302話 解放奴隷の記憶
矢沢が気づいた時には、ダーリャの商店街に移動していた。
先ほどまでいた場所から数百メートル離れた地区で、ラナーがひいきにしている親父さんの店もすぐ近くにある。
だが、人通りの多さは桁が違っていた。昼頃にも関わらず大勢の人々が街へ繰り出し、飲み屋や商店の軒先には楽しげな声が聞こえてくる。
すると、その人々の間を縫うように、一人の女の子が駆け抜けていく。
肩のあたりまで届く黒髪に、可愛らしいうりざね顔。そして、健康状態の悪さを印象付けるやせ細った手足と低い背丈。体を包む衣服は煤や泥がこびりつき、もはやぼろきれ同然だった。手には小さなロールパンを抱えている。
あの子の顔は見たことがある。アクアマリン・プリンセスの乗客で、喜捨用奴隷のスラムで死亡が確認された山尾あかりちゃんだ。年齢は確か9歳、瀬里奈の1歳年下のはずだ。
彼女の背後からは、顔を真っ赤にした壮年男性が追いかけてきている。どうやら、手にしているロールパンは盗品らしい。
客船、それもアクアマリン・プリンセスは価格が割高であり、日本でも家計に余裕がある者たちがよく利用する。
その裕福な子供のはずのあかりちゃんが、見知らぬ異世界の道端で泥棒をしなければならない。そのような状況に追い込まれていることもそうだが、何と言っても彼女のみずぼらしい姿があまりにも悲惨すぎた。
できるなら手を差し伸べ、今すぐにでも保護して食事を与えたいが、そんなことは叶わない。矢沢も一ヶ月以上前に、回収されたあかりちゃんの火葬に出席していたからだ。
「これは、一体……リア、君が見せているのか!?」
アメリアの言葉によれば、これはリアが見せている映像ではないのか。そう思って声を上げると、リアではない誰かの声が話しかけてくる。
「いえ、エリアガルドの魔法ではございませんわ」
高くはっきりとした声と共に、矢沢の真正面に少女が現れる。やはり魔法使い風の衣裳を身にまとってはいたが、リアが着ているものとは全く別のものだった。
金や銀の機械的なラインが入った黒いプリンセスラインと呼ばれるワンピースだが、スカート部分の脚に沿って股関節より上まである長いスリットが入っており、前部分が前垂れのようにも見える。
背丈は日本人から見ても小柄なリアよりやや低く、黒縁メガネ越しに見える大きな瞳の丸顔は、年齢にして12歳程度と推測できる。髪型が丸まったショートボブということもあり、かなり幼い印象を与えるが、一方で彼女がまとう雰囲気は妖艶かつ成熟した女性を思わせる。
「君がこれを見せているのか?」
「その通りでございます。どうやら、異世界からいらしたという灰色の船がアモイに来航されるらしい、という噂を耳にしましたもので、調査のためにここへ滞在していたところでございますわ」
「では、なぜこれを私に?」
「あなた様だけにお見せしているわけではございませんわ。あの世間知らずの王族のお嬢様が、この腐りきったクソみたいなお国を変えるために演説なさるということなので、少しお力添えしてさしあげようかと思い立ちまして、わたくしが見かけた光景をダーリャの全域に生放送させていただいております。もちろん、あの子の背景などを交えた、わたくしの丁寧な解説付きでございます」
ふふ、と少女は柔和な笑みを見せる。とても物腰柔らかいと思いきや、明らかに汚い言葉も使う変な少女。彼女もジンなのだろうか。
「私の仲間がリアと同じ魔力を感じたと言っていたが、君もジンなのか?」
「はい。セーラン様から生を授かりました、ルイナ・グローリーと申します。以後、お見知りおきを」
「ああ、わかった」
ルイナと名乗る少女がワンピースの裾を軽く持ち上げて恭しく礼をしたため、矢沢も返礼する。彼女のことは色々と聞き出したかったが、それよりは今見せられている映像も気になっていた。
なぜ何の罪もないあかりちゃんが命を落とすことになったのか。彼女の両親に説明するためにも、全てを見届けなくてはいけないのだから。
「ふふ、あの子が気になるのなら、そう仰ってくださればよろしいのに」
ルイナは笑みを浮かべながら言うと、そのまま口を閉じて矢沢の隣に立ち、ボロボロになりながら走るあかりちゃんへと目を向けた。
驚いたことに、あかりちゃんが駆けていく先には戦闘用の衣裳に身を包んだラナーがいた。人混みを避けていく中でラナーの姿を捉えられていなかったのか、恰幅のいい女性を避けたところでラナーと衝突した。
「いったた……」
「あう……っ!?」
ラナーとあかりちゃんは互いによろけて尻もちをついた。先に立ち上がったのはラナーで、あかりちゃんに対し手を差し伸べる。
「大丈夫? 立てる?」
「……っ!」
ラナーはあかりちゃんに手を貸したが、彼女は怖いものを見たかのように目をぎょっと瞑り、そのまま立ち去っていく。間髪容れずにパン屋らしい男がラナーの脇を擦過し、あかりちゃんを追跡していく。
すると、唐突に場面が切り替わる。ラナーに案内された喜捨用スラムの入口で、あかりちゃんがパン屋の男に追い詰められるところだ。
「おい、よくもウチの商品を汚してくれたな! どう落とし前つけるってんだよ!」
「ううっ……」
あかりちゃんは恐怖を顔に張り付かせ、声も出せずにいた。ただ震えて男の怒声を浴びるだけだった。
何も答えないあかりちゃんに対し更に怒りを募らせたのか、男は彼女の胸倉に掴みかかり、そのまま壁に叩きつける。
「う……あ……」
「何とか言え! お前のようなゴミに価値を持たせてやってるのは誰だと思ってんだ!」
「や……」
そのまま、あかりちゃんは抵抗もできずに男になぶり者にされていた。何度も全身を殴られ、性的暴行を加えられ、そして死ぬまで再び暴力を振るわれる。
それでもなお、あかりちゃんはパンを手放そうとはしなかった。もはや砂だらけで、一般人からすれば食べられそうもないものを大事に抱えたまま、あかりちゃんは息を引き取った。助けを呼ぶ声どころか、涙さえも出ないままに。
「……っ」
「あの下衆はアフムドネイト・アッサラ、商店街でパン屋を構えている者でございます。パンは奴隷に作らせ、ご自分はお客様と会話を楽しむだけですわ。労働とはなんでございましょうね?」
「少なくとも、私たちの常識とは噛み合わない」
「倫理観は文化ごとに違うものですわ。アセシオンにはアセシオンの、アモイにはアモイの倫理というものがございます」
ルイナは顔色一つ変えずに答えるが、言葉の各々には少なからずトゲが見られる。彼女もリアと同じく、奴隷制度には辟易しているのだろう。
「さらにアモイのゲスなところは、被差別民族出身の王族にはこれの詳細を伝えておられない、というところですわ。もちろんダーリャに住めるような格の高い市民には公然の秘密ですが、余計な混乱を起こさせないためにも、黙っておいた方がよろしいというお考えのようでして」
「だからラナーはあんなに怒っていたのか」
「あのお嬢様も被害者ですわ。侵略と差別の果てにお生まれになられた、哀れな1人の女の子でごさいます」
ラナーの身の上は詳しく聞いていないが、ルイナが言うには彼女もまた被害者なのだという。確かに今までの仕打ちを見れば被害者だと言いたくもなるが、それ以外にもまだ何か隠されていたのだと思うと、矢沢の心にも重いものがのしかかって来るような気分になる。
「他の邦人のものはないのか。顛末が知りたい」
「わかりました。それでは……いえ、あいにくですが、お時間のようですわ。では、また次の機会に」
ルイナが再びスカートを持ち上げてお辞儀をすると、目の前の映像が霧散していく。そして、元の人だかりができる通りに戻っていった。
「ああ、ヤザワさん!」
「アメリアか。さっきの見たか?」
「はい。しっかり見ちゃいました……」
アメリアは思いつめた顔をしながら目を逸らす。彼女にとっても、先ほどの映像は衝撃的に過ぎたのだろう。
「あの……あんなことが色々なところで起こってるなら……」
「ああ。ますます止めなければならない」
矢沢はアメリアの肩を抱き寄せ、声も出せず涙を流す彼女に付き添った。
通りは人々がざわつく声で満たされていた。その全てが、自分たちが見て見ぬふりをしていたことへの後悔の言葉であれば、どれほどよかったかと、矢沢は一人考えていた。
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