頑張れない人へ

aninoi

いつだって分かれ道


 

 ────僕は今、人生を大きく変えてしまう分かれ道の前に立っている。


 そんな思考に囚われた僕は、焦りと興奮の入り混じった激しい動悸に目を眩ませていた。

 その感情に特に根拠はないし、きっかけもない。今日はいつも通り遅刻寸前まで惰眠を貪ったし、いつも通り眠たい授業をテキトーに聞き流したし、いつものバカどもとバカなバカ騒ぎをしたんだ。

 なのに、家に帰って自室にカバンを放り出し、冷たいフローリングに寝ころんだ途端にこれだ。

 一体、どうしたというのだろうか。僕の周りにバカが多すぎて、一周して真面目ちゃんにでもなろうとしているのだろうか。


 この僕が? 今更?

 それこそ馬鹿げてる。笑えない冗談だ。お医者さんでも目指すってのか。


 言っちゃあ何だが、僕はとても褒められた人間ではない。日々をダラダラと過ごし、時間を無為なソシャゲに費やす。何の目的もなく、ただ『生きているだけ』の人間だ。


 だから、


「だから……、落ち着けよ、馬鹿野郎」


 あーあ、カッコつけて独り言なんて呟いちゃってさ。思春期かよ。いや思春期だわ。


 だって言うのに、僕の声は寿命の近いジジィかってくらい擦れて、震えていた。

 そんな情けない事実に気付いてしまった僕は、空気が粘度を上げて肺に詰まっていくのを感じた。とてつもなく苦しい。

 このまま寝転がったままでは空気に溺れそうで、慌てて立ち上がる。しかし、心臓が暴走を止める気配はない。


 居ても立っても居られずに、僕は何も持たずに家を飛び出した。

 何かをしないといけない気がしたのだ。



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 玄関を飛び出した僕は、どこへ向かうでもなく走った。が、日頃運動をしないせいですぐにバテてしまい、はぁはぁと息を切らしながら足の動きを緩めた。


 走る事すら満足にできないのかよ、僕は。本当に情けないな。


 たったそれだけの事なのに、とてつもない自己嫌悪が募った。

 足を止めると本当に情けなくてどうにかなりそうだったので、座り込むのだけは意地でもしなかった。すぐそこの公園のベンチを横目に、息を切らしながら歩く。


 滴る汗を袖で拭いながら、自販機を探す。喉が渇いた。

 歩くこと十数分、ようやく自販機を見つけた。


「はぁっ、はぁっ……、よかった……」


 何か買おう。そう思ってポケットを探ってから、僕は自分がどれだけマヌケだったか自覚した。


 財布がない。というか何も持ってない。

 なんてことだ。スマホすら持たずに家を出るなんて、現代っ子にあるまじき失態だ。


「はぁっ、はぁっ、……あーもぅ、何なんだよぉ……!」

「……おい、坊主」


 大きくため息を吐きながら自販機の前に座り込むと、後ろから声をかけられた。渋い声にはっとして振り向くと、黒いスーツを着た男が立っている。


「あ、すいません……」


 僕はその場をどいて譲ろうとした。

 しかし、


「おう、ちょっと待ちなぁ、坊主」


 肩を掴まれ、止められる。

 急な事だったので驚いてしまって、言葉が出なかった。


「何か、悩んでるカオしてやがんな」


 ニヤッと笑ってそう言い放った男に、僕の心臓は跳ね上がった。


「え、なんで……」

「え、何、マジでなんか悩んでたの? すまん、正直ちょっと小説じみた事してみたくなっただけだったから、オジサンそんな切り返しされると困っちゃうなぁ……」

「いやなんなんすかアンタ」


 唖然として思わず声を漏らしてしまった僕だったが、続く男の言葉に思わず突っ込む。

 あ、と思った時にはもう遅い。


「あえ、と……、すいませ──」

「おぉお! わはははは! 何だ、面白れぇじゃねぇか坊主!」


 初対面の人に対して失礼な事をしたなと、謝罪をしようとする。しかしそれは他ならないスーツ男の笑い声でかき消された。


「いやぁ、笑っちまって悪かったな。詫びに、ほら……、これ奢ってやるからよ」


 男はゲラゲラと笑いながら自販機に小銭を入れる。それから、たった今、自販機で購入したコーラを片手に、公園のベンチを指さした。



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「……と、まぁ、こういうわけですよ」

「へぇえ~、青臭ぇなぁ~!」

「余計なお世話っす」


 男に促されるままベンチに腰掛けた僕は、結局情けない悩み事を吐かされた。


 だが、それなりに真剣な悩みだ。僕は少しムッとする。

 分かってるんだよ、これがどうしようもなく若い悩みだってことは。


「ククク、いいじゃねぇの。そういうのは若ぇうちに悩んどきな。俺みたいなしなびたオッサンになっちまった日にゃ、ちょっと痛ぇぞ、それ」

「……そうですかね」


 きっと、今の僕の顔は不貞腐れてそっぽを向いているはずだ。それでも、頬を釣り上げて笑ってくれる男の態度が、僕は少しだけ気持ちが良かった。


「そんだけ気になるってことは、そんだけオメェが真剣に悩んでる証拠さ。なんたって、初対面の得体の知れねぇオッサンに話しちまうくらいだからな?」

「しかも平日の昼間にほっつき歩いてるオッサンですからね」

「それこそ余計なお世話だコラ。栄えある有給消費だぞ」


 ゴチッ、と、割かし強めに小突かれた。痛い。初対面の小僧を小突くんじゃない。

 僕は小突かれた頭をさすりながらも、男の言葉に納得していた。答えが出るかはともかく、誰かに聞いてほしい気持ちはあったのだろう。少し胸が軽い気もした。


「つーかよぉ、それってそんなに悩むことかぃ?」

「……いや、現に僕が悩んでるんですけど」


 僕はジトリとした視線を男に送る。だが男のニヤケ顔は崩れない。


「だってよぉ、要はそれって、勉強するかしないか、ってことだろ?」

「ん~、そうなんですか?」

「違うのかよ。何かしないといけない気がしてんだろ。今のままで本当にいいのか不安なんだろ。この先どうなるのか分かんなくて、怖くて仕方ないんだろ」

「……………………」


 息が詰まった。

 心臓を鷲掴みにされた気分だ。

 さっきまで誤魔化せていた苦痛が、急速に上昇してきた。

 これは所謂、図星ってやつなのだろうか。今までなんとなく感じていただけのもやもやした存在が、説明できる立体として頭の中で解体されている。


「そう、かも……、知れない、ですね」

「だろ?」


 大人ナメんな、と男はけらけらと笑った。


「よぉ、頭ン中は纏まったかぃ。じゃあ、オッサンから一つ、良い事教えてやるぜ」


 またしても悪そうな笑みを浮かべて、男は僕の方に顔を近づけた。

 それは、いたずら好きな悪ガキが友人と次のいたずらを相談するような話だ。


「小僧。テメェ、カッコイイ夢の諦め方は知ってるか」

「夢の……、諦め方ですか?」


 自信たっぷりに言い放つ男に、僕は首を傾げた。

 男は喉の奥で心底楽しそうに笑いながら続ける。


「そう、諦め方だ。実現の方法なんて勝手に探せ。そんなのは飽きるくらい話があるんだ。だから、俺が話すのは夢を現実にする方法じゃねぇ。夢が現実のものにできなかったとき、くっそクールに周りに胸張って『俺はあの夢は諦めたぜ!』って言える方法さ」


 僕は、思わず男に顔を近づけた。

 真正面のすぐそこに、悪い笑みを浮かべる男の真っ直ぐな眼光がある。


「足掻け、藻掻け。その先に、死ぬほどカッコイイお前が待ってるぜ」


 泥臭くて汗臭い、人間の言葉だった。


「テメェ、いっつも自分が頑張らないための言い訳を考えてるクチだろ」

「そ、んなことは……」

「いや、そうだね。お前は絶対にそうだ。言い切ってやるぜ。そんな事で悩むってことは、お前はそういう奴だ」


 そしてそれを自覚してる人間でもある、と彼は続けた。


 それはナイフのように鋭くて、いとも簡単に僕の心を切り刻んだ。


 どうせ自分なんか。変わったところで。あいつは天才だから。


 薄汚い、見たくない自分の醜い姿を見せられた。

 だって、そうしてると気持ちいいんだ。

 本気を出してない振りをして、いつの間にか本当に本気を出さなくなっちゃって。

 そうやっていると、頑張って辛い思いをしなくて済むから。

 本当は僕の夢なんて、現実見ろよって言われる前に諦めちゃったんだ。


 だって言うのに、男が語らんとする『夢の諦め方』が気になって仕方ない。


「だからこそ言うぜ、俺は。お前は真面目な奴だ。そんな事を悩めるってことは、お前は頑張れる……かはこれからのお前次第か。だが、頑張る芽を持ってる男だ」


 変われる男なんだ。さらに、彼はそう続ける。


 彼の声は一直線に僕に突き刺さって、心をその場に縫い留めた。


「あるだろ、叶えたい夢。想い描いてんじゃねぇのか、現実にしたい未来を。ホントは持ってんだろ、燻ってる自分を」


 彼の言葉は、僕の胸の内の何かを熱くさせるものがあった。

 想い描かせる何かがあった。


「でも失敗が怖くて何もできねぇんだよな。だから、俺がテメェに教えるぜ、『頑張っても失敗しない方法』をな」


 それは夢みたいな話だ。

 そんなものがあるなら、僕はきっと夢に向かって走れる。僕は僕に正直になれる。


「お前みたいなタイプはな、まずは頑張れ。頑張らなくてもそこそこやれるなら、頑張ればスゲーやれるんだよ。で、もし足掻いて藻掻いて頑張って、それでも夢が叶わなかったとき、それはどう思う?」

「………………」


 僕は考えた。そもそも夢破れる瞬間って何だろう。それは一体誰が決めるんだろう。

 きっと、決めるのは自分だ。全部自分だ。『もう駄目だ』って思った時がその時なんだ。

 ギリギリまで頑張って、それでも駄目だった時、虚しくなることもあるだろう。だが、それでも頑張る人間はカッコイイんだ。頑張って身につけた知識や技術は一つたりとも無駄にはならない。


「もう分かったか? 夢ってのは、そうやって諦めるもんなんだ」


 頑張る前に諦めちゃダメなんだ。それは夢じゃなくて、ただの妄想に成り下がっちゃうから。

 夢が叶えば万々歳。叶わなくても最高にカッコイイ終わり方ができるんだ。


「……なんだそれ、最高かよ」

「だろ?」


 男はそれだけ言うと、ベンチを立った。


「精々気張れや、若人」


 手をひらひらさせながら去っていく男を見ながら、僕は少し笑う。

 暴論も暴論。穴だらけもいいところだ。それでも僕には、それが世界の真理なんじゃないかと思えるくらい確信めいたものになっていた。


「……とりあえず、医学部目指さないとなぁ」


 幼いころの未来を胸に、僕はベンチを立つ。

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