お題:海底

『私は海の底が見たいんだ』

 それは、彼女の口癖だった。

 俺よりずっと小さいくせに、俺よりずっと長く生きてて、俺よりずっと聡明な女性だった。そして、寄る辺なく薄暗い場所を歩いていた俺に、世界の広さを教えてくれた人だった。

 とても自由で、飽きっぽい人だった。散歩もガラス細工も釣りも、すぐに飽きて、またハマってを繰り返すのが常だった。

 そんな人がずっと情熱を向けていたのが、生き物の観察だった。絵に描いて、気付いたことをメモして、自分だけの図鑑を作るのが好きだった。いつも見ているモノたちの知らない部分が見えるから、と言っていた。

 だから、どんな生き物がいるかわからない海の底を見たかったのだろう。

「センセー、いるー?」

 はつらつとした声に続いて、ドアがノックされる。近所の村に住む子どもだ。

「どうかしたか?」

「港にヘンな魚が来たんだってさ。見にくる?」

「おお、行く行く」

 俺は作業を中断して家の外へ出た。久々の朝日が目の奥にジリジリ沁みる。

「センセー、もっとお外出なよ」

「やることがあるからな。お前も、こんな出不精じゃなくて他の友達と遊べ」

「えー? だってぼくセンセー好きだもん。村のみんなも、センセーのお薬とかイノシシの罠に感謝してるって言ってたよ」

 俺はいま、海沿いの村から少し離れた丘に小屋を建ててあるものを作っている。流れ者に加えて変わり者とくれば迫害されるかと思って、少しだけ持ち合わせている薬学や動物に有効な罠の知識を提供したのだが、それが大当たりだったらしい。

「そうかい。……それは俺の先生のおかげだな」

 全部、あの人が教えてくれたことだ。

 港に着くと、たしかに妙な魚が揚がっていた。目が真っ白で小さく、鱗が岩のような質感。もう死んでるのもあってか酷い悪臭がしており、食用には向かなそうだ。

「先生、そいついるか? 俺らも扱いに困ってよ……」

「もちろんだ。むしろ、無償で譲ってもらえることに感謝するばかりだよ」

 奇妙な魚を籠に入れて保護していると、少し離れた場所で笛の音が聴こえた。

「葬儀か」

「ああ。ほら、先生がこの前、薬をやった婆さんだ。……元々、病気が悪化してたんだ。先生は悪かねぇさ」

 安らかな死に顔の老婆は供えられた花と共に棺桶に眠る。

 この村の葬儀は土葬でも火葬でもなく、海葬だ。棺桶の底に重りを入れ、音楽のはなむけとして遺体を海流に乗せ、海原へ旅立たせるのだ。

 人は海に生まれ、海へ還る。

 あの人も、同じ考えをよく口にしていた。

「……どうか、安らかに」

 祈りを手向け、俺は踵を返した。

「先生、今日の夕方にも、また材料持っていくからな」

「助かる。もうすぐ完成なんだ」

「本当か? そいつは楽しみだ。俺も最初は信じやしなかったモンだが……あんたの情熱なら、信じたくなっちまうよ。海の底へ行ける船なんて夢をよ」

 正直者な猟師に、俺は思わず笑ってしまった。

「ああ。昔は俺も信じやしなかったよ」

 ふさぎ込んでいたら、何も信じれなかっただろう。

 だが俺は、夢をあの人からもらった。それだけで、俺は生きていられる。

「俺は海の底が見たいんだ。諦めやしないさ」

 いつか、あなたの夢を叶える。

 その時は、海底に眠るあなたに会いにいってもいいですか。先生。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る