お題:仕事場
「じゃあこの書類、『ヒカゲ』に届けてね」
「はーい」
渡された書類を抱えて、私はエレベーターに向かう。みんなが上へ向かうエレベーターを待つ中、私はただひとり、地下へ向かう方を待っていた。手持ち無沙汰で体を揺らしていると、同期に話しかけられた。
「あんた、また『ヒカゲ』さん?」
「うん」
「いい加減、嫌なら嫌って言いなよ。あんなトコ……私なら絶対行きたくない」
「まあでも、仕事だし」
スッパリそう返すと、同期は頭を抱えて呆れていた。公私混同をするなと言われるから全て割り切っているのだが、同期曰く私は「割り切り過ぎている」らしい。
同期に手を振って、地下へ降りていく。たった数メートルの高さを隔てただけなのに、地下一階は静寂に包まれていた。私は迷わず第二備品室のドアを開ける。閑散とした空気の中に、小さくキーボードを叩く音だけが響いていた。
「課長、お疲れさまでーす。こちら、お届け物です」
「……どうも」
備品室の一角に構えられた、たった一つのデスクとノートパソコン。振り向いた男性は、マジックで塗りたくったような隈をこしらえていた。
「上に届けるものってあります?」
「ない…………あ。受け取った書類、確認してサインするから、また取りにきて」
「それならここで待っています。上へ行くと別の業務が追加されるので」
「そう……」
彼は私が読む三倍のスピードで書類をめくっていく。
どうしてウチの課長がこの隔離されたような環境にいるかというと、現状が本人の希望だったからだ。上の階は足音や人の声がうるさくて集中できなかったらしい。ウチの会社は上司が柔軟で、けっこう融通が利く。彼は社内でも随一の有能だったので、「地下で仕事したい」という要望は即座に叶えられたそうな。
とはいえ、仕事場を孤独な地下にする変わり者だ。周囲は彼を『ヒカゲ』と呼んで、気味悪がっている。そのため、わざわざ『ヒカゲ』に物怖じしない私が書類を運んでいるわけだ。
「……確認、終わったよ。修正箇所も記載した」
相変わらず仕事が早い。他の上司がいつまでも書類の確認メールを寄越さないのに比べたら、地下に降りればすぐに処理してくれるこの人の方が何倍も頼もしい。
「ありがとうございまーす」
いつものように書類を受け取ろうとしたが、課長は書類を差し出さず、じっと私を見つめる。いくら物怖じしないとはいえ、この人は意外と体格もいいし、何より目つきが少し悪い。黙って歩くだけで、そこいらのヤンキーはたじろぐであろう威圧感が私を襲う。
「あ、あのー……」
「ああ。ごめん。……顔色が少し悪かったから」
「え……私のですか?」
小さく頷く。こんなほの暗い部屋で、よく人の顔色が判別できるものだと感心していると、課長は自分の鞄から取り出したものを私に差し出す。
「ホットアイマスクと……五百円?」
「目は温めると疲労が取れる。その五百円で好きな飲み物とお菓子でも買って、休憩するといい……」
それだけ言って書類を渡すと、課長はまたデスクに戻った。
「…………」
私はもらった二つをエレベーターの中でじっと見つめていた。
返された書類を届けて時計を見ると、丁度昼休憩の時間だ。私は近所のコンビニで好きな菓子パンを買って、また社内へ戻った。行先は、眠れるぐらい静かな場所。
「失礼しまーす」
「……何か、不備があった?」
「いえいえ。お昼寝をしに来ました。ここ、社内のどこより静かなので」
そう答えると、普段は微動だにしない課長の目が少しだけ見開かれた。私は笑顔でごまかしにかかる。
「いいですかね、課長」
「……埃っぽいかも。ルンバ走らせる」
その優しさに甘え、私は古めのソファで横になった。アイマスクのおかげで安眠できそうだ。
「おやすみなさーい……」
「……おやすみ」
安らかな仮眠の時間だ。
……え、会社で寝るのはダメだろって?
言ったじゃないですか。公私は割り切ってるんです。いまがどっちかは、想像に任せますけどね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます