猛獣使いの彼女
@JIL-SANDRE
猛獣使いの彼女
「テオ。先行ってるからな」
グループセミナーが終わると、同じ専攻の仲間はそのままパブに直行する。僕は部屋の片付けを理由に、少し遅れて合流することにしている。鍵を返却し、その建物まで回り道をする。部屋を覗くと、いつもの場所に彼女がいた。
彼女は工房の一角で、自分の体より遥かに大きなカンバスと対峙していた。カンバスには幾何学的な模様の未来都市を背景に、ジャガーやオオカミなど獰猛な肉食動物が力強いタッチで描かれている。彼女はその群れを前に不敵に腕を組み、筆を重ねてゆく。
名前はまだ知らない。日本からの短期留学生で、絵画専攻に属している。その作品は、辛口でシニカルな教授からも高い評価を得ている。知っていることといえばそれくらいだった。
僕は、勝手な親しみと僅かなジェラシーをこめて、彼女のことをこう呼んでいた。
〜 猛獣使いの彼女 〜
その日は遅くまでパブにいた。セミナーから持ち越されたお固いテーマから、優勝争いを演じる地元サッカークラブの展望まで語り合ったところで話が尽きた。いつもなら会計を済ませている頃だが、こもって聞こえてくる雨音が僕らの足を重くさせていた。
その時、ドアの軋む音が聞こえた。振り返ると、濡れた傘をまとめる彼女がいた。
「テオ。声かけろよ」
「なんで僕なんだ」
「決まってる。この中でガールフレンドがいないのはお前だけだ」
女性に声をかけたことなんて一度もない。緊張のせいか、気の利いた言葉も浮かんでこない。彼女はカウンターに座り、店内を見回している。
「ほら、教えてやれよ。ロンドンの一番のおススメは中華料理だって」
背中を押され、一、二歩進んでみるが、その後が続かない。
やがて彼女のもとにビールが運ばれる。彼女は手を合わせ、そのままグラスをあげた。小気味よく小さな喉が上下する。
「おいしい」
僕でも知っている日本語だった。
「アー、良かったら、おかわりどうかな」
彼女はその声が自分に向けられていたことに気付き、こちらに振り向いた。
「サンクス。あの、お店の方ですか?」
後ろで笑い声が聞こえた。
パブでの一件以来、僕らはよく席を囲むようになった。彼女はリコといった。リコがいるのといないのとでは、テーブルの雰囲気がまるで違う。大袈裟な例を挙げればこんなことがあった。地元サッカークラブの優勝が決まる大一番、店内は白熱した試合展開に異様な盛り上がりをみせた。リコもサポーターに成り切って必死に声援を送った。ハイライトは味方のファウルにレッドカードが掲げられた時だった。それは明らかなミスジャッジと思われた。
「マジ!?」
騒然とする店内にリコの抗議するような声が響いた。その日本語の意味はわからないが、ニュアンスを汲み取ったのかもしれない。酔っ払った客が次々と「マジ! マジ!」と叫び始め、大合唱になった。喧騒の中、僕は耳を押さえながら声が届くように顔を寄せた。
「サッカー! 詳しいのかい!?」
「全然! でもドキドキする!」
高らかなホイッスルとともに試合が再開される。僕は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「Hi、リコ」
「Hi、テオ」
彼女をパブに誘うのは僕の役目になっていた。
「ちょっと待ってて」
リコは眉間に皺を寄せ、真剣な表情でカンバスを睨みつけている。
「ごめんよ」
「何が?」
「いや、制作の時間を奪ってるんじゃないかって」
「そんなことない。違う専攻の人と仲良くなれるなんて思ってもみなかったし、すごく刺激を貰ってるわ」
「ならいいんだけど」
後ろに立ち、動物たちに鮮やかな色が与えられていく過程を見つめる。生地と筆の擦れる音が耳に心地よい。
「いい絵だよね」
僕の声にリコが振り向いた。
「動物が生きてる。息遣いとかダイレクトに伝わるし、そこに存在しているのが体でわかるんだ」
「恥ずかしいな。好きなだけよ、動物が」
「それだけじゃない。描かれてる動物は絶滅危惧種ばかりだ。そこにリコのメッセージを感じたけど」
リコは驚いたように僕を見返した。
「ありがとう。本当に嬉しい」
パブでは見せたことのない笑顔だった。彼女の胸の奥にある感情に、初めて触れたような気がした。
ポケットの中の携帯が鳴った。待ちくたびれたのだろう。いつもの仲間からだった。リコと目があった。僕は着信を切って、再びポケットに捩じ込んだ。それが僕の意思だった。
「マジ?」
リコは悪戯っぽい笑みを浮かべた。僕もつられて可笑しくなった。
「お腹空いたね」
リコの絶妙なパスのように思えた。深呼吸する。あとは僕がシュートするだけだ。
「飲みに行かないか。その、ふたりだけで」
「すき焼き。母の作るすき焼きは最高なの。それと唐揚げでしょ。あとね……」
レストランでは食生活の話になった。この国では不便に感じることがままあるらしい。日本に帰ったら何食べたい、の問いに、彼女は思い出すように列挙していった。
「肉料理ばかりじゃないか」
「ホント。でも絵を描いているとお腹空くのよ。食べ応えのあるものが無性に恋しくなる」
「さすが猛獣使いだね」
「え、何?」
アルコールのせいもある。無意識に口にしていた。リコが聞き返す。僕は言い淀みながら、そのあだ名について説明した。
「気を悪くさせたなら謝る。本当にごめん」
「いいの。ユニークで面白いわ。私、猛獣使いなのね。ふふ、確かにそうなのかも」
リコは、悪戯でも思い付いたように含み笑い、真面目な顔でこう続けた。
「私ね、実はきつねも大好きなの」
「……What?」
「きつね。食べるの。とっても美味しいんだから」
唖然とした表情をしていたのだろう。リコは肩を揺らして笑った。
「あー、だめ。我慢できなくなってきた。テオ、時間ある?」
そこからの彼女は早かった。夜の街に出ると、大胆に大通りを横切る。そのままジャパンセンターに駆け込むと、急いで店内を物色し始めた。僕は遅れないようについていくだけだ。
「あったぁ!」
リコが手に取ったのはカップのインスタントヌードルだった。
「なんて書いてるの」
リコが得意そうに答える。
「赤いきつね」
「アカイキツネ?」
「Red fox」
「これがきつね!?」
リコの笑顔が答えだった。
女性の部屋に案内されたのは初めてだった。彼女はキッチンで支度し、僕はただ言われるがままにソファに座った。隣には、ハンガーや雑誌、ヘアピンなどが無造作に置かれている。彼女の生活ぶりを覗き見るような気がして、ますます落ち着かない気分になった。
「お待たせ」
リコがトレーを持ってやってくる。先ほどのヌードルがふたつ、テーブルに並べられる。
「ロンドンでこんな日が来るなんて、なんか不思議」
リコが感慨深そうに日本語で呟く。
「リコ、イングリッシュ、プリーズ」
「ソーリィ。さ、早く食べよ」
僕は、猛獣使いの儀式に沿うように手を合わせた。
「いただきます」
「イタダキマス」
まずリコがカップを持ち、静かにスープを啜る。
「沁みる……」
リコは目を瞑ったまま、深い息を吐いた。次にスープに箸をつけ、麺を口元に持っていく。僕も真似するようにスープに口をつける。
「It’s great! これ美味しいよ、リコ」
リコは黙々と食している。
僕はリコを横目に見ながら、遅れを取らないよう後に続いた。
最後のスープを啜り、リコは心の底から満足したように、ごちそうさまでしたと手を合わせた。僕は堪らず吹き出した。お腹の底から可笑しさが込み上げてきて、とうとう堪えきれなくなった。
「何が可笑しいの?」
「だって。こんな真剣にご飯を食べたことって今までに一度もないよ」
ひとしきり笑ったせいか、さっきまでの落ち着かない気持ちは消えていた。
リコは納得のいかない表情を浮かべている。
僕は真っ直ぐにリコの目を見つめた。
「リコ。僕と付き合ってほしい。僕は君のボーイフレンドになりたいんだ」
それからの1ヶ月は、とにかく慌ただしかった。リコには留学生展の発表が迫っていたし、僕にも個展の仕上げが残っていた。互いに制作する時間を最優先し、会うのは夜と決めていた。ハイだった。忙しすぎたせいもある。リコの部屋のドアを開けた次の瞬間には、もうキスをしていた。日付が変わっても僕らは眠ることをしなかった。真夜中にお腹が空くと、どちらともなく起き上がりお湯を沸かした。僕らは赤いきつねを食べたその唇でまたキスをした。油で光る彼女の唇を見ていると、もう一度キスをしたくなった。自分でも少しおかしくなっている自覚はあった。でもどうしようもなかった。それくらい彼女のことが好きだった。
帰国の日は、空港まで見送りに行った。出発までの間、空港内の喫茶店で時間を潰した。向き合うように座ると、リコが苦笑いを浮かべた。
「ひどい顔」
「お互い様だろ」
昨夜はリコの送別会だった。いつものパブで仲間たちと遅くまで馬鹿騒ぎをしたせいか、二日酔いと目のクマで顔はひどいことになっていた。
その後は、日本の天気を調べたり、お土産について話したりした。そんな話でもしていないと、寂しさで胸が潰れそうだった。
トイレから戻ってくると、リコの視線が、到着口に注がれていることに気づいた。その先を追うと、キャリーバッグを手に心細そうに辺りを見回している女性の姿が見えた。
「日本人かな。若いし、同じ留学生かもね」
そう言って顔を向けると、リコはポロポロと大粒の涙を溢していた。数ヶ月前の自分を重ねたのかもしれない。
「ごめんなさい。変よね、本当に。こんなんじゃないのに……、楽しかったの。忘れられないくらい……」
そのあとは言葉にならなかった。リコは顔を伏せたまま、肩を震わせて泣いた。
僕はリコに声をかける。
「リコ。顔上げて。ほら、見てみて。あそこ」
リコは涙を拭きながら、ゆっくりと顔を上げる。
そこには、先ほどの女性が男性と抱き合ってキスしている光景があった。
「再会だったんだ。ごめん、早とちりだった」
「……もう。恥ずかしいじゃない」
目があった。すぐにキスを交わした。
それは、また会うことを約束するキスだった。
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