第26話 宿命の対決・紅子VSイルカ⑮
「…………」
紅子も他の六人も、一瞬イルカがなにをしたのかわからず呆然としていた。
数秒後、ようやく紅子は我に返る。
「あいつ、逃げたの!?」
紅子は慌てて追いかける。
野生の肉食獣並みの敏捷性と反射神経を持つ紅子が、イルカの動きに反応できなかったのは、その行動があまりに想定外だったからだ。
足音から判断するに、イルカは廊下からそのまま玄関に向かい、外に出たようだ。
しかし、外に逃げて一体どうなるというのか。イルカが紅子と追いかけっこして、勝てるはずがない。そんなことはイルカ自身が最もよくわかっているはずだ。
一体なぜ、どんな勝算があって、逃走などという選択をしたのか。
その答えは、玄関を出た炎城寺邸の門前に止まっていた。
「タクシー!?」
門の前に待機していた黒塗りのセダンに、イルカが乗り込むところが見えたのだ。
「なんでこんな朝っぱらに、こんなところに……!」
炎城寺邸は住宅街のど真ん中にある。昼間でも流しのタクシーなど、まったく通りかからない。それがなぜ今朝にかぎって……と紅子は不思議がる。
「配車アプリですよ、お嬢様。アメリカではかなり普及してるはずなんですけどねえ。知らなかったんですかー!?」
イルカが紅子に向かって叫んだ。
その直後、タクシーは発車する。
「あ、あいつーーー!」
いつの間にこんな用意をしていたのか。
しかもイルカはタクシーに乗り込むとき、旅行用のボストンバッグを持っていた。玄関か門の前にあらかじめ隠していたのだろう。おそらくあの中には、イルカの全財産と貴重品が入っている。逃亡の際に持ち出す手荷物ということだ。
イルカは、全ての真実が明るみに出て、自分が犯人だとバレたときの保険までかけていたのだ。
「くそっ!」
とにかく、逃がすわけにはいかない。紅子は全速力でタクシーの後を追った。
いくら紅子でも、生身で走って車に追いつけるわけはないのだが、さいわい東京都心に信号は山ほどある。
走行中には引き離されても、赤信号で車が停止しているうちに距離を詰めて追いすがる。
そうしているうちに、紅子とタクシーの距離は着実に縮まっていった。
「よし、いけるわ!」
タクシーは繁華街の中心へ向かっているから、この先信号はますます多くなるはずだ。
後部席に座っているイルカが、バックガラスからこちらの姿を確認して渋い顔をしている。
勝った、と紅子が思ったその時。
イルカがタクシーを降りる姿が見えた。
「はあ? なにやってんのあいつ」
いくら車が進まなくなったからといって、降りてしまえば生身のかけっこをするしかない。それではイルカに万に一つの勝算もないはずだ。
しかし、あろうことかイルカは歩道の脇に置かれていた自転車に飛び乗り、そのまま走り出した。
「あ、あいつ自転車泥棒したわ! なんてやつよ!」
しかも、イルカが自転車に乗った場所の直ぐ側に交番があるではないか。どんな神経だ、と紅子は憤慨する。
紅子はそのまま交番に飛び込んで、日誌をつけていた警察官にイルカの悪行を説明した。
「……ってわけだから、今のメイド服着た女は自転車泥棒なのよ! すぐ非常線張って、東京中の警官動員して捕まえてよ!」
しかし、警察官はのんびりと答える。
「あれはシェアバイクですよ」
「しぇあ……バイク……?」
「スマホのアプリで予約しておけば、自転車を好きに借りて使えるんです」
「は……」
「いやあ、便利な世の中になったものですね」
紅子は、もはや臨界点の三百パーセント超えほどの怒りをたぎらせて、交番を飛び出した。
「なにが便利な世の中よ! 便利なのはスマホ持ってる奴だけじゃないのよクソッタレ!」
もうイルカの姿は完全に見失ってしまった。
しかし、紅子はそれくらいで諦める女ではない。
道の傍らの塀に飛び乗り、電柱によじ登り、二階建ての商店の屋根に立ち、街を一望する。
「見つけたわ!」
自転車に乗ったイルカは、駅へと向かっていた。
紅子はその姿を視界に捉えながら、屋根を、電柱を、ビルの非常階段を足場にして、空中から追跡していった。
ようやく距離を十数メートルまで詰めた時、イルカは駅の改札ゲート前にいた。
このまま電車で高飛びする気なのだろう。ここまでした以上、夕方になってお腹が空いたから帰ってくる、なんてわけがない。
(ひょっとして、二度とうちに戻って来ないつもりなの……?)
そう考えた時、紅子は、この一週間で最も激しい怒りを感じた。
「イルカああああああああああああーーーー!!!」
紅子の怒声に、イルカが振り返る。
さすがに、ここまで追ってくることは想定外だったのだろう。イルカは慌ててゲートを通り抜け、駆け出した。
紅子も、もちろん追いかける。だが、ゲートの中には切符を買わないと入れない。
「くそっ、くそ! イルカはスマホをピッてするだけで入れるのに!」
さいわい、ポケットの中に小銭は入っている。券売機で入場券を買うのは問題ない……と思っていたのだが。
「なによ、これ。お金入れるところがないわよ」
近くにいた駅員を呼び、その事を説明した。
「ああ。ここの券売機はすべてクレジットカードか電子マネー専用なんです。現金はあっちの隅っこの方のを使ってください」
駅員が示した数少ない券売機には先客が数人並んでいる。
「なにがクレジットカードよ! なんでツケ払いの連中が幅利かせて、即金で払うわたしが冷遇されなきゃいけないのよ!」
などと吠えたところで、現実は変わらない。
紅子がようやく切符を買ってゲートを潜ったのは、それから三分後だった。
この三分間に発車した電車はないから、まだイルカはホームに残っているはずだ。
この駅には四つの線路が通り、二本のホームがある。そして電光掲示板の情報では、あと一分後には両方のホームに電車が来る。
「…………」
一分で両方のホームを探すのは不可能だ。
二者択一、どちらのホームにイルカがいるのか。
迷う紅子の目に、一番線のホームへ続く階段に落ちているヘアピンが写った。
見覚えのあるそのヘアピンを、慌てて拾い上げて観察する。間違いなく、イルカのものだった。
「あははは! こっちねイルカ!」
紅子は高笑いをしながら一番線ホームの階段を駆け上がっていった。
イルカはすぐに見つかった。
ただし、イルカが立っているのは三番線ホーム。紅子の立つ一番線ホームとは、線路の崖で断絶されていた。
「あーはっはは! ほんと単純ですねえ、お嬢様! あんなヘアピン一個置いとくだけで、まんまと騙されてくれるんですから!」
勝ち誇ったように笑うイルカ。
紅子は、もはや怒りを通り越して発狂しそうだった。
「いやはや、昨日までのお嬢様の頭の冴えはかなりのものだと思ってたんですがねえ。しょせん、火事場の馬鹿力……というか馬鹿頭、ですか? そんなもんは長続きしないってことですね」
「い、い、いるか、あんた……こ、こんな…こんな真似をして……あんた……!」
「お嬢様。せっかくパソコン買ったのですから、少しはIT文化というものを学びましょうよ。そんなだから、このわたしを追い詰めておきながら、まんまと逃げられることになるのです」
「黙れ! よくも、よくも! このわたしを、さんざんコケにしてくれたわねっ!!!」
紅子はホーム全体に響き渡るような大声で絶叫する。
だが、安全地帯に立ったイルカは、もう毛ほども怯えない。
「あははは! いやあ楽しかったですね! 久しぶりに、あなたと追いかけっこするのは! こんなの何年ぶりでしょうか、小学校……いや幼稚園以来ですね!」
ホームにあふれる人のざわめき、アナウンスの放送にも負けじと、イルカは声を張り上げる。
「ぜんっぜん楽しくないわ! こっちは最悪の気分よ! ふざけんな!!!」
「あらあら、効いてる効いてる。怖い怖い」
「うぎいいいいいいいいい!!!」
こうなったら線路を横断してでもイルカを捕まえて殺す……と紅子が足を踏み出した瞬間、二人の間に電車が割り込んできた。
イルカの目の前、三番線に電車が到着したのだ。
イルカは悠々とその電車に乗り込み、紅子の正面にある窓を開けて顔を出した。
「えー、お嬢様。お嬢様が恐ろしいので、千堂イルカは、しばらくお暇をいただきます」
「あ、あんた、やっぱり高飛びする気なのね!」
「あなたも、ちょっとはわたしと同じ思いを味わえばいいんですよ」
「はあ!? 何わけのわかんないこと言ってんの!」
「ま、わからないならいいんです。……それではお嬢様、また会う日までーーー!」
そして電車が動き出し、去っていく。
もはや紅子のパワーでも止められず、スピードでも追いすがれない。
巨大な車体は、あっという間に紅子の視界から消えた。完全に逃げられたのだ。
「うがあああああああああああああああああぁぁぁぁぁ!!!」
紅子の、あらん限りの絶叫が響く。
イルカが去っていった方角へ、無意味な怒声を放ち続ける。
「ごるああああああああ!!! 戻ってこーーーーーーい!!!」
周りの人間達は、先程からあっけにとられて紅子を見つめている。
通報を受けたのだろう、駅員が何人もやって来た。不審者が……、薬物中毒では……、頭が……。そんな事を言っている。
だが、紅子はそのいずれも鑑みず、怒りのままに喚き散らした。
「イルカアアあああああああああああああああああああーーーーーーーー!!!」
晴れ渡った初夏の空に、その名が虚しくこだました。
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