半人

澄田ゆきこ

 親父を初めて殴り返したとき、おれはやっと人間になれたと思った。

 

 双子として生まれたから、飯も服も人間としての尊厳も、全部ふたりで一つ分だった。親父いわく、金がないくせに気づいたころには堕ろすこともできず、子どもを生んだらふたりも出てきてしまったのが災難だった。初産でふたりも腹から出した母親は気づいたら他の男とどこかへ消えていた。

 双子のうちひとりは男で、ひとりは女だった。梓音しおんと、李音りおん。「いもうと」の李音の方が少しでも女らしい所作をするたびに、親父はアバズレだと言って容赦なくぶん殴った。ふたりで同じ服を着まわして、ふたりで同じように短く髪を刈られて、おれたちはふたつの模造品として育った。

「なんでお前らふたりで生まれてきちゃったんだよ。どっちかだったらよかったのになあ」

 昼間から酒で顔を真っ赤にしながら、親父はよくそんな風にげらげら笑った。だからおれたちは、いつもふたりでひとりだった。いつ嵐が吹き荒れるかわからない家の中、自分を殺す以外に生きていく方法なんてどこにもなかった。少しでも我を出せば、「お前らみたいなお荷物を誰が育ててやったと思ってんだ」と、顔が腫れても乳歯が抜けてもお構いなしに殴られた。どうせ抜ける歯なんだからガタガタ抜かすなというのが親父の言い分だった。

 台風や地震のたびに崩れそうになる、トタンの狭いボロ屋。似たような建物がひしめき合っている集落では、周りの子ども似たような育ちで、助けを求める場所も、助けを求めていいのだという認識すら、なかった。仲良くしてくれたのは隣に住んでいた蓮ちゃんだけだった。おれたちはいつも飢えていた。飢えをしのぐために盗みは簡単に覚えた。だぼだぼの服の中で身体を泳がせながら、三人で服の中に菓子やパンを忍び込ませた。そうして得た甘いものを分け合って食べている時だけが、心から安らげる時間だった。

 パチンコに負けて帰ってきたこと。買った女がブスだったこと。建築現場の仕事でミスを怒鳴られたこと。蛇口の閉めが甘かったこと。作られた飯を大袈裟に褒めなかったこと。ふたりでしゃべる声が耳障りだったこと。親父がキレる理由なんてどこにでもあって、そのたびに暴力と罵声をとめどなく浴びた。

 李音はすぐに泣く子どもだったが、泣いたら親父は余計にキレた。いつしか李音を庇うのが当たり前になって、何かあった時のサンドバッグはおれの役割になった。何もかも同じだったはずのおれたちは、いつの間にかおれの方が身長も体格も大きくなっていた。おれは兄貴だから我慢するしかないと思った。口の周りが赤黒く腫れても、灰皿がぶつかって額から血が流れても、おれは絶対に泣かなかった。泣かない自分しか許せなかった。


 中学の制服は集落の中で使いまわされたお下がりでどうにかなったが、高校進学となるとそうもいかなかった。新品の制服を買えるのはひとり分だけ。李音が行きたがっていた都立の学校は、集落では誰も行く人がいないレベルのところだったから、お古なんて望めなかった。学校も勉強も嫌いだったおれと違って、李音は勉強がよくできた。掃き溜めから抜け出すためには知恵をつけるしかないとわかる程度には利口だった。

 どちらかが高校に行くために、どちらかを捨てるしかないなら、身を引くのは当然おれのほうだった。李音は恐縮していたが、頼まれてももう学校なんて行きたくもなかった。中学の間から働ける場所でちまちまと小銭を稼いだ。肉体労働で身体がばらばらになりそうになった。崩れ落ちるように眠りについた。「梓音、ごめんね」あわれみのような声が不快で、聞こえないふりをして寝返りを打った。

 李音が高校にあがってから、夜になると不審な物音が聞こえるようになった。衣擦れのような音。隣で横になっていた李音は、苦しそうな表情でぎゅっと目を閉じていた。息を殺すのは子どもの頃からだから慣れたものだった。親父の手が李音の身体の上を滑るのが見えた。何かを言おうとしたのに、泥のような疲労のせいで、金縛りみたいに身体が動かなかった。

 半人前のおれたちが人間様に逆らうことなんて許されなかった。抵抗をしたら事態はますますひどくなる。根元から折られて踏みにじられ続けた自尊心は簡単には戻らない。

 おれが働くようになってから、入れ替わりで親父が働かなくなった。李音もアルバイトはしていたものの、必要な学用品を揃えると、そう多くは手元に残らない。生活を支えるのはもっぱらおれの役割だったが、中卒がこき使われるような仕事の賃金などたかが知れていた。おれたちは鞭うたれる家畜だ。仕事場でも人間として扱われることがなかった。それなのに、手元の金は、たびたび親父に盗られて減った。

 憂さ晴らしに悪い遊びをいくつも覚えた。やがてそちら側に取り入ることを覚えると、実入りはぐっとよくなった。一番儲かったのは運び屋と、女に薬を回してソープとつなげることだった。悪い方に転がり落ちるのはあまりにも簡単だ。健全に生きてこれたヤツらを鼻で笑えるようで、破滅が愉快で心地よかった。

 親父の手癖はますます露骨になっていった。李音の女性性を去勢した当人が、李音を性的なオブジェとして扱っているのだからグロテスクだった。それとなく大丈夫かと訊いた時、李音は「何が?」と淡々と言った。火をかけた鍋の傍に座り込みながら、単語帳をじっと睨みつけている。

 その日親父は酔いつぶれてどろどろになって帰ってきた。機嫌は最悪だった。帰るなり傘立てを蹴飛ばして、聞き取れない呂律で何か怒鳴った。親父の濁った眼が李音をとらえると、「んだぁ、またお勉強かぁ?」と茶化すように肩を揺すった。しゃっくり。「ンなこと女がして何になんだよ」李音は息を殺して身を縮めている。何も言わないのが気に障ったのか、親父が急に李音に掴みかかった。「女だろおめえもよぉ、わからねえ馬鹿ならわからせてやろうか、あ?」親父は李音の胸倉をつかんで引き倒す。首元のボタンが乱暴に千切られた。ズボンの腰に手をかけようとする。「やだ! やだってば!」濁った甲高い声。「何やってんだクソ親父てめえ!」間に割り込んで引き離そうとしたおれは、まともに殴られてガス台にぶつかる。鍋から液体がこぼれ、ピーという音とともに火が消えた。

 かつてないほど血走った親父の目に、心臓がぎゅっと小さくなる。ぐらりと眩む視界の中でおれは立ち上る。恐怖を塗り潰したのは強い怒りだった。親父を力任せに突き飛ばして、頬に思いきり拳を入れた。金属製のラックを巻き込んで親父は派手に倒れる。

 不意の静寂。呼吸を整えながら、おれは李音に目配せをする。李音はしばらく放心していたが、転がり出るように家の外に出た。

「こンの野郎……!」

 親父が髪を逆立ててすごむ。首根っこを掴んで組み伏せた。もみくちゃになりながら、どうにか馬乗りの体制になる。さっきの一発は勢いの賜物だったが、次からは明確な意志があった。「おれたちはお前のオモチャじゃねえんだよ」殴り方は親父から身をもって教わった。一発。おれたちは人間だ。いつまでも好きにさせてたまるか。一発。鼻から溢れた血が手を汚す。親父の抵抗を無理に押さえつけながら、今まで殴られた分を全部返してやるつもりだった。何度殴っても足りない。塩水を飲んだ時みたいに、殴っても殴っても煮えつくような怒りと乾きに襲われる。

 親父がおれにそうしたみたいに、おれは親父が静かになるまで殴った。歯にまともに拳をぶつけたせいでおれの手も傷だらけになっていた。拳を真っ赤にしたのはおれの血か親父の血か。親父は怒りと怯えの混ざった目をしている。何今更被害者ぶっているんだと笑えてくる。笑い声はひとりでに喉の奥から洩れた。「お前アタマおかしいんじゃねえか」親父が吐き捨てる。声が震えている。「誰のせいだろうな」おれは親父の太い喉に両手をかける。力はいくらだって込められた。真っ赤になった親父の顔に太い血管が浮かぶ。手を引きはがそうとする力に必死で抗い、おれは喉を握りつぶす。歯を強く食いしばる。親父が血の泡に濁った声をあげる。やがて抵抗の力がなくなった。部屋の中に、正真正銘の無音が訪れる。搾取され続けた人間性をやっと取り戻せた気がした。


 おれは十六歳だった。どうにもならず路頭に迷った。惨めさと憎しみ以外の何も持っていなかったおれを、ある人間が拾った。親父の死体の処理もぜんぶその人が手伝ってくれた。悪い子どもはもっと悪い大人に利用されるのだということを、おれはその時全く知らなかった。

 子どものままでいられるのは、大人に庇護されるような守られたヤツだけだ。おれは生き急いで大人になろうとした。憂さ晴らしのための悪い遊びは現実逃避のためにどんどん激しくなった。飲み会のどんちゃん騒ぎにのまれて、無理して苦いビールを飲んで、辛くてキツい煙草を吸った。そうすれば大人になれるような気がしていた。


 十七歳。おれは豚箱にいる。

 真っ白な服を着せられて、教育を受ける。刈り上げられた髪は幼少期のころを思い出させた。味も素っ気もない、半ば余生のような生活。一寸先は闇。未来なんて何も見えない。

 蓮ちゃんだけは頻繁に面会に来てくれた。李音の面倒をずっと見ていてくれただけあって、蓮ちゃんは相変わらずお人好しで面倒見がよかった。おれのことも見捨てないでいてくれた。一年経ったらおれはこの場所を出られる。そうしたら一緒に定時制高校に通おうと誘ってくれていた。口約束なのか、おれを繋ぎとめるための口実なのか。必死さを隠し切れない蓮ちゃんの人のよさが、なんだか少し心配だった。

 

 十八歳。おれは原付を飛ばす。早めに教室について、音楽を聴きながら、やっていなかった分の課題をやる。ドラムの音が気持ちよく心臓を打つ。蓮ちゃんのバンドの曲を聞いていることは、本人の前では言わない。

 授業が始まるぎりぎりになって、バイトから直行の蓮ちゃんが慌てて教室に入ってくる。もう何人もやめてがらがらの教室の中、蓮ちゃんはおれの隣に迷わず座る。蓮ちゃんは体格がでかいから少し窮屈で、だけどその感覚がちょっとだけ好きだ。

 同じ教室に友達がいることも、優等生扱いされることも、掃き溜めの子だと白い目で見られないことも、おれにとっては全部初めてだった。頭を抱える蓮ちゃんに解き方を教えると、蓮ちゃんは年上のくせに「梓音はすごいなあ」と無邪気にはしゃいだ。わしわしと頭を撫でられる。子ども扱いされているみたいで癪だ。「あなたたちは兄弟みたいねえ」ふくよかなオバサン教員がおれたちを見てにっこり笑うから、おれはますます憮然とする。

 夜遅く、学校が終わった後。蓮ちゃんは自販機で甘ったるいコーヒーを買ってくれる。空になった腹の中に甘さがじんわりと沁みていく。ここでは無理して悪ぶらなくてもいい。訳ありのヤツばかりだから、普通から外れた居心地の悪さもなければ、下手な詮索もない。おれは苦いビールよりも、喉が痛くなるほど甘いコーヒーのほうが好きだったんだ、と気づく。

「梓音、卒業したらどうする?」「おれ、機械系いこっかな」「マジ? かっけー」おれにはずっと未来なんてないと思っていた。地に足のつかない、ふわふわとした感覚。これを幸せと呼ぶのだとしたら、なんて不安定なのだろう。

「そろそろ帰ろうぜ。李音にお土産買って帰んないと」呟いたおれに、「今北陸から帰ってきてんの?」と蓮ちゃん。「大学、夏休みだってさ」「九月なのに?」「大学って九月いっぱい休みらしいぜ」「うわ、ずりいー」

 他愛のない会話が、風にさらわれて飛んでいく。双子でも家族でも、おれたちはちゃんと別々の人間なのだと、自分のために生きてもいいのだと気づくために、呆れるほど時間がかかってしまった。

 生まれて初めて学校を楽しいと思えていた。

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