恋に焦がれて恋壊ス

西野 夏葉

第1話

「ただいまー」



 秋の暮れ。

 家の二階にある自室で本を読んでいたら、半開きのドアの向こうから、わたしの妹・茉弥まやの声が聞こえてきた。茉弥は高校二年生で、帰宅部として毎日いかに帰り道を充実したものとするか……ということに情熱を燃やしているようだ。その割に、今日は完全に陽が落ちるまえに帰ってきたから、調子があまりよくなかったのかな、そういう意味では。


 さっと本に栞をはさむと、わたしは部屋を出て、階段をゆっくり下りていった。リビングに出たとき、ちょうどリビングと玄関の間にあるドアが開いたタイミングだった。



「おかえ……」



 当然わたしは茉弥がひとりで帰ってきたものだと思い込んでいたから、そこに茉弥以外の人物がもう一人いたことに驚きを隠せなかった。

 しかもそれが男の子とくれば、そりゃあ「おかえり」も最後の一文字を残してフリーズするというものだ。


 茉弥はわたしがかつて通っていた高校に通っているのだけど、あの学校は学年によって制服のネクタイの色が違う。いま、茉弥の隣でどことなく居心地が悪そうな顔をしている男の子は、茉弥と同じ色のネクタイを締めていた。



 ははあん。



「……お友達?」



 そんなわけないだろ……と察してはいるのだけど、一応当たり障りのない社交辞令じみた言葉を投げておいた。



「んーん。彼氏」



 どこか誇らしげな表情の茉弥は、隣に立つ男の子の背中を「ほら、自己紹介」と言いさま、バシン、と叩いた。



「痛っ。……あっ、すみません。鈴木海斗すずきかいとといいます。お邪魔してます」



 彼―海斗くん―は最初こそ茉弥の打撃による攻撃に驚いていたが、すぐに居住まいを正して、しっかりとわたしの目を見てお辞儀をした。学校さえ出てしまえばどうとでもできてしまうネクタイの結び目は、今も緩められていなかった。短めの黒い髪は、空気をふくんで遊ぶように止まっている。ちら、と手のほうを見やると、爪はきれいに切りそろえられていた。



 へえ。

 なんか可愛らしい子じゃないか。



 にこ、と愛想笑いにチェンジしながら、わたしは自己紹介をする。




「こんにちは。茉弥の姉の、あかねです」

「えっ、お姉ちゃん、そんな名前だったっけ」

「失礼だな、そんな名前だよ。茉弥は知ってるでしょう。……海斗くん、茉弥が迷惑かけたりしてない?」

「いえ、そんなことは」



 人懐こい笑みを浮かべながら、海斗くんは「ない、ない」のジェスチャーをしてみせる。

 横で茉弥はわざとらしくむくれながら、自分の腕を組んだ。



「そうだよ。こんな品行方正な妹がさあ」

「品行方正を名乗るなら、そんな極限までスカートを折るのはやめなさい? 下着が見えるよ」

「うるさいなー。ほら、お姉ちゃんなんてほっといて、あたしの部屋行こ」



 海斗くんの腕を、ぐい、と思いきり引っ張って、茉弥は自分の部屋の方へ歩いてゆく。

 どこか照れたような、困ったような。そんな笑顔をはりつけたまま、海斗くんは茉弥にひきずられるように遠ざかってゆく。

 去り際に少しだけわたしの方を見て(すみません)みたいに、首だけでぺこりと、またお辞儀をしていた。


 誰もいないリビングに、わたしだけ、たった一人取り残された。




***

 



「いつの間に彼氏なんか作ったの、茉弥」

「もうすぐ一ヶ月くらいかな。お姉ちゃんが大学行ってる間に、もう何回か家に連れてきてるよ」

「ふーん」



 夕食が済んで、ちょうどリビングが姉妹ふたりだけになったとき、わたしは声を潜めながら、茉弥から海斗くんとのなれそめを聞き出していた。この間に総合学習の発表の班が一緒になって、そこから急速に仲良くなっていったらしい。


 茉弥は夏の終わりくらいに、それまでずっと付き合っていた彼氏と別れていた。茉弥はその彼氏のことが本当に好きだったみたいで、しばらくは食べ物もろくに喉を通らないくらいだったけど、新しく好きな男が現れたら何事もなくケロリとしているあたりが、女の強さをいかんなく発揮していると言うべきだろうか。



 茉弥はさっきまでザッピングしていたテレビのリモコンを放り投げながら、言った。



「そういうお姉ちゃんは、ないの。そういう浮いた話」

「ないね」

「へーぇ。もう二年生でしょ。そろそろなんかないとまずくない」

「何がどうまずいって?」

「そのうち就活だ卒論だ、ってなってくんでしょ? その時になって恋したくなっても遅くない? 高校の時もそんなこと言ってたじゃん。のんびりしてたらまた同じ結末になっちゃうよ」



 へへへ、と茉弥はべたべたとした笑い声をこぼしながら、さっきまでリモコンを握っていた手で今度はスマートフォンを取り上げて、指をすいすい滑らせはじめる。

 もうわたしの反論になんて聞く耳もちません、みたいな顔をして。



 わたしは無言でソファから立ち上がると、リビングから通じる階段を上がって、自分の部屋に入るとドアを閉めた。

 バタン、という音がいつもより大きめに響いてしまったのは失敗だった。できるだけ平静を装うつもりだったのに、わたしがイラついているのが明らかに丸わかりになってしまう。今頃、茉弥はそんなわたしの行動を、斜め上に一瞬だけ目線を移しつつ嗤っているに違いなかった。




 あー。

 

 腹立つ。




 独り言ちながら、暗い部屋の壁をすっとなぞって、部屋の電気をつけた。

 デスクチェアの背もたれを引いてこちらへ引き寄せると、何か見えないものに突き飛ばされたように、勢いよく腰を下ろす。


 ちらりと目線を移すと、机の上に並ぶ筆記用具やデスクライトの隅に、写真立てがひとつ。その中におさめられているのは、高校一年生になったばかりのわたしと、同じタイミングで中学一年生になった茉弥のツーショット写真だった。強い風が吹いたみたいに気が立っているわたしを目の前にして、その写真立てはどこか所在なさげに縮こまっているように見えた。


 そのさまは、今日初めて会った時の、海斗くんのようだった。





 基本的には大人しいわたしと対照的に、茉弥はいつも口を開いてはあれこれと話を絶えず繰り出す、おしゃべりな妹だ。

 それがいいとか悪いとか言うつもりはないし、どちらにもいいところと悪いところが併存していると思う。




 思うけど。


 いつもはレースカーテンみたいな白いモノで覆っているわたしの心の、一番奥底には、確実にあるのだ。




 わたしはこの女が嫌い。




 何をどうしようと無視できない、くらい感情が、そこで静かに息づいている。




***




 もともと、わたしたち姉妹はとても仲が良かった。お互いに学校から帰ってきたらいつも一緒に遊んでいたし、どちらかの部屋でぺちゃくちゃ話していたらそのまま眠ってしまった経験はもはや数えきれない。わたしは茉弥をとてもかわいがったし、茉弥はそんなわたしにいつもなついてくれた。お互いに両親に言えない秘密だって、たくさん共有してきた。



 その関係に変化が訪れたのは、わたしが高校三年生の年だった。茉弥がわたしと同じ高校に進学することを嫌がったからだ。


 わたしは最初から大学に行きたかったから、高校はそれなりの進学校に進んでいた。反面、茉弥はそんなことを望んでいなくて、仲の良い子がたくさん受けることにしていた、わたしの高校よりレベルが低い高校に進むことを希望していたのだ。

 けれど両親も、中学校の教師も、それを許さなかった。わたしも現にその高校に通っていたし、なによりその頃の茉弥は別に成績が悪いわけではなかったことも響いた。そして、少しでもいい学校に行け……という大人たちの意思が優先された形で、茉弥もわたしと同じ高校に進むこととなった。



 三者面談を終えて帰ってきた茉弥は、わたしの部屋に怒鳴り込むように入ってきて、顔をくしゃくしゃにして。

 やがて大声でわめきながら、泣いた。



 せめて、お姉ちゃんがあんな学校に行ってなきゃよかったのに。

 ぜんぶお姉ちゃんのせいだ。

 お姉ちゃんなんかいなければよかったんだ。



 そう言って泣き吠える茉弥のことを、わたしは抱きしめることもできなければ、部屋から叩き出すこともできず、ただ冷たくなっていく胸の中の温度を感じながら見下ろすことしかできなかった。



 未来を選ぶことができなかった、かわいそうな妹。何もできない自分。

 茉弥がいま泣いているのは、わたしのせいなのかもしれない。

 そう思うと、身体が動かなかった。



 けれどもわたしの胸の中には、自分でも気づかないうちに、同じタイミングでまったく別の感情が生まれていたのだ。





 わたしがしたいことをして、何がいけないの。


 別に、わたしは「姉と一緒の学校に進め」なんて頼んでないし。


 なんで何もかもわたしのせいみたいに言ってんの、こいつ。



 ばっかみたい。





 友達なんていう危なげな関係と違って、血を分けたきょうだいの関係はずっと変わらない。

 そう信じていたわたしたちは、その日、世界はそんなに簡単ではないということを知ったのだった。

 



 結局、茉弥はなんだかんだと言いながら高校で新しい友達を作ってはいるようだけれど、当然進学なんてする気は最初からないから、成績は墜落寸前の低空飛行を続けていたし、服装や言動も乱れてゆくばかりだった。

 そうやって茉弥が変わってしまうスイッチを押してしまったのは、もしかしたら自分のこの手だったのかもしれないと思うと、今でも胸がつまる。



 でも、やっぱりわたし、悪くないよ。



 だって、それならさっきの茉弥のコケにするような態度は何だったの。

 あんなに好き好き言ってたくせに、別の男を見つけたら何食わぬ顔でそいつに好き好き言ってるんでしょ。

 なんなら高校時代に受験勉強ばかりしていたわたしより、いまの茉弥の方がよっぽど楽しそうだし。


 だったら、あの学校に進むきっかけとなったわたしに感謝こそあれ、なんなの、あの態度。




 ムカつく。


 ふざけんな。




 透明なガラスでできていた心に、蜘蛛の巣のようなヒビが広がった。




***

 



 一週間と少しが過ぎたころ。

 秋はコマーシャルみたいに短くて、早くも冬の足音が聞こえはじめた。わたしは大学の帰り、たまたま家の最寄りの改札で、制服に身を包んで少し前に我が家にやってきた顔を見かけた。



「海斗くん?」



 気づけば、名前を呼んでしまっていた。少しだけ、ぴくりと身体を跳ねさせると、海斗くんはわたしの方を振り向く。何者なのか……と少し怯えるような表情は、声をかけたのがわたしだとわかって、あの日のような人懐こい笑顔に変わっていった。



「……茉弥の、お姉さん」

「久しぶり、と言っても一週間くらいしか経ってないか。偶然だね」

「まさか、名前を憶えていてくださっているとは思わなくて、驚きました」

「これくらい覚えられないと、大学生なんかやってられないよ。いま帰りなの?」

「そうです」

「今日は茉弥、一緒じゃないんだ?」

「あー……えーとですね」



 最初はハキハキとしていた海斗くんの言葉が、みるみるうちに弱々しくなっていく。

 もしも海斗くんが茉弥と別れていたなら、茉弥はもっと家でも取り乱しているはずだし、そもそもあのおしゃべりな茉弥がそんなことを黙っているはずがなかった。


 きっと、海斗くんがいま茉弥と一緒にいないということには、何か別の原因がある。



「んー?」

「いや……」

「んん? どうしたのかな?」



 あえて、わたしはしらばっくれたような風に、にこにこと笑顔をはりつけながら、海斗くんの顔を覗き込むようにする。男の子にしては白い頬に、早送りするみたいに朱が差してゆく。


 ふーん。

 この子、なかなか可愛いじゃん、やっぱ。



 そうやってしばらく見つめて面白がっていると、やがて海斗くんが観念したような様子で、唇を開いた。



「……これ、茉弥には言わないでほしいんですけど」

「どうしようかな。内容によっては、考えなくもないよ」

「じゃあ、言わなくてもいいですか」

「だめに決まってるよね。そんなの」



 言いさま、わたしは海斗くんの手を、ぐっとつかんだ。海斗くんは今度こそ本当に驚いた顔になったし、その顔もしばらく見ていたかったけど、そこはちゃんとこらえた。



「さ、そこらへんのカフェにでも入って話を聞こうか」

「いやあ、あの、ちょっとこれから塾が」

「きみは部活もやってないし塾も通ってないって、茉弥が訊いてもいないのに教えてくれたよ。観念してお姉さんに話してごらんなさい。奢ってあげるからさ」



 がっくりと項垂れるようにする海斗くんのすがたを見ながら、わたしはなんだか、愉快で仕方がなかった。

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