165話 逆転

 護衛艦あおばの居房には、新たな客人が収監されていた。

 アセシオンの現皇帝ことジョルジュ2世と、元アセシオン最強の騎士ヴァン・ヤニングス、その従者である少女だった。IEDの爆発を生き延びた侍従や護衛などはフランドル騎士団の管轄であるサザーランドに収容しているが、3人だけは騎士団の最重要目標なので、勝手に交渉などに利用されないよう自衛隊側が収容している。

 居房の床面には、すべからく魔力収束を阻害する魔法陣を展開している。ここで逃げられてしまえば全て水の泡だからだ。

 ここ数日は誰の接触も許していない。ヤニングスはともかく、気の短い皇帝にはクールダウンの時間が必要だ。自身の状況を認識してもらうためにも。


 皇帝拉致事件から1週間後、その居房を訪れる者がいた。彼女は自衛隊の制服をまとってはおらず、白地のワンピースの裾には魔力収束を補助する紫の魔法陣が描かれていた。

 少女は客人の1人が収監されている房の前に立つと、仄暗い灯りに照らされる部屋の主の姿を見た。


 彼の象徴的な装身具である赤いマントや金の王冠は没収され、アクアマリン・プリンセスで販売されている白い上下の下着のみを着せられている。顔の下半分を覆っている髭も手入れがなされず、雑草のように伸び放題だ。


「お久しぶりです。皇帝さん」

「貴様……!」


 アメリアは皇帝に優しげな声を投げかけるが、目は一切笑っていない。

 自分を見下していると悟った皇帝は、居房の内外を隔てる柵に取り付いて大声を放った。精神状態が不安定なせいか唾を飛ばしても気にも留めなかった。


「いつかとは状況が逆転しましたね」

「逆転だと? 違うな、お前たちはアセシオンの全てを敵に回した。今に見ていろ、近衛と領主軍が貴様らを葬るために進撃するぞ」

「既にアセシオンが持つ大多数のグリフォンと、40隻を超える艦隊に襲われました。それでも見ての通り無傷です。ヤニングスは私が倒しました。もう恐れるものは何もありません」

「この、図に乗りおって……!」


 皇帝は鉄格子をガタガタと前後に揺らし、怒りのボルテージを上げつつあった。それでも無意味なことには違いないが。


 アメリアは今の状況を強く認識していた。

 理不尽な行為で家を潰して財産を取り上げ、母を殺害し、自分を地獄に叩き込んだ張本人。それが一切の味方もなく無様に捕らえられている。


 これほどのチャンスがあるだろうか?

 多くの人々を、母を、そして自分を、大勢の人々を絶望の底に投げ入れては悦に入る人でなし。


 ここで彼を殺害すれば、人々は幸せになれるのでは?


 アメリアの心には魔が差していた。

 この男を殺せば、二度とこの悪魔は人を不幸にできなくなる。それは人々のためになるのだ。


 ごくり。アメリアは唾を飲み込むと、格子を揺らしては罵声を浴びせる皇帝をじっと睨みつけた。


「な、何だその目は! 貴様、豚を見るような目で……!」

「豚さんを悪く言わないでください。少なくとも、あなたより遥かに高潔な動物です」

「なんだと、この!」


 アメリアは淡々と事実を述べただけだったが、それがさらなる皇帝の怒りを呼んだ。彼は格子を何度も蹴りつけ、ここから出せと何度も喚き散らした。


 みずぼらしく哀れな生き物。アメリアの目には、そうとしか映っていなかった。

 ここまで下賤な生物が人々の上に立ち、人の命をもてあそんでいたと考えると、腹の底から怒りが湧き上がってくる。こんなクズが要人扱いされているのがどれほどバカらしいか。その理屈ばかりが脳裏に浮かんでは消えていった。


 殺したい。ここで死んだ母の仇を討てる。

 無意識に呼吸が荒くなり、拳に力が入る。


 だが、そこに響いた声がアメリアの心の闇を振り払った。


『あんた、なに考えてんのよ』

「あ、まーくん……」

『銀って呼びなさいよ!』


 まーくんこと銀の声だった。今は休憩中だったはずだが、もう目を覚ましたのだろうか。

 銀はアメリアの体内で暮らしているうちに、彼女の魔法防壁の影響を強く受けるようになったという。アメリアの魔力で人の姿を取れるようになったのが一番わかりやすい例だが、数十メートル程度の近距離ならばアメリアの魔法防壁に介入し、声に出さずとも意思を伝えられるようにもなっているのだ。


『それより、この男をどうしようとしたの?』

「えっと、それは……」

『あんたはもう昔のあんたじゃないでしょ。それに、無為な人殺しはあの人が悲しむと思わない?』

「あの、人……」


 アメリアが脳裏に浮かべたのは、今や見慣れた中年の男だった。

 矢沢圭一。アメリアを仲間に迎えてくれた、世界で一番大切な人間。

 この皇帝を殺せば、確かに自分の心は少しでも満たされるだろう。ただ、それは一時の快楽でしかないこともわかっている。

 ここで道を踏み外せば、矢沢に見捨てられてしまうかもしれない。それだけは嫌だった。


「……っ」


 アメリアは拳を解き、体の力を抜いた。


 この男は過去のしがらみであり、未来への脅威だ。

 他人を陥れる欲求というのは、極めて甘美なものだ。他人を蹴落とすことで自分の安全を保障し、他人の不幸をわらい、そして優越感に浸る。最も顕著なエゴイズムであり、麻薬と同じように強い中毒性を持っている。


 アメリアはここから立ち去ることに決めた。これ以上皇帝に関われば、理性が飛びそうな気がしたからだ。


 湧き上がる破壊衝動を抑えて踵を返し、ふっと息をつく。そして、できる限りの冷たい声を吐き捨てた。


「では、さようなら」

「おい、待て! 貴様!」


 アメリアが立ち去った後の居房には、下賤な男の喚き声だけが虚しく響いた。

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