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新緑の季節を迎えた小樽公園の木々の葉は、光のバターを塗られたようにてかてかに輝いていた。鬱蒼と繁る木立の下で、優慈は田中に弓を教わっていた。
弓の授業は、大きく分けてふたつある。ひとつは基本的な「的当て」であり、もうひとつは感じた愛の気を「弓を使って正しく飛ばす」ことである。優慈は実際におもちゃの矢を使い、白樺の木にくくりつけた的に当てる練習を繰り返した。優慈はセンスがまるでなく、弦を引く力もなかった。教えてレベルアップするような期待は見込めず、「地道に練習するしかありませんね」と田中は言うしかなかった。「優慈君は球が速いけどコントロールが駄目なピッチャーのようなものです。ここぞという時にズバッと決まれば的当てのセンスがなくても気にすることはないのですが、さらに上の世界へ行くためには欠点をなくしておいたほうがよいでしょう。そのためには一に練習、二に練習です。家でも的当ての練習を欠かさずに続けてください」
次は、愛を感じる授業だ。こちらのほうは背中の翼を出し、全身の気配を消して、田中の指導を受けた。
優慈は愛に敏感だったが、界隈に住む多くの人間の「愛を感じる」のはかなり面倒で、できないし、疲れるし、次第に苛ついてきた。
「あっ、ほらっ、そういうふうにいい加減にやらないの」
田中は優慈を咎めた。優慈が力まかせに弓の弦を引っぱろうとしたからだ。
「力を入れてあやつろうとしても弦は引けません。弦を引かせるのは愛のパワーです。そのパワーを指先に集めるには、翼を研ぎ澄まし、清らかな心で愛を感じなければなりません」
我々が呼吸をしている空気の中にぽっぽとした春色の温もりがある。それが人々の愛だと田中は言うけれど、それをとらえるのはむずかしい。優慈は鼻の穴で感じようとした。空気の中の何かを見つけるのは嗅覚だろうと思ったからだ。しかし、「鼻も、耳も、目も、必要ありません」と田中は言う。「心で感じるのです」
多くのものは愛するもののことをぼんやりと考え、またかつて愛したものと過ごした日々を思いながら日常を生きている。その愛を正しく感じ、男女の組み合わせを創造するのがクピドの仕事だ。優慈は人の愛がわかるが、それはあくまで我流で、相手が身近にいる場合に限られる。遠くにいる不特定多数の人間の愛や思いを感じるには心神に相当の負担がかかる。それでも翼をアンテナのようにぴんと立て、界隈の愛を探していたら、大海からひょいと釣りあげたように、ぽっとした感情が優慈の心に飛び込んできた。すると、「いま、優慈君は愛を感じましたね」と田中が言った。
「それはおそらくここから一キロくらいのところにある携帯電話のお店で働いている女の人の愛でしょう」
「ほんとに?」
「間違いありません」
「すげぇー、そんなことまででわかるんだ。ただ愛を感じるだけじゃだめなんだね。誰の愛かもわからなきゃ」
「君はまだペーペーだから、愛を感じるだけで十分です」
「あっ、カチーンときちゃった。おれだって、感じれば、わかるって。えーとこの愛は、ぶっさいくな女の愛だな」
「その女の人はいま不倫をしています。相手の男は歯医者さんで、いま、BMWに乗って奥さんとヒルトンホテルへ向かっています。昼飯でも食べるつもりでしょうか。優慈君は面倒な愛を感じましたね。優慈くんがいま矢を放つと、優慈君が受け止めた女の人の愛は、歯医者の先生のところへ飛んできます。優慈君はまだ試験を受けていないので、気の矢を飛ばすことはできませんが、もしも、あっ・・・」
優慈は矢を放った。光の矢は木立を真直ぐ進み、公園から国道の方へ向かった。
「クピド協会にこのことが知れたら、私は咎められるでしょう。でも、今の弓の引き方はなかなかよかったですよ」
優慈が飛ばした「気」は小樽の繁華街にある携帯電話の店のカウンターで物憂げに接客中だった制服姿の女の体を射抜き、女の思いを運んで、歯医者の先生の車を追い掛けた。
「ミサイルみたいに、歯医者にちゃんと命中するかな」
「いまの段階では何とも言えません」
「うまく当たったら、歯医者と携帯電話のおねーちゃんはどうなるの」
「当然結ばれます」田中は答えた。「と言っても、優慈君にはまだ愛のパワーが足りないから、二人がよっぽど愛しあっていない限り、歯医者の夫婦の離婚はないと思いますよ」
「じゃあさ、歯医者じゃなく、別の男に当たったらどうなるの」
「その男がおねーちゃんを好きになります。まあ、それはよくあることで特にクリスマスのような忙しい時期になると、そういうことはしょっちゅうあります。別に気にすることはないでしょう。でも今のはいいタイミングでしたよ。そのタイミングを忘れさせないために、先生はいいことを思いつきました」
「どんなこと?」
「それは来週のお楽しみです。それまで優慈君は弓の練習をさぼらず続けてくださいね」
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