第5話 小説家になる方法①
「いってらっしゃいませ、ご主人様ー!」
千堂イルカはにこやかな笑顔で手を振り、退店する客を見送った。
時刻は午後七時半。イルカの働くメイド喫茶の閉店間際である。
客もウェイトレスのメイドも、すでにほとんどが引き上げた静かな店内に、カランカランと、入口のドアに括りつけられた鈴の音が大きく響いた。
「千堂さん、もうお客様は全員……あ、まだ一組いらっしゃるわね」
厨房から顔を出した店長が、店の一番奥の席に座った男性客二人をちらりと見る。
「あのお客さん達、もう一時間くらい話し込んでますね」
イルカも最後の客に横目で視線を送る。
片方が中年男、もう片方は二十歳くらいの青年だった。
「そうね。なんだか、お仕事のトラブルみたいよ」
このメイド喫茶「アサミ」はオフィス街の近くにあるので、普通のサラリーマンが打ち合わせの場として使ったりもするのだ。
「ねえ、あの若い男の子の方、すっごいイケメンじゃない?」
「そうですねえ」
確かに、青年は背が高く顔立ちは非常に整っている。外国人の血が入っているのか、青みがかった大きな瞳に、滑らかな肌、鼻は高く頬のラインはほっそりと引き締まり、女性アイドルでも嫉妬しそうな造形だった。性別は違うが紅子並みの美形と言えるかもしれない。
だが、その彼が声を荒げた。
「どういうことですか!?」
イルカも店長も、はっとして彼らの様子に注視する。
「やっぱり書籍化はできないって……しかも連載も打ちきりだなんて……!」
「うん、君には悪いと思ってはいるが、編集会議でね…………」
「昨日は大丈夫だって言ってたじゃないですか……!」
「急にそういうことになったんだ。すまないが分かってくれ。次の機会に埋め合わせするよ」
「次っていつですか?」
「時期が来たらこちらから連絡するよ」
「今までそれ言った人全員、音信不通になったんですけど!?」
「とにかく、そう言うことだから。じゃあ」
中年の男は強引に話を切り上げ、そそくさと逃げるように店を出て行った。
残された青年は、閉店まで黙り込んだまま、じっと唇を噛み締めていた。
愛知県名古屋市は、個人経営の喫茶店が日本一多い街と言われている。その名古屋中心部のオフィス街から、裏路地にすこし入ったところに居を構えるメイド喫茶「アサミ」が、今のイルカの職場だった。
閉店時間を過ぎ店長も帰宅した「アサミ」の事務室で、簡易ベッドに寝転がりながらイルカはスマホをいじってくつろいでいた。
アパートを借りるほど財布に余裕のないイルカは、店長に頼んでこの店に住まわせてもらっているのだ。
「…………やれやれ。お嬢様はまた、とんでもないことやってますね」
久しぶりに紅子のTwiterを覗いて、イルカはつぶやいた。
炎城寺紅子@Redfaire
『賞金首 名前:千堂イルカ 年齢:十八歳。この女はわたしを裏切って逃げた極悪人です。捕まえた人には賞金十億円あげます(生死問わず)』
イルカの実名と年齢、さらには顔写真まで堂々と公表して、指名手配をしていた。
「よりによって日本一荒れてるSNSで、人の個人情報を晒してくれちゃって……そこまでわたしを締め上げたいのですか。この前の『砂くじら』の件で、からかいすぎましたかねえ」
それでもイルカは平然としていた。
「ですが、相変わらず空気読めてないですね。賞金十億円は、お嬢様の財力なら用意できないこともないでしょうが、一般人からすれば金額が異常すぎて誰も本気にしてくれませんよ。ましてや、お嬢様は以前に『土下座すれば金をやる』と言って、アンチをからかった前科があるのですからね」
賞金首云々については、まったく問題なし。ただし、紅子の怒りはまだ当分溶けないだろう。そう結論付けて、イルカはTwiterを閉じた。
「さて、そろそろ夕食を調達に行きますか」
近所のネットカフェでシャワーを浴び、スーパーで半額になっていた弁当を買い込んで、イルカは「アサミ」への帰路についていた。
「ふふふ。特上ちらし寿司が半額になるまで残っていたとはラッキーでした。今夜は宴ですよ」
などと浮かれて、注意散漫になっていたのがいけなかったのだろう。
イルカは、背後から速度を落として近づいてくる不審なバイクに気が付かなかった。
「――――?」
気配を感じて振り返った時にはもう、バイクのライダーの手はイルカの持つカバンを掴んでいた。
そのまま、ライダーは力任せにカバンを奪い取り、一気に速度を上げて走り去っていく。
「ああああっ!」
あのカバンの中には特上ちらし寿司と、着替えた下着と、そして財布が入っている。
「ど、ドロボー! 返せーーー!」
イルカは慌てて走って追いかけるが、もちろん捕らえられるわけもない。
かといって簡単には諦められない。特上寿司も使用済み下着も全財産の詰まった財布も、みすみすくれてやれるはずがない。
走り去るバイクの前方に、一人の男が歩いているのが見えた。
「そこの人ーーー! そのバイクはひったくりですーー! 捕まえてくださーーい!」
言いながら、無茶な注文だと自分でも思う。
時速六十キロを超えて走行するバイクを生身の人間が止めるなど、そんなことが出来るのは炎城寺紅子だけだ。
だが――――。
その男は、カバンを片手にしたライダーとイルカを素早く交互に眺める。
そして自分の傍らを走り去ろうとしたバイクに目がけて跳び――――ライダーに向けて、蹴りを放った。
「へっ……!?」
ライダーの身体が空高く舞い上がり、運転手を失ったバイクが爆音を立てて横転し、電柱に激突する。
空中で男はイルカのカバンを掴み、難なく着地し――――その数秒後、ひったくり犯のライダーは地面に背中から叩きつけられた。
バイクは炎上し、ライダーはピクリとも動かない。
「ひええ……なんですかあの人…………泥棒、死んだんじゃないですかね……」
この世に紅子以外でこんな真似が出来る人間がいるとは思わなかった。
イルカは恐る恐る男に近付いて行く。
「これ、君のか?」
青年が涼しい顔でイルカのカバンを差し出してくる。
「は、はい。ありがとうございます…………あれ、あなたは……」
「ん?」
青年の整った顔には見覚えがあった。
先ほど、中年男と言い争っていた「アサミ」の客である。
「ああ。あの喫茶店の店員さんか」
青年も、メイド服姿のイルカを見て思い出したようだ。
「そうです。本当に助かりました。ぜひ、お礼をさせてください」
「え、お礼を? いやあ、それはどうも。助かります」
お礼なんていりません、と爽やかに答えると思っていたのだが、イケメン青年はあっさり受け入れてきた。
改めて彼の首から下を見直すと、よれよれのTシャツに膝抜けしたジーパン姿で、実にみすぼらしい。イルカ同様、金に余裕がある生活ではないのだろう。
「ええと、それでは……」
財布の中を確認してみると、間の悪いことに小銭以外では一万円札が二枚しか入ってなかった。
(さすがにこれをくれてやる余裕はないですよ)
それ以外にカバンに入ってるのは弁当と下着だけだ。
(特上ちらし寿司をあげましょうか……でも、これを逃すと次に食べられるのはいつになるか分からないし……じゃあ残りは……)
残るはひとつしかない。
「使用済みなんですが……わたしのパンツでよければ、いります?」
「いらねーよ」
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