第28話 大炎上⑫
その日は、夕方まで何事もなく過ぎた。
いまさら炎城寺邸に押しかけてくるマスコミやユーチューバーがいるはずもなく、紅子たちは久しぶりに普段と変わらない生活を送っていた。
夕食後、紅子はリビングルームで新聞の夕刊に目を通していた。
「『本日二十時から水無瀬川花火大会開催 過去最大規模の一万五千発の打ち上げ花火』……あー、そういえば花火大会は今日だったか」
夕刊の一面は花火大会について。その他、紙面のどこにも紅子についての記事は載っていなかった。
壁の時計を見ると、十九時五十分である。
「菜々香、あと十分で花火始まるわよ。水無瀬川の花火大会なら、三階のベランダからよく見えるわ」
紅子はリビングルームのパソコンの前に座っていた菜々香に声をかける。
だが、菜々香は深刻な表情でモニタを見つめたままであった。
「ちょっと菜々香、聞いてんの?」
「お嬢様……あの……ジャスティス仮面が、生放送してるです」
「はあ? またあいつ?」
『はいどーもー! えー本日はね、水無瀬川の花火大会ってことみたいですね。このマンションからもちょっと見えるんですけど……いや、もう飽きたから。ってか先週も先々週も花火やっててうるさかったから。もーそんな事はどうでもいい! ってね』
『それよりも、あの炎城寺の悪行を、今日こそは断罪しちゃいます! とっておきの、マル秘映像流しちゃいますからね! 期待しててくださーい!』
“待ってましたw”
“あの糞女をぜひ抹殺してほしい”
“金持ってるだけのアホがのさばってるのどうにかしてくれ”
“ここだけが最後の砦”
「はっ、なによこれは。馬鹿みたい」
ジャスティス仮面は、いまだにアンチ紅子の方針で動画を流していた。元々、紅子叩きのムーブメントを生み出した張本人としては、ここで引っ込むわけにはいかないのだろう。
とはいえ、視聴者の数は数日前と比べて格段に落ちている。ジャスティス仮面の求心力も衰えているのだろう。
「なにがマル秘映像よ。まさか、あいつがこの家に取材とかほざいてやってくる気なの? 自殺志願者かよ」
「それはないと思いますけど……こいつは、本当になにをするかわからないから……怖いんです」
「ふん。この仮面野郎が、わたしより怖いっての」
「それは……うーん……どうでしょうか……?」
菜々香はなんとも複雑な表情を作る。
「いまさら、こんな雑魚とコバンザメどもになにが出来るのよ。さ、こんな有害放送なんか放っといて、花火見に行くわよ」
紅子はパソコンの電源を切る。
菜々香も、不安を振り払うように立ち上がった。
「なんですって!?」
紅子と菜々香がリビングルームを出たとき、その声は響いた。
「さつき?」
廊下で、さつきが深刻な表情で携帯電話を手にしていた。
「そんな……なんで……! それで、母さんは無事なの!? え、ええ……うん……そうね……もう、今からじゃ遅いわね……。ええ……」
九条さつきが、これほど取り乱すことはめったに無い。良い知らせではないことは明白だった。
三階で花火の始まりを待っていた重蔵、はじめ、みい子の三人も、何事かと階段を降りてきた。
「ええ……それじゃあ……。明日、お見舞いに行くから……」
さつきはそう言って電話を切り、床に視線を落として放心したように立ち尽くす。
「さつき、何があったの?」
紅子が聞いた。
「あ……紅子様……。いえ、なんでも……」
「話しなさい。何があったの」
「…………実家から火事が出ました」
その場の全員に衝撃が走る。
「ボヤ程度のものですが……慌てた母が……転んで、足の骨を……」
「うそ…………」
菜々香が、呆然とつぶやいた。
このタイミングで、炎城寺家のメイド長の実家が火事になった。
それが、なにを意味しているのか。誰もがおぞましい予感に震えた。
「あいつっ……! あの野郎っ!!!」
紅子は猛然とリビングルームへ踵を返す。
全員が、その後に続く。
「まさか。そんな……まさか……。ありえない、ですよ……放火……なんて。いくらなんでも、そこまで……」
菜々香の言葉に、同意する者はいなかった。
九条さつきの実家に火を付けた犯人は誰なのか。それはすぐに明らかになった。
『ご覧いただけましたか! 衝撃映像、殺人犯に天罰! 魔女の家燃える!』
『本日、九条さつきの実家に取材に行ったら、
『ははは! なんか年寄りが転んでバタバタしてる! おーい、おばあちゃん、大丈夫ですかー?』
『あなたの娘、殺人犯みたいですけど知ってますーーー?』
「こいつが家を……母さんを……!」
さつきが全身を震えさせて歯ぎしりする。
だが、そのさつきの怒りを遥かに凌駕する殺気を、隣にいる紅子は放出していた。
「菜々香」
紅子は、温度を微塵も感じさせない声で菜々香に命令する。
「今からわたしの言うとおりにコメントを打て」
「え……」
「途中でキーボードを壊さない自信がない」
「は、はい……!」
はじめも重蔵も、もう「構ったら喜ばせるだけだ」とは言わなかった。
そんな段階は、とっくに過ぎ去っているのだから。
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