ろしていた。


 つい数分前まで、男が抱いていたジャスティス仮面としての全能感、万能感……幼稚な夢想で築き上げた砂上の楼閣は、この瞬間に崩壊した。


「あ……あ…………」


「わたしが何しに来たか、わかるわよね」


「あ……、……あう……」


 紅子の蹴りが、男のたるんだ顔面に直撃した。


「――――っ!」


 男は鼻血を吹いて床に倒れ、声にならない呻きを上げる。


 生まれて初めて味わう暴力に、彼は一瞬で屈服した。


「あう……あう……」


「『あうあう』じゃなくて、ネットでやってたように愉快に話してみろよ。面と向かったら、人と話もできないのか」


 そのとおりだった。


 だからこそ彼は仮面を付け、身を隠し、ただ一方的に弱いものだけを攻撃し続けてきたのだ。


「や、やめ……。なぐらないで……こ、ころさないで……」


 男は涙を流し、怯え、震える。


 すでに四十の半ばを超えた彼が、いじめられっ子の小学生のような幼い口調で許しを乞うた。


「誰が殴るか。お前なんか、触れるのも汚らわしいわ」


 紅子はそう言って、彼の仕事場――パソコン机の前の椅子に手をかけた。


「座れ」


「え……」


「カメラの前に座れ。お前の死刑執行のボタンは、お前自身が押すのよ」


 紅子が何を言っているのか、男にはわからない。だが、断れるはずもない。


 黙って紅子の指示に従い、椅子に座った。


「放送を再開しろ」


「え……ほう、そう……?」


「さっきまでやってた、お前のクソみたいな生放送を再開しろって言ってんのよ」


「…………で、でも……か、仮面……」


 男は、床に落ちた仮面の残骸を見る。これを付けずに、動画配信などできるわけがない。


 だが、紅子はにべもなく言った。


「これから、お前の素顔で、本名で、ありのままの真実を、お前の口から語るのよ。さあ、スタートよ」


 紅子がパソコンを操作し、カメラとマイクの電源を入れた。


「ひいっ!」

 

 画面上に、まだ残っていた視聴者たちの反応がコメントされていく。


 

“あれ、再開?”


“なにこいつ? おっさん誰?”


“すげえブサイクwきっもw”


“なんで泣いてんだよww”


“え、まさかこいつがジャスティス仮面?”


“なんなの?”


“素顔公開!? マジなにこれ!?”


 

「まずは、さつきの家を燃やした件からよ。語れ」


 カメラの死角から、紅子が男に命令する。


「あ、あう……あう……しら……ない…………」


「殺すぞ」


「ひいっ!」


「黙ってたら殺す。嘘ついても殺す。口を濁してもごまかしても殺す。あとでパソコンもスマホも徹底的に調べる。お前の話と違う部分が出てきたら殺す」


 マイクが拾わない、低く小さい声で、紅子は語る。


 その「殺す」という言葉が、まぎれもなく本気であることは、男も十分すぎるほど理解していた。


 炎城寺紅子は、平気で人を殴り、本気で人を地獄に突き落とす。本物の悪魔だった。


「時間稼ぎしても殺す。さっさとしろ」


 もはや、男に逃げ道はなかった。


 彼はおずおずと口を開く。


「あ……あの……ジャスティ」


 紅子が壁を殴りつけた。


 激しい音が、恫喝となって男を震え上がらせる。


 一撃で、彼女の拳は壁紙を突き抜け、その下の石膏板を巨大なクレーターのように陥没させていた。


「名前っ!」


「ひ……」


 男はボロボロと涙を流しながら、決して明かしてこなかった本名を口にする。


「た……田沼原……ひとし……です……」


 紅子は無言で続きを促す。


 殺意の眼光が「ダラダラしやがったら殺す」と語っていた。


「ぼ、ぼくは…………きょう……く、九条さつきさんの……家に行って……灯油で、ひ、……火を……つけました……」


 

“は?”


“なにこれ?”


“ジャスティス仮面だよなこいつ?”


“自白キターーー!”


“マジ?”


“田沼原ひとしってw”


“認めちゃったよおい……”


 

「次、あの事故の時のことも話せ」


 紅子は淡々と命令する。


「あ……あう……。矢島春奈さんが轢かれたとき……ぼくは写真を撮って………………そのまま、逃げました…………あとで……救急車が来たとき、後をつけて…………」


 男が泣きながら罪の告白を続ける間、動画の視聴者の数は凄まじい勢いで増え続け、コメント欄の書き込みも際限なく膨張していった。


「あ、あの……お、おわりました………………」


 この三日間の、自分の行動の一部始終を語った男は、カメラとマイクを切った。


 悲惨な状況だが、もうこれ以上を強要されることはない、男はそう思っていた。


 だが紅子は冷たく言い放った。


「どこがよ。まだ始まったばかりでしょうが」


「いえ……もう、本当に……ぜんぶ……」


「お前の悪行は、わたしの一件だけじゃないでしょ。京都の御神木を折った件、レストランにゴキブリばらまいた件、その他もろもろ、全部を語るのよ」


「あ、あう……そ……んな……」


 男は絶望的なうめき声を漏らした。口の端から、赤子のように泡を吹いていた。


「それに、お前はまだここの住所も公開してないわ。それも話せ」


「…………そ、それだけは……ゆるし」


 再び、紅子の蹴りが男の顔面に叩き込まれた。


 もんどりうって倒れ込んだ男の左手を、紅子は一切の容赦なく踏みつける。


「ぎゃあああああっ――――――――!!!」


 指の骨を二本折られた。


 はっきりと、そう認識できるほどの破砕音と激痛だった。


「…………が…………あ………………あ………… 」


 鼻血と涙が、フローリングの床に水たまりをつくる程に溢れ出した。


 そんな哀れな男に、紅子は微塵の情けもかけない。


「お前みたいなゴミに、いまさら命乞いのチャンスが残ってると思うのか。さっさと立って再開しろ」


「…………ひ……ひは……」


 男は、もはや死期間近の老人のように、蒼白の顔でよろめきながら立ち上がり、パソコン前の椅子にもたれこむ。


 血の匂いに混じって、不快なアンモニア臭が漂い始めた。


「……あ…………あ…………」


 男は失禁していた。


 紅子は、そんな彼の醜態を見て肩をすくめた。


「わたしはもう帰る。これ以上、お前の撒き散らす臭い空気を吸っていたくないからね」


 そして、目の前の汚物そのものの存在に対して、最後の警告を残す。


「いいわね。どんだけかかろうが、声が枯れようが、すべて喋り終えるまで続けるのよ。途中でやめたら殺しに来る。ここから逃げても地の果てまで追いかけて殺す。わたしが……いや、もう日本中の人間が、お前の素顔も本名も知ってるんだってことを忘れるな」


 紅子は、再びカメラとマイクのスイッチを入れる。


「あう……あう……あ、あの……ここは…………東京〇〇区……△△のマンション1205室で…………ぼくは……京都の神社の……御神木を…………」


 泣きながら語る男を部屋に残し、紅子は玄関から出て行った。

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