261話 無理な要求
「別の話?」
「その通り。具体的に言えば、灰色の船との交渉窓口として君を使いたい、ということさ」
ジャマルは襟を正して微笑を浮かべる。どうやらふざけているわけではなく、本気で矢沢を交渉窓口として使いたいと考えているようだ。
だが、この状況下では不利な条件を呑まされる可能性が高い。最初からハンデを食らわされている中で、一体どこまで有益な交渉ができるかが鍵だろう。
難しいが、やるしかない。矢沢の前にも後ろにも、助けるべき人々がいる。後ろには思い浮かんでくる顔も多い。銀の助けもあったからだろうが、やはり守るべき者の顔を思い浮かべると、人は案外耐えられるものだ。彼らを過去にあった恐ろしい目に遭わせるわけにはいかない。そう思うだけで、自分が受けていることも意味があると信じられる。
そんな気など全く知らないであろうジャマルは、表情を崩さず言葉を続ける。
「君たちの目的はわかっている。アセシオンから流れてきた奴隷の中には君たちの仲間がいて、彼らは不当に拘束されたから助け出したい、ということだけど」
「概ねその通りだ。この国への潜入活動も交渉の下地作りとして行っている」
「ま、やり方の1つとしては間違っていないんだろうけどね。ただ、無断で国内をうろつき回られると私たちもいい気がしない」
「それはすまなかったが、喜捨用奴隷にされた邦人の方は命の危険が差し迫っていたので、先に回収させてもらったのは悪いと思っていない」
「保護対象の救助にはなりふり構わない、か」
「その通りだ。邦人の命が脅かされれば、無制限の武力行使や青天井のエスカレーションも厭わない」
矢沢は強い言葉で断りを入れる。これは譲れない一線であって、他のどんな条件が出されようとも譲る気は一切ないのだから。
今の話し合いはあくまで前提条件の確認でしかない。そこで繰り返し邦人の命が譲れない一線だと明確にしておくことで、交渉の行き詰まりを避けることができる。相手が邦人の命を脅かすことを譲らないのだとすれば、交渉はそこで打ち切ればいい。
「だが、それ以外であればある程度は融通できる。この国を改革するのであれば、日本の教育制度をある程度開示してもいいし、国力が問題ならば、砂漠の緑地化や面積当たりの収穫量大幅改善の技術を提供できるかもしれない。この国がすべきことは奴隷からの脱却だ。そのためには、国民の意識改革と侵略に頼らない国力の基盤が必要となる。違うか?」
「まあ、確かにそうだが……」
ジャマルは面食らったようで、目を見開いて矢沢をじっと見つめていた。
彼が頑なな保守派ではないことはわかっている。この大きなチャンスを利用して押し切ることができれば、かなり有利な方向に傾く可能性さえあるのだ。
「奴隷を使わず、戦争もせず、国王も含めたあらゆる者が差別を忘れ、働く喜びを覚えてコミュニティに奉仕し、自力で成長できる国は他国からも尊敬を集める。群雄割拠の人族国家群から揃ってゲスと呼ばれ、ジンからも呆れられる今の状態から、世界の尊敬と信頼を集める一流国家となれる。信頼は他国との貿易で最も重要な要件だ。邦人を解放してくれれば、そのための協力は惜しまない」
「全く、君は本気で言っているのかい?」
あまりに話が突拍子過ぎたのか、ジャマルは半信半疑といった目を向けてくる。
無理もないだろう。当事者から見れば悪魔の囁きにしか聞こえない。
とはいえ、そのノウハウが実際にあることも事実だ。偶然にもアセシオンで救出した邦人にはJICAでの活動経験がある看護師や教師が含まれており、国際環境NGOの職員2名はアモイに送致されたと考えられている。彼らの力を借りれば、この交渉を成立させることも可能だ。
「決して冗談で言っているわけではない。そちらが奴隷制から脱却すれば、邦人を捕まえている意味はなくなる。互いに利益のある取引だ」
「すぐに達成できるなら文句はないんだろうけど、それは長期的なスパンで考えるべきことじゃないか。交渉材料にはなり得ない」
「む……」
矢沢は口をつぐむしかなかった。その場で利益が望めるものでないと相手は応じてくれない。必ず成功するという保証もないので、言ってしまえば博打だ。
しかし、向こうから交渉を望むということは、何かの利益を引き出せると狙っているはずだ。矢沢に提示したあの条件ではなく、本当に望むものが。
そして、今はアモイ側が優位に立っている。これ以上の無用な駆け引きを行うことなく、本音を出してくれるはずだ。矢沢は思い切って、それを聞き出すことにする。
「ならば、そちらは何を望む」
「そちらの武力。今のところ、アモイは農耕地の拡大と奴隷の追加供給を狙っている。君たちの噂はかねがね聞かせてもらっていてね。海上では敵なし、陸地の奥深くにも影響を及ぼせるとなれば、無用な犠牲を出さずに2つの戦争に勝利できると踏んでいる」
「バカな、侵略戦争に協力するだと……!?」
矢沢は戦慄した。彼らはあおばに戦争をさせようとしている。それも、領土占領や奴隷獲得目的での、独善的な侵略戦争を。
そんなことにあおばを動員できるわけがない。今までは邦人を守るために、もしくは自衛するために武力を行使してきた。それを捨て、侵略戦争に協力するとなれば、本格的に地獄へ堕ちることになる。
人質と引き換えにした、侵略戦争への協力。こんなことを航海日誌に書けるわけがない。
「それは……我々の精神と規律に大きく反する」
「……そう言うと思っていたよ」
ジャマルはふぅと一息つくと、ゆっくりとその場を立った。
「仕方ない、撤収しよう」
そう口にするなり、彼は牢屋を後にした。矢沢に考えろと言っているのだろう。
あの条件が本気だとすれば、とても呑めたものじゃない。彼らに侵略戦争をさせるなど、自衛隊の存在理由を全否定する行為だ。
交渉は行き詰まってしまったようだ。というより、そもそも本気でさえなかったのかもしれない。
矢沢は無力感に打ちひしがれながら、体の力を抜いて眠ることにした。
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