scene 6. マック・ザ・ナイフ Ⅰ

「殺しだよ。女が刃物で一突きさ。……いやあ、まいった。俺ぁ非番だったんだが、近くにいるならって駆りだされちまった」

 察するに、下っ端の警官ではなく殺人などの凶悪犯罪を担当する刑事なのだろう。男はやれやれとぼやきながら、絆創膏を貼った顎を撫でた。

「殺し……って、え?」

 驚くというより先ず、聞こえた「殺し」という言葉の意味を呑みこめるまでに僅かながら時間がかかった。すとんとどこかに着地したかのようにようやく理解が及ぶと、ルカは目を瞠り、勢いこんで訊いた。

「えっ、嘘だろ、殺しって、殺人事件があったのか? このホテルで? いつ!?」

「いつ起こったのかも含めていま捜査中だ。で、あんたらさっきはいなかったが、どこへ行ってた?」

「なんだよそれ、まさか、アリバイ調べとかいうやつか?」

「いや、とりあえずホテル内にいる全員に訊いてまわってるだけだ。まだ被害者の身元や正確な死亡推定時刻も出てないんでね……。で、どこに?」

「どこって、街をふらふら観光してまわって、そのあとホテルに戻ってからはスパに行ってたよ」

 ルカが答えると、すぐ傍に来ていたテディがそれを補足した。

「それからいったんこの部屋に戻って荷物を置いて、レストランに」

「ふうん、で、今しがた戻ってきたわけか。――死体があったのは二階の端の部屋、発見されたのは午後五時過ぎ。殺されたのはおそらくもっと早い時間のようなんだが、誰か怪しい奴を見かけなかったか?」

 ルカはテディと顔を見合わせ――すぐ刑事に向き直ると、首を横に振った。

「いや、怪しい奴なんて見なかったよ。そもそもホテルのスタッフ以外、特に誰とも会ってないし」

 テディはちら、と視線だけ動かしてルカの横顔を見た。

「そうか。まあ、もしもなにか思いだしたら――」

 男はポケットから小さな手帳を出すとペンでさらさらとなにか書き、そのページをちぎった。

「俺のモバイルにかけてくれ。――そこのあんたも。なんでもいい、なにか思いだしたらすぐに電話してくれ」

 小さな紙切れをルカに手渡しながら、男は部屋のなかを覗きこみ、ソファに腰掛けているユーリにも声をかけた。

「わかった。……ボロフスキーさんね。俺ら明日には帰る予定だけど、別にかまわないよな?」

「ああ、身元と連絡先さえわかっていれば問題ない……ただし国内ならな。ちなみにどこ?」

「プラハ」

 ならオッケーだ、邪魔したな、と片手をあげて、ボロフスキー刑事は立ち去った。

 ぱたん、とドアを閉め、なにやら俯いて考えこんでいたテディがルカに話しかける。

「ねえルカ、なんで云わなかったの? あのエレベーターの前でぶつかった人……ずいぶん慌ててたみたいな」

 ルカはそれを聞くと、「ああ」と目を瞬いて振り向いた。

「すっかり忘れてた」

「忘れてただけ? もう……あの人、ひょっとしたら怪しいんじゃないの」

「急いでたから? でも、まさかだよ。それに、なるべくなら殺人事件なんかに関わりたくないよ、面倒臭い」

「面倒臭いって……」

 テディは呆れたように、今度はユーリに向いて云った。「ねえ、どう思う? なんだかすごく急いでて、ぶつかっても謝りもしなかったし、サングラスと帽子で顔隠してるみたいな感じだったし……いちおう云うべきだと思わない?」

 するとユーリはぐい、とピルスナーウルケルの瓶を傾け、苦笑した。

「俺も警察は嫌いだしな。まさに刺したところを見たわけでもない限り、進んで関わろうとは思わないね」

「もう、ユーリまで」

 信じられないという顔をしてソファに坐ったテディを宥めるように、ルカはその肩に手を置いた。

「気にしすぎだよ。まさか、俺にぶつかった男が人を殺したばかりで逃げるところだったなんて、そんなことそうそうないって。それより、せっかくスパに入って旨いもん食って楽しんでたのに、よりにもよって殺人事件だなんて勘弁してほしいよな。今からでも他のホテルに移ろうか」

 それを聞き、テディは首を横に振った。

「サーラに悪いよ、もう部屋のことで無理云って、他にも気を遣ってもらってるのに。どうせ明日には帰るんだから、今夜一晩くらいいいじゃない」

「でも、ホテル内で殺人事件が起こったんだぞ? すぐ傍にまだ殺人犯がいるかもしれないじゃないか」

 口にして、ますますそれがとんでもないことのように感じ、ルカは表情を強張らせた。が。

「そうは云うが、人を殺したことのある奴なんて、そのへんにごろごろいたっておかしくはないんだぜ? 傷害致死なら数年で出てきちまうしな」

 ユーリが云い、テディも「そうだね」と同意する。

「恨みや利己的な理由で起こった計画殺人とかは罪も重いし怖いけど、そういう事件の犯人は関係ない人は殺さないから、実は怖がる必要ないんだよね」

「ああ、殺すつもりはなくても、頭に血が上るとなにをするかわからんような奴のほうが厄介だよな。どこで出くわすかわからない」

「出くわすっていうなら、偶々殺してるところを見ちゃったりして口封じ……っていうほうが怖いな」

「口封じなら殺しに限らんだろ。ばれたら身の破滅ってくらいの秘密を知っちまった場合とか、いろいろある」

「見ちゃいけないものを見ちゃったとか? そんなのはまあ、滅多にないだろうけど……身近にありそうなのでいちばん怖いのは強盗かもしれないね。なにも持ちあわせてなくて怒らせるかもしれないし……」

「ああ、金庫から全財産差しだして命乞いしたって、殺す奴は殺すしな」

 ルカはふたりの話を聞きながらぽりぽりと顎を掻いていたが、「……わかったよ、サーラに悪いし、ホテルはもう移らない」と、テディの隣に腰を下ろした。

 殺人が起こったホテルだと思うと決していい気持ちはしないが、もう夕食も済ませたことだし、あとはベッドに入って眠り、朝食を摂ったらチェックアウトするだけだ。警察も来ていたのだし、きっと犯人がまだホテルにいるなんてことはないだろう。

「そんなことより」

 空にしたビール瓶を掲げて、ユーリが云った。「まだ夜は長いぜ? ずっとこのまま部屋で過ごすつもりか」

「どこか行こうって? また?」

「ホテルの中でも外でもどっちでもいいが、飲みに行かないか。おまえらまだベヘロフカを飲んでないだろう」


 ベヘロフカとは、ここカルロヴィ・ヴァリの十三番めの源泉ともいわれている薬草酒である。

 約百種類以上ものハーブやスパイスが配合されているというレシピは門外不出で、匂いや味に少々癖はあるが、消化器系に薬効があり食前酒として親しまれていて、土産物としても人気がある。

 通常ならホテルのディナーでも出されているのだが、ルカたちは何故かドイツ産ピノ・ノワールのワインをサービスですと勧められ、ベヘロフカは飲んでいなかったのだ。


「えぇ、あれなんだか温泉以上に不味そうだなって思ってたんだけど」

「不味くはないさ。ちょっと薬っぽくて癖はあるがな。おまえはトニックウォーターで割ったやつを飲むといい」

「うーん、じゃあ……階下したのバーに行く?」

「ここのバーでいいか? 外の店に行けば、ジビエ料理も食えると思うが」

 ユーリはそう云ったが、ルカは首を横に振った。

「メシ食ったばかりだし、外は寒いよ。またコートを出すのも面倒だ、ここのバーでいいだろ」

 ユーリは笑いながら頷いた。

「じゃあそうするか。行こう」

 ふたりが立ちあがり、部屋を出ようとしたそのとき。

「おいテディ、どうした。行かないのか?」

 テディはソファから立ちあがったまま、一時停止した映像のように動きを止めていた。

「……ちょっと待って」

 テディはさっと部屋を見まわしたかと思うと、バスルームに駆けこみタオルを持って出てきた。ルカとユーリは不思議そうな顔をしつつも、テディのやろうとすることを黙って見ていた。

 テディは少し濡らしたらしい白いタオルを持ち、次にワードローブの前に向かい、扉を開けた。

「どうした、なにをしてる?」

 眉根を寄せながらユーリが尋ねたが、テディは答えずワードローブからルカの黒いダウンコートを取りだした。そしてそのままベッドルームに持っていき、最初に放ってあったのを再現するかのようにそこへ置く。

「おい……、まさか、さっき云ってたって――」

 ルカの呟きに一瞬振り返ると、テディはベッドシーツの汚れと重なっているダウンコートの袖のあたりを、湿らせたタオルでそっと拭うように撫でた。

 やっぱり、とテディが険しい表情になる。

「ルカ、やっぱりぶつかったあの男……」

 真っ白いタオルに、あかい染みがついている。テディは顔をあげてルカを真っ直ぐに見つめ、確信を持った口調で云った。

「殺人犯だよ」

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