雪の降る日

原ねずみ

猫と長靴

 長靴をはいた猫の話があるだろ。昔話の。俺が最初にコハルに会ったときにまず頭をよぎったのがその話なんだ。


 コハルは猫だった。いや違う。人間の女だった。


 本当はどっちも正解。猫であり人。猫型獣人だった。黒い髪に黒い猫耳。尻尾も真っ黒。けれども顔や身体は人間。黄みがかって少しつった、大きな猫のような目で俺を見ていた。


 場所は葬儀場の外で。ちょうど親父の葬儀が終わったところだった。喪服に身を包んだコハルは本当に黒い猫だった。美しく、しなやかな、黒猫。


 そう、コハルは大変美人だった。


 年の頃は俺と同じくらいか少し下で、そんな美人がまっすぐにこっちを見ていた。


 そして俺に言った。


「あなたのお父さまが、あなたに遺したものがあるのです」




―――― 


 


 親父はろくでもないやつだった。乱暴で傲慢で見栄っ張りで嘘つきだった。家は貧しくて、おふくろは俺が小さいときにさっさとどこかへ行ってしまった。


 それ以来、俺は親父と喧嘩しながら育った。都会の片隅の、小さなぼろいアパートで。俺は全く親父が好きになれなくて、それで18になったら俺もとっとと家を出た。


 せいせいしたな。


 そんな親父が亡くなったと、知らせが届いたんだ。ある暖かい、秋の日のことだった。親父とはかれこれもう6年も会ってない。でも葬儀には行かなくてはいけない。


 家を出たけれど、生まれ住んだ街を出ることはなかった。ビルだらけのごみごみした都会の、その忘れられたすみっこの、忘れられた人々が暮らす寂れた地区で、俺はやっぱり小さなぼろいアパートに住んでいた。だから、結局はあんまり変わってないことになる。ただ、親父が傍にいないというのは大きい。


 コハルの話に戻ろう。コハルにそう言われたとき、俺はもちろんめんくらった。親父が遺したものってなんだ? 遺せるものなんてあったか? まさか借金じゃないだろうな。


 コハルは大変真面目な顔をしていた。コハルの黒い耳を見ながら俺は長靴をはいた猫の話を思い出していた。あれは、猫をもらった末っ子がとても幸せになるんだ。俺は思わずコハルの足元を見た。長靴は履いておらず、黒いパンプスだった。

 

 というかそもそもこいつは何者なんだ? このとき、俺とコハルは初対面だった。親父の愛人か? こんな若い美人が? 混乱し、俺はおずおずと尋ねた。


「あの……あなたは……」


 みなまで言わなかったけど、コハルは俺の言いたいことを察してくれたようだ。はっとした表情になり、名前を名乗った。そして、簡単に付け加えた。


「私の母があなたのお父さまに親切にしていただいたのです」


 母親の方か。いやでもそれにしても驚きだな。もちろん俺は大人なのでその辺りについては細々とは聞かない。知りたくもないし。


「それで、遺したものってなんなんです?」


 大事なのはこっちのほう。死んだ親父じゃなく。親父が遺してくれたもの。コハルは硬い表情になった。


「まず、あなたがよい人かどうか確かめなければ……。でないとお渡しできません」


 


―――― 




 面倒なことになった。


 何故かはよくわからないが、俺はコハルの試験を受けることになった。俺がいい人かどうか確かめる試験。俺、いい人だよ。めっちゃ善良だよ。法に触れるようなことを一つもやってないし。


 試験はこういうものだった。夕方、俺の部屋コハルがやってくる。そして俺はコハルの話を聞く。


 コハルは彼女らの種族の歴史を語る。猫耳と猫しっぽの一族の、戦いや動乱や建国や政治の話。それを俺は黙って聞く。特に口を出すこともなく、聞き続ける。


 ……わけがわからない。俺は何を試されているのだろうか。美女と一つ部屋で二人きりになって、けれども手を出さずに紳士的な態度を取り続けることを試されているのだろうか。それなら自信があるよ。俺は奥手なんだ。


 俺の狭くて殺風景な部屋の中で、ただただ、話を聞く。猫型獣人の歴史は面白くなくもないが、コハルはあまり話が上手くない。非常に淡々としている。聞いているとなんだか眠くなる。


 けれども美女と二人で狭い部屋にいるってのはいいもんだな。そこから何か進展があるわけじゃないが。


 俺はコハルについてもっと知りたくなる。一度言ってみたことがあるんだ。種族の歴史じゃなくて、コハル自身の話を聞きたいって。どんなところで生まれて、どんなところで育って、どんな少女だったか――。けれどもコハルは、「つまらないですから」と言って教えてくれない。


 それでも一つ、二つ、語ってくれたことがあった。この街の生まれではないということ。5年ほど前に母親と共に移住してきたこと。母親は1年前に亡くなっていること。そして現在の職業など。


 これはちょっと面白かった。夢魔のところで働いているっていうんだ。


 夢魔っていうのは、人に夢を見せることができる魔術師で、何か見たい夢(「将来の夢」などというときの夢じゃなくて、眠っているときに見る夢だぞ)があれば、夢魔のところへ行く。夢魔はお金をもらって好きな夢を見せる。


 コハルは夢魔ではない。では何をするのかというと、客と一緒に寝るらしい。


 俺は動揺した。俺の考えたことをたちまち察して、コハルは言った。


「客が私に手を触れることはありません。向こうは眠っているのですから。私はただ、その横に寝そべっているだけ」


 コハルの魔力は弱いが、その微弱な魔力が、客の夢を安定させるのにちょうどいいらしい。


 世の中にはいろんな仕事があるもんだ。

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