番外編 記憶の底から・油と嘘の涙 その1

「ふぅ……」


 矢沢は今日の分の書類整理を終え、一息ついてからペンと判を置いた。

 アメリアと瀬里奈を救出するために10日以上も留守にしていたせいで、佳代子の仕事を増やしただけでなく、処理しきれない書類の束が机の上に出来上がってしまっていたので、寝る暇も惜しんで書かなければならなかったのだ。

 おまけに、佳代子が無断で部屋を使っていたらしく、ソファの下からは見覚えのないジュース缶と一昔前の携帯ゲーム機を発見する始末だ。とはいえ、佳代子のゲーム機ではあったが、瀬里奈が持ち込んでいたというオチがつくのだが。その処理や返却まで押し付けられた形になる。


 だが、それも今日で終わった。矢沢は席を立ち、腕を上に伸ばして体をほぐす。


 思えば、この世界にやって来てからもうすぐ2ヶ月が経とうとしている。向こうの世界では、あおばやアクアマリン・プリンセスの蒸発をどう受け止められているのか。気にならないわけがなかった。


 隊員たちにも家族がいる。残された者たちは絶望しているのか、それとも、ひたすらに帰りを待っているのか。

 そして、矢沢にも子供がいる。矢沢晴斗という、この世で一番大事な人だ。


「晴斗……私は必ず戻る。それまで待っていてくれ」


 テーブルに置かれた額縁入りの写真に話しかける。そこには瓶底のように分厚いメガネをかけたボサボサ頭の少年と、今は亡き茶髪の素朴な顔立ちの女性が写っていた。


 その時、艦長室のドアがノックされた。コンコン、と軽くも礼儀正しいノック。自衛隊員ではないが、瀬里奈でないことは確かだ。


「誰かね」

「フロランス・ジョエル・ド・フリードランドと、アメリア・フォレスタル、それからオオハシ・セリナよ」

「本名を言う必要はあるまい。入りたまえ」


 矢沢が入室を促すと、フロランスとアメリア、瀬里奈が順に入ってくる。部屋には応接用のソファが置いてあるが、さすがに4人も部屋にいると狭く感じる。


「また遊びに来たで!」

「へえ、ここが艦長室なんですね……」


 無遠慮にソファへ飛び乗る瀬里奈はともかく、アメリアは胸の前で手を握りながら目を輝かせていた。そういえば彼女の父は船を用いる商人と聞いていたが、その影響だろうか。


「それより、なぜここへ?」

「暇つぶしに決まっとるやん! もう豪華客船は探検しまくったし、暇で暇でしゃーないねん」

「暇つぶしで艦長室に乗り込んでこられても困るのだが」


 呆れる矢沢だったが、そんなことは3人には関係ないらしい。フロランスは何かを期待するかのように矢沢を見つめ、瀬里奈は書斎机の周りを漁り始め、アメリアは部屋全体を眺めていた。


「はぁ……しょうがない。つまらないだろうが、話くらいはしよう」


 これ以上何を言っても無駄だと悟った矢沢は、仕方なく折れて彼女らに付き合うことにした。


「ふふ、感謝するわ」

「ほな、おっちゃんが自衛隊に入るきっかけ教えてな!」

「入隊のきっかけか……」


 ソファに座る瀬里奈が期待の眼差しを矢沢に向けている。


 小学生が理解できるような話かと思ったが、別に隠しているわけではない。アメリアらに地球のことを知ってもらういい機会でもある。


「わかった。話そう」


 矢沢は机に寄りかかると、遠い昔のできごとのように語り始めた。


  *


『私はイラク兵に虐待された友人と会いました。彼は22歳なのに、まるで老人のようでした。イラク兵からプールにつけられ、溺死寸前にさせられ──』

「ひどいことしやがるな、イラクの奴ら」


 角刈りの大柄な青年が、冷ややかな目でブラウン管テレビの映像を眺めながらぼやいていた。それを見たもう1人の線が細い青年は、傍で大盛りの煮干しラーメンを飲み込んでから口を開いた。


「雪城、騙されるな。アメリカ英語を話すクウェート人なんて政府関係者以外に聞いたことがない」

「信じてねえのかよ矢沢? 難民の子供なんだぜ?」

「政治ショーに子供を使う者など信用できない。お涙頂戴はドラマだけで十分だ」


 角刈り男こと雪城裕理は食って掛かるが、線が細い青年こと矢沢圭一はラーメンの汁をすすっているばかりで構おうとはしない。


 矢沢は政治のことなどよくわからないが、歴史の教科書を少し眺めているだけでもわかることがある。

 プロパガンダというのは、とにかく広い範囲にバラ撒くことが重要ということだ。

 戦時中の日本では軍が公然と英語を使い、海軍では英語が隠語にすら使われた一方で、民間は新聞などマスメディアや自警団などにより徹底的な英語の排除が行われていたという。

 他方ではアメリカがディズニーやポパイなど子供向けのキャラクターを使って日本を倒すアニメを流すなど、プロパガンダは大きく流れていた。

 それに加え、ベトナム戦争では米国で広範囲に渡る反戦活動が行われ、日本でも学生闘争で社会に大きな影響を与えている。


 この難民少女もその一端に過ぎない。イラクもクウェートの残党も、結局は自分たちに利益のあることしか言わないのだから。


「この事態にはアメリカもお冠だな。戦争が近いかもしれないな」

「もう決まったようなもんだろ。アメリカは多国籍軍を作るために有志を募ってる」

「中東きっての軍事大国とはいえ、核兵器のない奴ら相手に容赦はしない、か」


 矢沢はニュースで繰り返し流れているイラク情勢の映像を眺め、これからの事態をざっと予測した。


 戦争が起こるとすれば今年から来年にかけて。結果はアメリカの勝利だろう。アメリカも伊達にソ連と冷戦を繰り広げてきたわけではない。後ろ盾が存在しないイラクはベトナムやアフガニスタンのようにはなれない上、アメリカも前の轍を踏まないと言わんばかりにイラクの非人道性を必死になってアピールし、国民や国際社会を説得している。


 テレビなどの報道を通じて戦況がつぶさにわかる時代になったからこそ、日本へ行ったような徹底的な民間人虐殺を始めとする総攻撃は、ベトナム戦争においてはマイナスにしかならないことを痛感したことで、米国は仲間を増やすだけでなく「協調する」ことを急務としているのだ。


 そこで心配になるのは、日本へ参戦要求が来ることだ。日本は米国と安保条約を結んではいるが、それは一方的なもの。集団的自衛権も認めていない。それを不公平だと言い出すのは時間の問題だ。


 だが、日本は派兵することはできない。そもそも敵国への攻勢でさえ憲法で禁じられているというのに、全く関係のない戦争に派兵するなど言語道断だろう。

 冷戦が終わった今、日米関係の重要性は低下する。投入されている予算に対して防衛力が低すぎる現状を鑑みれば、日米安保の見直しや終了といった話になってしまえばお先真っ暗だ。


 憲法堅持か米国との協調か。日本は踏み絵を迫られる。


「この話、自衛隊にも直に影響するな。雪城、任官拒否するなら付き合うぞ」

「任官拒否だって? 誰がするかよ。日本の周りは平和になりかけてる、自衛隊に行っても戦うことなんてないさ。オレは護衛艦の艦長になりたいんだよ。お前だってそうだろ?」

「……そうだな」


 防衛大を志望したのは家が大学へ行くお金を出せなかっただけで、元から矢沢は任官拒否するつもりでいるのだが、今それを雪城に話すことはない。


 会計を済ませた雪城と矢沢は古びたラーメン屋を出ると、再び中華街へと消えていった。

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