第23話 姉として
「ふう」
振り返ると、小さくて白い背中があった。
さらさらの髪がその背中を覆っているけれど、それでもしっかりとそれが見える。
小さくて、細くて、触れれば壊れそうなくらいにか弱くて。だというのにどうして無理なダイエットなんてしていたのか、改めて疑問に思える。
深雪さんの横の風呂桶にあるタオルを絞ろうと手に取るとお湯がぬるくなっていた。
「お湯、変えてきますね」
深雪さんをいつまでも裸にさせておくのは気が引けたけど、あのまま体を拭くとタオルが冷たく感じていたかもしれない。
ささっと変えて部屋に戻る。
お湯に浸し、思いっきり絞る。
「それじゃあ拭きますよ」
「う、うん。おねがいします」
言いながら深雪さんは髪をまとめて前に流す。さっきまで隠されていた肌色が完全に露出する。そのことにどきっとしてしまうが平然を装う。
恐る恐るタオルを背中につける。
そのまま拭こうとするけど、こっちの力に深雪さんが負けて押してしまう。
「ごめんね。うまく力が、入らなくて」
「あ、いや」
でも力を込めないと撫でているだけになるから大した意味はないように思う。
「肩、持ってもいいですか?」
俺が抑えるのが一番いい。
さっさと終わらせてしまうために仕方なくだ。これにはそれ以上の意味も、それ以外の意味もない。
「あ、うん」
深雪さんの了承を得て、俺は左肩に手を置く。同じ肩だというのに俺のものとは別物のように感じる。女の子の体ってのはどうしてこう柔らかいのか。
その感触が嫌でも深雪さんの女を感じさせ、俺の胸の高鳴りはさらに増す。
「ほんと、ごめんね」
そのとき、深雪さんがぽつりとそんな言葉を漏らす。
「え」
「迷惑ばっかり、かけちゃって」
いつもからは想像できない弱々しい声。今日はずっとこんな感じだ。
「別にそれはいいんですよ。迷惑なんていくらでもかけられても、迷惑だなんて思わないし」
「うん」
「ただ、無理してるって分かると心配しちゃうから、それは止めてほしいかな。紗月も、花恋ちゃんもきっと同じ気持ちだと思う」
「……うん」
「たまには肩の力を抜いて甘えてもいいんじゃないですか? 今日みたいにわがまま言っても、誰も怒りませんよ」
「悠一くんも、怒らない?」
「怒ってたら今頃ここにいないでしょ」
俺が冗談めかして言うと、深雪さんもくすくすと笑いながら「そうだね」と小さく言った。
「私はね、お姉ちゃんだから、しっかりしないといけないの。お母さんがいないから、なおさらね。紗月ちゃんと、花恋ちゃんの前では、私はお姉ちゃんでいなくちゃダメなの」
「そんなこと……」
そんなことない、そう言おうとしたけど深雪さんはさらに言葉を続ける。俺がそう言うと分かっていたから、それを打ち消すように。
「これはね、使命とか義務とか、そんな大層なものじゃないの。ただ、私がそうしたいだけ。お母さんがいなくなったあの日、決めたんだ。二人の前では、しっかりしようって。だから、これはただのわがまま、なんだ」
「……深雪さん」
「私のわがまま、聞いてくれるんだよね?」
深雪さんは首だけでこちらを振り返る。にこりと笑うその表情は子供のように純粋で、けれど大人のような覚悟のこもったものだった。
「まあ、そう言いましたしね」
俺がそう言うと、深雪さんは小さな声でありがとうと言ってくる。
「だったら、俺にくらいはわがまま言ってくださいね。頼りないけど、頼ってくれていいですし」
「……悠一くん」
言ってはみたけど、深雪さんにじいっと見られて段々と恥ずかしくなった俺はそっぽを向く。
「できる範囲で力になりますから」
照れ隠しのように付け足した。その様子がおかしかったのか、深雪さんはくすくすと笑う。
「ありがと。それじゃあ、悠一くんには甘えちゃおうかな」
「無理して一人で苦しまれるよりずっといいや」
そんな話をしている間に背中を拭き終える。会話していたから気を逸らせたのは大きかった。
「よし、終わりです」
何となく湿っぽい空気になっていたのでそれを断ち切るように俺は声を出す。
立ち上がって風呂桶を持つ。
「これ片してくるんでその間に着替えててください。そしたら上に行きましょう」
もうあとは寝るだけだし、自分の部屋に行ってもいいだろう。
部屋を出て、風呂桶とタオルを片付ける。戻ったときには薄いグリーンのパジャマに着替えていた。
のだけれど。
「どうしたんですか?」
「……いや、なんでも」
何か不思議な顔をしていた。
熱のせいもあるのだろうけど、顔がえらく紅い。引きつった顔も細められた目も、あまり見ないものだった。
「いや、何かあるでしょ」
「一つだけ聞いてもいいかな」
「はい」
「悠一くんが持ってきたパンツが、その、ちょっと大人なものというか、お尻の方の布面積が、若干少ないのだれけど、これは君のご趣味かな?」
お尻の布面積が少ない?
なんだそれ、と思ったけどTバックのことかと納得する。
「て、いやいや適当に取っただけで選んだわけじゃないですよ! たまたま手に取ったのがそれだっただけで、ていうか深雪さんTバック持ってんすか!?」
俺もよく分からないテンションになる。
「ちちち違うよ? 私がかったんじゃなくて、友達がプレゼントにくれたの。捨てるわけにもいかなくて、タンスに入れてただけで……」
深雪さんは慌てて否定しようと思わず立ち上がる。が、急に立ち上がったことでフラッとバランスを崩してしまう。
「危ない!」
俺は咄嗟に前に倒れる深雪さんを受け止めた。けど格好良く決めることはできずに、結局二人とも倒れてしまう。俺が下敷きになれたのは幸いだった。
「ごめん、大丈夫?」
「平気、ですよ」
背中を打った痛みもあるけど、それ以上に体全体にのしかかる柔らかい感触の方が問題だった。
「起きれますか?」
「う、うん」
俺と深雪さんの顔の距離は僅かしかなく、少しでもズレていればキスくらいしてしまっていたかもしれない。
お互いに距離が近いことに照れてすぐに体勢を立て直した。
「部屋、戻りましょうか」
「う、うん」
最後の最後で変な空気になってしまった。これ以上続くと精神的によくないので、早いとこ休んでもらおう。
肩を貸して階段を上がる。
深雪さんの部屋に入り、彼女をベッドに寝かせた。
「それじゃ、何かあったら呼んでください」
恒例のようなセリフを吐いて部屋から出ようとすると、深雪さんに袖を掴まれた。
「えっと、何ですか?」
「……あのね、最後に一つ、おねがいしてもいい?」
俺の脳を溶かすような甘ったるい声でそんなことを言ってくる。大人な雰囲気はまるでなく、そこにいるのは一人の子供なんだと強く思わされる。
「出血大サービスですよ」
ここまできたら何でも聞いてやる所存だよ。満足いくまでお付き合いしましょうかね。
「手を、握っててほしいの。私が寝るまででいいから」
「手を?」
深雪さんは俺の袖を掴んでいた手を放して一度引っ込める。
「うん。だめ?」
「……いや、いいですけど」
一応男子禁制エリアなんだよな。もし帰りに紗月と鉢合わせようものなら俺に明日はないかもしれない。
とはいえ、断るのも何だと思い、俺は座って彼女の手を握る。
「子供の頃、熱を出して倒れたときに、お母さんがよく、こうして手を握ってくれたの。私ね、その温かさが大好きで」
そういえば紗月が言ってたな。
深雪さんは昔は泣いてばかりのお母さんっ子だったと。きっと、ほんとうはもっと甘えたりわがままだって言いたいのかもしれない。
けど、自分はお姉ちゃんだからと気丈に振る舞って、一人で頑張って、無理をしていたのかも。
「寝るまでちゃんとここにいます。だから、安心してください」
「うん。ありがと。おやすみなさい」
たまには、こういうのもよかったのかもしれないな。
俺がどれだけ力になれるかは分からない。支えられる自信なんてないけれど。
でも、少しでも深雪さんを助けられればと、強く思った一日だった。
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