ラプラスの悪魔 

石濱ウミ

プロローグ



 ……誰かに見られている。


 ふいに視線を感じて横たわった姿勢のまま、つと目を開けて……。


 驚いた。


 何を驚いたのかと言えばそれは、薄く黄味がかった見たことのない白色の空が目に入ったからなのか。あるいは名前も知らない白い小さな花の中で埋もれるようにして腹の上に手を組み、横たわっているからなのかは分からない。

 それにしても、眩しいばかりに白かった。

 ここは? と、思った瞬間。


 目の前に、影が落ちた。

 

 こちらを覗き込むような姿勢の人物。

 その顔を良く見ようと、目を細めてもすがめても、周囲が明るすぎるのだろうか。黒いスーツに身を包んだその顔だけが、陰ってしまい霞がかかったようにぼやけて良く分からなかった。


「ここは? ……どうして、こんな所に?」


 とりあえず、目の前の人物に問いかけてみる。


「……カミに選ばれたんだよ」


 そう言って黒いスーツの人物は、真っ直ぐに人差し指を一本立てると、そらへ向けて動かした。


「かっ……神さま? えっ? 

 えっ……じゃっ、じゃあ死んだんですか? え? ウソ? えッ?」


 焦る口調とは裏腹に、そうかだから白い花に埋もれるようにして横たわっているんだ、と妙に薄ら寒いほど冷静に納得をする。

 ……此処が、噂に聞くあの世か。

 ははは、黒いスーツとはね。

 途端に体中の力が抜けてゆく。


「まあ混乱するのは分かるが、神様じゃない。おかみに選ばれたんだよ」


 目の前の人物は、そう鼻で笑った。


「死んでない? オカミ? 女将さん? あ……あれ?」


「参ったな。……どこまでも覚えが悪すぎる。いや、覚えてなさすぎる、かな。……何か思い出せることはないのか?」


 上半身を起こすように促され、恐るおそるゆっくりと起き上がってみる。


「思い出せる……こと」


 視線を目の前の人物の頭の上、その向こうの遥か彼方まで続くような真っ白な花畑をぼんやり眺めて、記憶が蘇るのを待つ。


「……そうだ! 仕事帰りにいつもの店に行ったら臨時休業なんて張り紙がしてあったもんだから、すぐ近くの入ったことのないワインバーに行ったんだ……。で、キリッと冷えた辛口の白ワインをあれコレお勧めされて、飲み口の良さにするする飲んだけど実はそんなにアルコールには強くない方だから気づけば立ち上がるのもやっとで……あー……。以下記憶にございません」


「ひとりで飲んでたのか? 思い出せ。誰か一緒だったろ?」


 なるほど目の前の人物の口の悪さからすると神の使いなどでは無さそうだから、やはりここは、あの世ではないのかもしれないと、ぼんやり頭の片隅で考える。


 じゃあ、ここは?


「……いつもひとりなんですよ。ひとりが気楽で……あれ? んー……いや、居たな。隣に座ってた知らない人だけど、一緒に飲んでたっていうのかな。なんだか聞き上手な人だったことしか……。普段、そんなに喋らないんだけど乗せられちゃったというか。……あ、それがその女将さん? とかいう? うーん。女性だったかな? 男性だったと思うんだけど。あのワインバーには女将さんがいるの?」


 ふと疑問に思ったことを口にしただけで、これみよがしに『はぁーあ』と大きな溜息を吐かれる。


「……女将さんの事は、一旦忘れろ。その他に覚えていることは? お前の名前、年齢は?」


「あ、名前ね。……んー。あー……名前。名前ですよね。名前……?」


「お住まいは、どちらですかー? お仕事は何をされていますかー?」


 まるで人を食ったような態度に少しむっとしたが、今の状況が分からない以上ここは穏便に済ませたほうが良さそうだと考える。

 

「おすまいって住所でしょ? 住所……えっと住所はね……。んー? んー。うーん」


「分かりませんかねえ? 思い出せませんかねえ?」


「いやっ、分かりますよ。分かります……分かるはず……なんですけど……あれ? おかしいな。酔って……事故に遭いました? それで記憶喪失とか? ですかね?」


 そう言いながらも自分の名前すら思い出せないことに、再び血の気が引いてくる。


「まさか。それで良いんだよ。必要な記憶以外は全て抹消済みだからな」


「……はァ……必要? ……。

 記憶……抹消……? ……って抹消!? え……何が? なんで? どうやって!?」


「ところでここは、どう見えている?」


「え? いや……どうって……あの世? なんてね? あははッ」

 

 どこまでも清浄なる白い世界。

 黒いスーツの人物。

 無くした記憶。

 あの世にしか思えない。


「なるほど。バイアスか……くそ面倒だな」


「……バイアス?」

 くそ面倒?


「一度目を閉じろ……いいか? そのまま聞けよ。ここは、あの世ではありません。死んでもいないです。……さあ、目を開けてもう一度良く辺りを見回してみろ」


 目を閉じてしばらく後、ゆっくりとその閉じていた瞼を開いた。


「……? あれ?」


 白い天井、白い壁、透明な繭の形をしたカプセルのような物の中で、柔らかな白いキルトにくるまる自身の体。

 病院……ではない。

 どこかの病院というには、おかしな部屋だった。それに身体は何ともないどころか気を失うほど飲んだというのに、二日酔いですらない。どちらかといえば稀に見る目覚めの良さだ。


 もう一度改めて辺りを見渡すも、相変わらず眩しいばかりで良く分からない。不自然なまでに増幅された光か、さらにはそれ自体が光を発しているようにも見える白い壁はどこまでも白く、窓やドアは何処にもなかった。

 

 え? 全部が壁?

 窓もドアもない? 


「……ようこそ。こちら側へ。お前は選ばれたんだよ。ここはあの世じゃないし、お前が居たところでもないが、まあそれほど悪いところでもない」


「……え? 選ば……?」


「起きたんだから何をするのか、教えてやろうか? そう……仕事だよ。働かざる者……って知ってるよな? おっと、その前に、まずはお前にの名前を付けないと不便だな」


 ようやくはっきりと見えた目の前の人物は、そう言って、美しい顔ににんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。


 

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