256話 人を守る者として

「ぶはっ! はぁ、はぁ……」


 水面から顔を上げた矢沢は、できる限り息をしようと胸いっぱいに空気を取り込む。だが、すぐに頭を手で押さえつけられ、再び海水を張った桶に顔を沈められる。


 かれこれ4時間は続く過酷な水責め。体のあちこちがふやけ、十分な酸素を取り込めない苦しさで意識も朦朧としてくる。


 水から引き上げられると、拷問の監督を行うマウアの姿が目に入る。激しい怒りをはらんだ瞳は、ひたすらに慈愛の感情を取り除いた冷たい光を映していた。


「どうしても吐く気にはなれないのね?」

「全て、話した……仲間は、この近くには、いない……」


 矢沢は息を整えつつ、数時間ずっと繰り返してきた答えを口にする。仲間の数と場所を聞かれているが、近くにはいないと一点張りを続けるのだ。


 そもそも、今の矢沢にさえ艦隊の場所はわからない。艦隊は矢沢の情報提供を恐れて別の場所に移動したはずだ。


 だが、マウアは答えに満足できず、顔を真っ赤に染めて大声を発する。


「場所を教えなさいって言ってるの! それと戦力も!」


 怒鳴り声と共に、鞭の一撃が頭に加えられる。今までの苦しみとは全く異質な、一瞬で与えられる衝撃で強引に意識を覚醒させられた。


「この近くにはいない……戦力も、隠匿する義務がある……」

「ああもう、続けなさい!」


 矢沢はひたすら同じ答えを続けるが、それに納得できないマウアは傍にいた拷問の執行者らしい人族の男に拷問を再開するよう命令する。男はビクッと体を震わせると、何も言うことなく矢沢を頭から押さえつけ、海水の桶に突っ込んだ。


 どこにあるかもわからない地下牢。海水が使われていることから海の近くには違いないが、正確な場所は一切不明。マウアがいることから、彼女が配属されているダーリャに近いことは推測できるが、それ以上のことはわからない。


 今頃、艦隊やあおばはどうなっているだろうか。こういう事態が起こり得ることは了解していたが、艦長の職務は副長や経験の深い幹部たちが代行、もしくは支援できる。それより、自分が7年もの間培ってきた特別警備隊の経験を活かすべきだと判断した。その結果がこれだ。


 もちろん、特別警備隊でも拷問に耐える訓練など受けてはいない。それでも気力を保っていられるのは、自分を犠牲にしてでも彼らには職務を全うしてほしいという思いがあってこそだ。


 本来、艦長というのは重要な役職で、艦の中心となるべき人物だが、それでも矢沢は邦人の救助を諦めたくなかった。日本に帰れる保証は未だにない中では、拉致された邦人たちは誰の助けもなく辛い時間だけを過ごすことになる。


 そして、それは自衛官として、同じ日本国民として、決して見過ごせないことだった。阪神淡路大震災、東日本大震災と、自衛隊には超法規的措置、いや、法律違反を犯す場面が何度かあったが、それは誰もが国民を助けたいという一心で行ったことだろう。その結果、日本人の財産に傷をつけるようなことがあっても、それは許容されてきた。


 今回はそれとは全く次元が違うことではあるが、それでも国民を助けるという自衛隊の義務は変わることがない。むしろ、政府が動きようがないにしても、自衛隊がいるのに日本人が拉致されたまま指を咥えて見ていろというのは、あまりにも酷な話ではないか。


 もちろん、シビリアンコントロールを逸脱しているのは理解している。それでも、日本とかかわりが無いこの世界で邦人を助けるには、こういう方法に打って出るしかないのも事実だ。


 地球とこの世界が繋がって日本が出て来れるようになるなら、その時は自分が責任を取って自衛隊を去ってもいい。だが、せめてそれまでは、助けるべき国民の救助に全力を傾けたい。


「ぶほ……っ」

「あんた、しつこいのよ! 早く言いなさいっての!」

「何度も……言っている、だろう……近くには、いない……」

「ああもう! はぁ……ダメね。今日は中断よ」


 自ら引き上げられた矢沢は変わらない怒りの質問を受けるが、それでも同じ答えを返す。


 すると、マウアは呆れたのか真っ赤な顔を冷やし、かぶりを振ってその場を後にした。試合に負けて退出していった野球選手さながらの寂しげな背中を見送ると、矢沢は人族の男にずだ袋を被せられる。その後は少しの足音がしただけで、後は自分の荒い息しか聞こえない静寂の世界となった。


 ただひたすらに辛い拷問。2日前から断続的に行われるこれは、気力を奪い去るには十分に強力な方法だろう。


 だが、それでも矢沢は情報を吐こうとはしなかった。自分はなるべく暴力を否定し、対話を重視したいと、そのための抵抗だ。


 だからこそ、こういう暴力に屈し、情報を渡すようなことはあってはならないのだ。


「全くもう、あんたって強情よね」


 朦朧とする頭で考え事をしていると、ふと聞き覚えのある声がする。


 こんな絶望的な状況下で知り合いの声がする。それだけでも、矢沢の心は緩んでしまう。


「まさか、銀か!?」

「その通り。あいつら、アタシのことなんか全く眼中にないわ。ま、ネズミだからってこともあるんでしょうけど」


 銀はクスクスと笑いつつ、矢沢のずだ袋を取った。凛とした少女の顔を見ると、矢沢は安心して脱力した。

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