第9話 紅い月

「貴様は半分はいやしき人の子だが、半分は我らと同じ魔族の子。さあ、その手で魔王様の封印を解けば目覚めた魔王様に、命だけは助けてくれるよう嘆願してあげましょう」


「ちが……う……」


 眉をよせ精一杯声に逆らおうともがく。

 なおも頭に響く甘いささやきが、ラシェルの耳をくすぐる。


「違う!違う!俺はお前たちとは…………――っ!」


 すると女がまた手をかざす。

 そこに映し出されたのはラシェル自身。

 鏡のようにラシェルを映すそれから目がそらせない。


 今日のために新調した服は、すでにところどころが破け服の色も白からどす黒い赤にかわっていた。

 しかしそれ以上に


「うそ、だ、こんなことが」


 月の光をうけ煌めく銀髪のその間に見えるのは、見慣れた黒い瞳ではなく深紅の瞳。

 それは目の前の女と同じ、さっきまで見ていた村人と同じ、悪魔と罵られ、惨殺されたものたちと同じ色の瞳を映し出していた。

 水鏡に映る己の変わり果てた姿を否定するように強く首を振る。


「嘘だ、まやかしだ!」


 叫んだ唇を自分の何かがかすめた。

 恐る恐る自分の唇に触れる。そしてその指先は今までなかった鋭いなにかをみつける。

 おぞましい決して人のもつものではない。


「ようやく認めたようだね。その瞳その牙。われら一族の証、私とあなたは同じ血を引く者」


 女が笑う。


「さあ。見せてごらん。本当のあなたを私に」


 ただの嗜好としての吸血。愛の証としての吸血。呪いとしての吸血。


 ラシェルの肩が強張った。女は微笑を浮かべる。残酷な笑み。

 白い腕でそっと包み込むように王子の体を持ち上げる。意識の無い王子の頭が重力に従い後ろにのけぞる。

 あらわになった顎から肩にかけての曲線を、女の白くほっそりとした指先がなぞる。

 いまや女の顔は獲物を捕えた獣のごとく恍惚とし、真っ赤な唇から見える鋭い牙が、いまにも王子のあらわとなった首筋にかみつきそうだ。

 恐怖がラシェルを襲った。


「……ラ、シェ……ル……」


 その時、眠っているはずの王子がほんの少しだけ意識を取り戻した。そして無意識にラシェルの名を呼ぶ。


 刹那ラシェルの中で何かがはじけた。


 「ラシェル」と名を呼ぶ優しく柔らかな声。

 真っ直ぐで力強い眼差し。

 初めて自分に手を差し伸べてくれた人。


「リーン様」


 人間も魔族も関係ない。

 過去も未来も知らない。

 ただ守りたい!

 どこか遠くで、なにかが崩れるような音を聞いた気がする。


「離せっ!」


 ザッと夜の冷気よりなお冷たい風が女の頬を打った。

 静寂が訪れた。

 森の変化に気が付いた動物達は、すでにここにはいない。

 さっきまで波紋を広げていた湖さえ、まるで息を潜めているかのように波一つたたせず鏡のようにその上に美しい月を映している。


「リーン様を返せ!」


 剣が月に反射して鈍い光を放った。

 血に飢えた獣の咆哮。

 見えない壁が音をたて崩れる。

 信じられないというように、見開かれた女の目と目が合った。

 それが最後だった。

 水面に浮かぶ月が紅く染まる。

 断末魔の叫びが辺りに響き渡ったがすぐにまた静寂が訪れた。

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