scene 9. In a Sentimental Mood Ⅰ

 フロントをコールしてサーラを呼びだし、どうやら階段のところでファンか誰かに張りこまれているらしいと伝えると、彼女はすぐに昨日のポーターと一緒に部屋まで来てくれた。そして荷物を運ぶようポーターに指示をすると、ルカたち三人にこう云った。

「反対側に非常用の階段があります。私たちも今そっちから来たので誰もいないことは確認済みです。そこから下りましょう。ちょっと脚にご負担をおかけしてしまいますが、そのまま裏口から出られます。お車もそちらのほうに回させます」

 チェックアウトの手続きも部屋のなかでサーラが済ませてくれ、三人は勧められたとおり裏の非常階段から下へと向かった。五階から階段を下りるというので、ルカは初め、少々げんなりした顔をしていたが――

「ね、ビートルズみたい」

「ははっ、ハマースミス・オデオンか」

 テディがそんなふうに、映画〈ア・ハード・デイズ・ナイト〉のなかでビートルズが非常階段を駆け下りたシーンのことを云うと、なんだか楽しいイベントのように感じて、それほど苦にもならなかった。

 四階、三階……と、足音が響かないようゆっくりと下りていく。そして二階の非常ドアの前まで来ると、そこを過ぎてまた階段を下りかけていたサーラをテディが呼び止めた。

「サーラ、待って。事件のあった部屋って、二階だったよね?」

「えっ? はい……お二階の、向こう側の端のお部屋ですが」

 何故そんなことを訊くのかと不思議そうな顔をするサーラに、ルカはどうやら自分が犯人の手懸かりを握っている証人らしいのだと、簡単に事情を説明した。サーラは大層驚いて、エレベーターの前でぶつかったのなら防犯カメラに映っているかもしれませんと云った。

 既に死亡推定時刻前後の映像は警察に提出したそうだが、ただ急いでいたというだけでは容疑者としてチェックされているかどうかわからない。が、衣服に血液らしいものを付着させていた男というなら話は別だ。

 非常口のドアを開け、中をそっと窺ってみる。すると、ずらりとドアの並ぶ廊下の向こうに『POLICIE ČRチェコ共和国警察 / VSTUP ZAKÁZÁN立入禁止』と記されたテープが貼られているのが見えた。現場らしい部屋の前には小さな椅子が置かれていて、警官がひとり所在無げに坐っている。

 三人は中に入り、奥へと進むとその警官の傍に近寄った。

 サーラが「ごくろうさまです」と話しかけると警官は少し驚いた顔で立ちあがり、「どうかしましたか?」と尋ねた。

「ええ、あの……お客さまが、怪しい人の心当たりがおありだそうで」

 掻い摘まんだ話をサーラがし、ルカがそのあとを引き受けて補足する。警官は緊張した面持ちで、すぐに捜査本部へ連絡するので担当の刑事が来るまで待っていてほしいと云った。だがルカは「悪いけど、プラハのTV局で音楽番組の収録があるんで帰らないと」と、それを拒否した。その言葉で警官は、眼の前にいる三人があのジー・デヴィールのメンバーだと気づいたらしい。

「そうですか、それじゃ……ちょっと待ってください。本部に連絡して訊いてみますんで」

 そして警官は、とりあえずコートは鑑識にまわす必要があるので預かりたい、と云った。


 サーラの仕事にはまったく抜かりがなかった。裏通りに回してくれていた白いカブリオレはぴかぴかに洗車されていて、ポーターはルカたちがすぐに乗れるよう荷物もきちんと積みこみ、エンジンを掛けた状態で待っていた。

 ルカは荷物のなかから透明な袋に入れてあったダウンコートを取りだし、傍らで待っていた警官に手渡した。テディが透明な袋に包んだダウンコートを指さしながら、簡単に説明をする。

「いちおう、わかりやすいようにしておいたんですけど……ここです。この丸で囲んだ袖のあたりに、血みたいな汚れがついてます。これは買ったばかりだし、ぶつかったときに男のつけてた血痕が移っちゃったとしか」

 テディの話を聞きながら、袋の上からマーカーで印のつけられたところを凝視していた警官は大きく頷き「わかりました。ご協力感謝します……鑑識の結果、付着物が被害者の血痕と一致したらあらためてご連絡させていただきます」と云った。

 ポーターと入れ替わるようにして、ルカが運転席に乗る。足許は暖房が利いていて、鉄柵だけの非常階段で冷えきった脚からほっと力が抜けた。

「なにかあってはいけませんから、お車は特別なお客様用の施錠できる車庫でお預かりしておりました。こうして裏からお見送りするのは滅多に無いことですが」

「ありがとう。いろいろたすかったよ、今度アルバムを出すとき、メンバー全員のサインを入れて君宛にここに送るよ」

「グッズやフォトブックもね」

「ほ、ほんとですかっ!! う、嬉しいです、ありがとうございます……!」

 サーラにあらためて礼を云い、三人とも順に握手を交わす。もうサーラは真っ赤になったりはしなかった。

 ルカはサーラに笑顔で手を振ると、真新しい愛車の650iカブリオレをゆっくりと発進させ、ホテルを後にした。



 ぐるりと大廻りをし、来るときに通った道に出ると、あっという間にカラフルな街並みが遠ざかっていった。後部座席でやれやれ、と脚を伸ばしたユーリが、「ところで」とルカに声をかける。

「いつどこでなんの収録があるんだって?」

「うん? ああ、俺の勘違いだったかな? それとも、出演予定の番組企画がボツになったのかもな?」

 素っ惚けるルカに、ユーリはくっと喉を鳴らして笑った。

 助手席のテディが不満そうな顔で、ルカを睨む。

「……ほんっと、ルカの面倒臭がりなところって筋金入りだよね」

「まあいいじゃないか。――ところでルカ、運転するのもけっこう面倒だろう? 適当なところで替わってやるよ」

「いや、いい。いちおう、

 含みを持たせた言い方をするルカに、ユーリは「そうか」と余裕のある笑みを湛えた顔をウィンドウに向けた。





 途中、ユーリが「運転を替わらなくていいなら」と、クルショヴィツェに寄って一杯だけビールを飲みたいと云いだした。

 カルロヴィ・ヴァリからプラハへ向かう道沿いの、半分を少し過ぎたくらいにあるクルショヴィツェは、十六世紀から続く歴史と伝統を誇るビールの醸造所があるところだ。テディもそういえば腹が減ったと云い、ルカは休憩がてら、そこで早めのランチを摂ることにした。

 地名がそのままビールの銘柄名にもなっている赤い看板が見えてくると、その向こうに樽を横に転がしたような形の建物が現れた。パーキングに車を駐め、土産物なども売っているショップとドライブインを兼ねたようなその店に入り、ルカはコフォラ、テディとユーリは黒ビールTmavé pivoを、パーレック・フ・ロフリーク Párek v rohlíku というロールパンにソーセージとマスタードを詰めたようなチェコ風ホットドッグと一緒に注文した。

 注文したものがすぐに運ばれてくると、テディはいちばんに黒ビールを一口飲み「……苦い」と呟いた。

「飲めないなら頼むな。ガキじゃあるまいし」

「せっかくだから飲まなきゃって思ったんだけど……もういいや、これ」

 テディは結局黒ビールにはそれきり口をつけなかった。パーレック・フ・ロフリークを食べ終わり、ルカのコフォラを取って飲むのを見てユーリは呆れたようにテディのビアマグを取りあげ、店員を呼んだ。

「ああ、コフォラをもうひとつ」

「あ、じゃあスマジェニースィール smažený sýr とポテト追加で」

 テディが云うと、ユーリとルカは少し驚いて「まだ食うのか?」と声を揃えた。

「おまえがそんなに食うのはめずらしいな……ああ、甘いもの以外での話だが」

 だがテディは、これも三分の一ほどしか食べずに残した。ルカはちら、とテディの顔を見ただけで、平らげるのを手伝ったりはしなかった。

 ユーリはまったく、と呆れながらまた店員を呼び、黒ビールのおかわりを頼んだ。

 そして結局、テディがゆっくりと煙草を吸い、ルカが土産物を見たりスマートフォンを弄ったりして時間を潰すあいだに、ユーリはテディの残したチーズとポテトのフライを食べながら黒ビールを四杯、充分に堪能した。


 充分に休憩をし、店を出て三人はまた車に乗りこんだ。

 不思議なことだが、同じ道を走っているのに復路は往路よりも短く、早く感じる。更に四十分ほど車を走らせ、こんなに近かったのかという感覚でプラハに着くと、買い物をしてから帰るというユーリをフラット近くのスーパーマーケットで降ろし、新車での初のドライブ旅行は終了、解散となったのだった。

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