第5話 囁き

「リーン様……」


 むなしく空をきった手を握りしめる。


 自分はなにを期待した。

 いまなにを言いかけた。


 黒い瞳がその美しすぎる影を追う。


(まだ若い。人を愛するという本当の意味さえまだ知らない、幼い王子)


 栗色の髪が月の光を反射してキラキラと輝く。


 あなたは私にそんな事をいってはいけない。

 そんな顔をしては……そんなふうに見詰めては。


 体調が悪かったのは事実。

 儀式の最中目の前が闇に包まれたのも事実。

 そして、結婚が破談すればいいと心の何処かで願ったのもまた事実であった。


 リーンのその背中に問い掛ける。


「あなたは気付いているのですか?」


 今宵共に人生を歩む運命の姫を抱いていたであろうあなたを、その無垢な瞳に姫を映し、その耳元で愛の言葉をささやいたであろうあなたを想像し、自分はどんなに心を痛めたことか。

 その瞬間から消される唯一の場所。

 いつからそうして暮らしていたのか自分の歳も忘れるぐらい長い間、人里を離れた森の中で一人で暮らしていた自分に手を差し伸べた少年。


 いつものように町までの道を教えてすぐ追い返してしまえばよかったものを、なぜ家に連れて帰ってしまったのか。

 一人で帰すにはあまりに幼かったから。

 夕暮れが近かったから。

 言い訳はいくらでも浮かんだ。でも本当は長い孤独の中で人肌が恋しくなっただけだったのかもしれない。

 いやあの無垢で太陽のような笑顔を自分に向けられた時から、ラシェルはもう彼から目が離せなくなっていたのかもしれない。


 しばらくして、城の兵隊が大勢リーンを探しにやって来た。

 初めてリーンがこの国の王子だと知った。本来なら会話すら許されない身分の人間だと。

 また静かで寂しい生活に戻るんだと思った。

 しかしそんなラシェルにリーンは言った。


「いっしょに来い」


 王子だと知らず世話をしたラシェルを、命の恩人だというだけで何の疑いもなく城に招きいれ自分の世話係を命じた。

 その時から自分の居場所はリーンの横になった。


 生涯を約束した場所を誰かにとられるような恐怖にも似た焦り、そしてそれを容易く手にいれる月の姫への嫉妬。


「リーン様……私は……」


 銀色の髪が風のあおられサラサラと揺れる。


(このまま、時が止まってしまえばいい)


 あなたと私だけのやさしい時間は無情なほど早く過ぎ去ろうとしている。


(リーン様……私の王子)


 その時だった再びあの感覚が自分をすっぽりと包んだのは。

 今朝と同じ。

 最近頻繁に襲ってくるようになった貧血、それに加え頭の芯から何かを警告するような耳鳴り。

 いつもならしばらくほうっておけば、すぐ治るのに今回は違っていた。

 なぜだかわからないが、ラシェルはそれに言葉にしがたい恐怖を感じた。

 早く抜け出さなくては、予感でなく確信。


「やめろっ!」


 叫ぶと同時に耳鳴りがピタリとやんだ。安心したのも束の間、耳鳴りと代わるように突然あがった馬のいななきがラシェルを震え上がらせた。

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