第4話 待ち合わせ

(そういえば、マンションも来週には引き払うんでしたね。就職先もそうですが、引っ越し先も探さなくては)

 昨日同様、首の後ろで纏めた髪を左右に揺らしながら、クロエルの街を歩くヘキサは、不意にそんなことを思い出す。

 ヘキサが今暮らしているのは、クロエル内にあるコウルズ学園所有のマンション。つまりは在学生のために用意されたものであり、卒業生がいつまでも利用できるものではない。遅くとも新入生が引っ越してくる前までには退去する必要があるのだが、就職先探しを優先するあまり、すっかり忘れてしまっていた。

(はあ……思い出に浸る時間もないなんて)

 何故こんなことに、というのは考えるまでもなく、例の推薦状のせい。

 この一年、とことん振り回されてきた原因に、今日も今日とて思いを馳せかけたヘキサだが、沈む直前で軽く頭を振った。

(いいえ。今日は、今日だけは、推薦状のことは忘れましょう。そんな余裕はないはず、なのですから)

 ふわりとまとわりつく風に「大丈夫」と声をかけ、自分自身に言い聞かせる。

 今日のところはひとまず、就職のことも引っ越しのことも、後回しにしなくてはならない。そのつもりで、白いシャツに青いカーディガン、薄茶のズボンに白い紐靴という、動きやすさ重視の服を選んできたのだ。

 全ては昨日出遭った老紳士、その願いのために。

(……でも、あの方は本当に来られるのでしょうか?)

 衝撃発言を聞いた後、ヘキサが男と会話できた時間は少しだけ。それだけでも発言の真意は嫌というほど理解できたのだが、もう一歩踏み込んだ話に移ろうとしたタイミングで、偶然訪れたクロエルの警邏に男は連行されてしまった。

 正直、そこで終わっても良い話ではある。

 男の話は、一オウルが聞き届けるにはあまりに荷が重い。

 あのまま全てを警邏に任せ、ヘキサは当初の予定通り、リサと共に今日一日を就職先探しで過ごしても、何の問題もなかったはずだ。

 だが、去り行く背中を前にしたヘキサは、見送るだけを良しとせず、一方的に男へ声を掛けた。

 ――私なら貴方の手助けができるかもしれない。

 その言葉と共に、自宅マンションの近くにある公園の場所と時刻を告げて。

(改めて思い返してみると……ここまで説得力のない言葉も珍しいですよね)

 短い会話ながら、やはり高位種族と分かった男。そんな相手に対して、遥かに下位であることは間違いないヘキサが、何を手助けできるというのか。

 後になって「オウルに何ができる」と思い直しても不思議ではない。

 いや、男の正体を思えば、その方が自然だとさえ――

「あ」

 そんな考えを持って角を曲がったヘキサは、思わず声を上げた。

 遊具もない、木々に囲われた小さな公園の入り口。

 そこで、くたびれた様子のオウルの老紳士が、雲一つない青空を仰いでいる。

 ヘキサは腕時計に視線を落とし、携帯の時刻を見、念押しで公園の時計を遠目になぞり、今の時刻が間違いなく、目標としていた約束の時間の10分前であることを確認すると、慌てて男の元まで駆け寄った。

「あのっ」

 遅れてすみません、お待たせしました――続く言葉に一瞬迷ったなら、ヘキサに気づいた男が、疲労感の強い顔にほっとしたような笑みを浮かべて言った。

「おはようございます、お嬢さん」

「あ、はい、おはようございます」

 下げられた頭に習い、足を止めたヘキサは身体を腰で折って一礼。

 顔を上げつつ息を整えては、まじまじと男を見つめた。

 緑がかった灰色のオールバックの髪と口髭。微笑む瞳は黄緑色。影を帯びる肌。茶色のスーツの下には白いワイシャツ。襟元には琥珀の飾りがついた臙脂のループタイ。

 見間違えようもない、昨日と寸分違わぬ姿に自然と呟く。

「本当に、いらっしゃるとは……」

「はい?」

「あ、いえ、お伝えしていた時間より早いと思いまして」

「ああ。それはもちろん。せっかくお声掛け下さったのに、お待たせする訳には参りませんから」

 ニッコリと微笑まれ、「そうですか」と返す。

 しかし、すぐに大きなため息をついては深々と頭を下げた。

「……すみません。自分から誘っておいてなんですが、貴方のような高位の方が、本当に来られるとは思わなかったので。大変失礼なことを口にしました」

 いくら小さな呟きでも、目の前で言ってしまったことを聞き間違えたりしないだろう。だというのに、ヘタな誤魔化しにも眉を顰めることなく、笑ってみせた男に申し訳なさだけが募れば、たっぷり間を置いた後で、焦ったような声がヘキサの頭にかけられた。

「いえ、いえいえいえ! こちらも、こう言ってはなんですが、似たような心持ちでしたので、貴方が来て下さっただけでも奇跡と申しましょうか! と、とにかく、顔を上げてくださいませんか? 私は全く気にしておりませんから」

 男の言葉にヘキサが顔を上げたなら、心底ほっとした顔に迎えられる。嘘偽りのないその様子に、つられて息をつくと、頭へ手をやった男が苦笑いした。

「昨日は話の途中だというのに失礼致しました。まあ、お陰で、この街の滞在などに必要な手続きは、すっかり終えてきましたが」

 怪我の功名とでも言うように男が笑う。

 その全てが気遣いに思えて、何と返したものか言葉に迷う。

 そんなヘキサへ、男は重ねて言った。

「本当に、感謝しているんですよ。私の正体を知って、見て、それでも協力を申し出て下さるばかりか、近づいて下さる方は貴重ですからね」

(正体……)

 目に見える疲労は依然色濃いものの、赤みの差した顔で笑う男は真実嬉しそうだ。

 対するヘキサは、男の言う「正体」も相まって、やはり何も言えず、一先ず公園へと男を促すのだった。

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