第3話 夢
「ヘキサ」
男とも女ともつかない声に名を呼ばれ、ヘキサはゆっくりと振り向いた。
夜空を思わせる深い青を背景に、白というには褪せた色の帽子と外套を模した布きれが、ふわりふわりと宙に浮かんでいる。
「……シハン」
どう見ても中身がないソレをヘキサはそう呼び、惚けた顔で近づいていく。
ゆっくり、ゆっくり……。
ヘキサの周囲にまで広がる夜空の青を不思議に思わず、見えない大地を恐れもせず、ふわりふわりと漂う帽子と外套を真っ直ぐ目指す。
そうして、手を伸ばせば届く距離で足を止めたヘキサは、自分の頭より大きいつば広の三角帽子と、それと同じ丈の外套の隙間を見つめた。
帽子と外套が作り出した、何の形も持たない黒い影を。
「ヘキサ、「院」に行ってはダメだよ」
影――シハンは語る。
それはヘキサがいつか聞いた、彼の最期の言葉だ。
「確かに「院」は魅力的だ。あそこにいて、オウルが不自由することはないだろう。だけど……「院」には不穏な曰くが多すぎる。彼らの抱える業は、キミが”手伝う”に値しない」
オウルであるヘキサが「院」を手伝うという話は、他の者が聞けば奇妙に感じるかもしれない。「院」にはオウル以上の能力を持つ種族が山ほどいる。その「院」に在って、オウルの娘が何を手伝えるのか――と。
けれどヘキサは戸惑うことなく頷き、これに頷き返したシハンは続けて言った。
「ボクが消えたら、しばらくの間は「院」の者が様子を見に来ていると思った方が良い。彼らにとってボクは珍しいからね。もしかしたら、直接キミに声をかけてくるかもしれない。それならそれで、ボクに関することは包み隠さず答えてね。ヘタに隠そうものなら、彼らの想像力は逞しいから、それがどんな些細な事でも大袈裟に捉えて、その後に真実を言っても聞き入れない可能性が高い。もっとスゴイことを隠しているはずだ、ってさ」
やれやれ、とでも言いたげに帽子と外套が揺れる。
他の種族の「死」とは違う最期を迎えるとはいえ、消えることに違いはないというのに、恐怖を微塵も感じていないシハンに、あの時同様ヘキサの唇が自然と緩む。
この様子に同調してではないだろうが、シハンは茶化すような声を出した。
「こう言ってはなんだけど、幸いにしてキミはオウルだからね。ボクと一緒にいたからって、すでに生態を調べつくされた種族に固執する者はいないはずだよ。――でも」
ここで言葉を切ったシハンは、帽子の先をヘキサの目へ向けた。
(あ……この後は)
ヘキサの脳裏に、いつか見た光景が思い起こされる。
語らいの最中、シハンの帽子が傾いて程なく、床に落ちる帽子と外套。
それが、彼の最期。
シハンという存在が、この世界から消えた瞬間。
しかし、すぐには理解できず、うろたえ、悲しみに沈んだ当時とは違い、すでに経験していた別れ。感傷はあっても囚われることのなかったヘキサは、あの時と同じように消える直前、彼が告げた言葉に目を丸くした。
「たとえば「院」が、キミの本当の恩恵に気づいたとしても、大丈夫。キミを知る者が、キミと知らずに守るだろうから。だから」
――さようなら、ヘキサ。
「シハン!」
思わず上げた声と伸ばした手は、勢いよく上半身を起こしたところで、あの日消えたシハンに届くことはない。縁あって、幼い頃からヘキサを育ててくれたシハンは、二年前、夢の通りに”死”んだのだから。
この世界の中でも特異な種族だったシハン。
それでも、”死”の事実が覆ることはない。
「…………夢……」
暗い自室で分かり切ったことを口にしつつ、それでも辺りを見渡したヘキサは、サイドテーブルの一角に小さな明滅を見つけた。
「……ああ、リサからの」
寝起きの勢いに纏わりつく髪の毛をよけながら、明滅へ手を伸ばし、掴んだ携帯端末のスイッチを入れる。眩しいまでに明るくなった画面の中でまず目に入ったのは、遮光カーテンからでは計れない時刻。起きる予定の数分前を確認してから、明滅する通知の源を辿れば、予想していた通り、リサの名前がそこにあった。
存在そのものが希有であるゆえに、シハンを知る者は少ない。
リサはそんな数少ない内の一人だった。
そもそもはヘキサがリサにシハンを紹介したのだが、都市に暮らすヘキサよりも外界を知っていたリサは、シハンの特異性に気づくなり、こちらが言う前に彼についての他言無用を誓ってくれた。
シハンが消えた後の数日間、ヘキサと寝食を共にしてくれたのも、リサだ。
当初はこれを、シハンを失った自分をただ心配して、と思い感謝していたヘキサ。しかし、実際にはヘキサを監視する不審者に気づき、牽制していたのだと、独り暮らしにも慣れた頃にリサが教えてくれた。
いや、彼女自身、話すつもりはなかったのだろう。シハンがいなくなった話から、ついうっかり口を滑らせたリサは、物の見事にうろたえていたのだから。
今も変わらず、ヘキサを気遣ってくれるリサは、「用事が出来たから、今日は行けない」というヘキサのメールにも、深く尋ねることはなく、「へーい。そんじゃあ今日は、暇人の田舎者を観光案内してくるわ」と、気安い返事をしてくれる。リサの言う「暇人の田舎者」とは、卒業後も帰ってこない彼女を案じ、遠い故郷から来ている婚約者のことだろう。ずいぶんな言い回しにヘキサはくすりと笑う。
だが、用事のことを思ったなら、画面に向かって申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「すみません、リサ」
呟いた謝罪は、詳細を知ったなら、きっと目くじらを立てて怒るだろうリサに対して――と、ここまで親身になってくれているというのに、だからこそ未だ言えずにいる、ヘキサの”秘密”について。リサの前では決して下げられない頭を、画面に表示された彼女の名へ下げる。
拍子に、コツン、と小さな音が額を叩いた。
携帯端末との距離を見誤ったと苦笑するヘキサ。
だが、何ともなしに虚空へ視線を投じては、先程見た夢を思い返して眉を寄せた。
(「院」のことで悩んでいたから夢に見た、とも考えられますが……あの最後の言葉は何だったのでしょう? 無意識に私が造り上げた話? それとも、シハンはあの時本当に……?)
いつかの日、見つめる虚空にいたシハンが、夢の中で最期に告げた言葉。
自分で作り上げたにしては、とてもシハンらしい物言いだった。
判断のつかないヘキサは、気を落ち着かせるように大きなため息をついた。
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