640 マリア王女

 サルンアフィアの魔導書。いや、日本語で書かれた日記の中で唐突に出てきた「愛羅」。魔導書の中で初めて書かれていた、現実世界の人間の固有名詞が娘の名前と同じなのに、俺は目が点になってしまった。しかもこれまで書かれている文面や、俺が知っている事情がピタリと符合する。これはどう考えても、俺の娘を指しているとしか考えられない。


「・・・・・それは確実なのか?」


「ああ。愛羅が生まれた時、居酒屋で拓弥に話したんだ」


「居酒屋って・・・・・」


「酒場だよ。こっちの世界の。愛羅が生まれた頃に、拓弥と会う約束をして、居酒屋で顔を合わせたんだ。その時にさぁ、愛羅が生まれたのを拓弥に話したんだよ」


「嬉しそうだねぇ」


「ああ。愛羅が生まれた時は嬉しかったなぁ」


 意外そうな顔をしているトーマスに、当時の俺の気持ちを話した。裕介の時は結婚して程なく生まれたので慌ただしいだけだったが、愛羅の時は佳奈の妊娠の時から今か今かと待っていたので、生まれた時には本当に嬉しかったんだよ、と。懐かしいよなぁ。あれからもう二十年経つのか。こんな話をしていたら、ワインが欲しくなるじゃないか。


「帰りたいか?」


「勿論だ。だけど、愛羅が生まれた頃には戻れないだろうからなぁ」


「どうして?」


「拓弥。いやサルンアフィアだったな。サルンアフィアが戻って来た後を俺が知っているからさ」


「え? そんな事も書いてあるのか?」


「そうなんだよ」


 サルンアフィアはこう書いている。その時、自分と俺、佳奈の三人で今度会おうと話したのだが、結局会えずじまい。程なくこちらの世界にやってきたと。で、エレノ世界から脱して現実世界へ戻った拓弥は普通に結婚。子供も生まれ、俺と同じ様に家庭を築いている。何しろ俺と佳奈は拓弥の結婚式にも出席しているんだぞ。


「じゃあグレンが帰ったら、こちらに来た直後に戻るって事なのか」


「おそらくな」


 確証は持てないが、そうなのだろう。サルンアフィアと拓弥というこの二人。いや一人の人間の歩みを見る限り、少なくとも時系列的に過去に戻る。つまり時の流れを逆流出来ないという、不可逆的なものじゃないか。エレノ世界と現実世界を行き交う動き。精神と言うか、魂の動きの流れは、過去から未来へという一定のものだと思われる。


「で、妻室を交えてサルンアフィアと会ったのか?」


「いや、実はダメだったんだ。子供が小さかったからな」


 拓弥からの誘い。三人で会おうという話を俺は了解したのだが、佳奈が難しいと言ったのだ。裕介は三歳、佳奈に至っては〇歳児だから無理だと。そこからお互いに忙しくなってしまい、会おうという話は立ち消えになってしまった。その後、夫婦で顔合わせをしたのは拓弥の結婚式の時。しかし、あの結婚式は気軽に話せる雰囲気ではなかった。


「どうして、話せなかったんだ?」


「相手の親が議員さんの娘さんでさぁ。出席者が名のある人が多かったからだよ」


「それって・・・・・」


 俺の話に戸惑うトーマス。このエレノ世界に「議員」という職業はない。議会どころか、貴族の会合さえ存在しない世界だからな、エレノは。なので宰相府の幹部貴族の娘と結婚したようなものだと説明した。そこにトーマス、お前がシャロンと一緒に出席したらどう思うと聞いたら、緊張するよねぇと頷く。トーマスも少し意味が分かったようである。


「じゃあ、グレンは友人の日記を読んだって事になるのか」


「ああ。現実世界に来たトーマスの日記を読むようなもんだ」


「ああっ!」


 トーマスが勘弁してくれよと笑った。だが、本当にそうなのだ。こんな所でまさか拓弥の日記を読むハメになるとは思っても見なかったからな。サルンアフィアが転生者だってのは、ニベルーテル枢機卿から聞いていたので分かってはいたのだが、それが拓弥だとまでは聞いていないし。トーマスが神妙な顔をして聞いてきた。


「改めて確認するけど、サルンアフィアはこちらに来て、そちらに帰った。サルンアフィアはこちらに来る前には戻らず、こちらに来た後の時間に帰った。これでいいんだな」


「そうだ。でなければ、この日記の内容と辻褄が合わない。向こうの世界の辻褄が合わなくては世の中が成立しなくなるからな」


「そうなんだ・・・・・」


 嘆息するトーマスに、エレノの辻褄が合わなくとも問題がないのかもしれないが、とは言えなかった、何れにせよ、拓弥は愛羅が生まれて間もない頃にエレノ世界に転生した。そして現実世界へ戻ってきたと考えなければ、全てが合わなくなってくる。なので俺が帰ったら、転生直後に帰られる筈。後は帰るべき時さえ待てばいい。


「だったら・・・・・ 確実に戻られるのだな」


「ああ、後はゲートが開くだけだ」


 俺は自信を持って断言した。王宮図書館の地下室で確信した時、思わず両手で握りこぶしを作ったからな。「よしっ!」と思わず声が出たので、四人の司書達の視線が一斉に刺さって来たが・・・・・ しかし俺にはそんなものはどうでも良かった。帰られる。現実世界に帰られる。佳奈の元に帰られる。これで十分だった。


 俺がこの世界にやってきてから、ずっと思い描いていた事。現実世界とエレノ世界を結ぶゲートが存在する。ゲーム世界と現実世界を結びつけるバグのようなものがあると考えて、今まで調べ続けていたが、それが正しかったと初めて実感できた瞬間だった。勿論、おかしな部分は少なからずある。が、帰る俺にとってはどうでもいい話。


 何が優先なのか、大切なのか。そんなものを考えるまでもない。とにかく帰る。兎にも角にも帰られる事が重要なのである。帰ったら、後はその時に考えればいいのだ。帰られぬ今の状況を打開するのが肝要なのだから。俺が帰る事に思いを馳せていたら、トーマスがまだ魔導書の話は残っているのだな、と確認してきた。


「もちろんだ。後二冊あるぞ」


「じゃあ、最後に帰るんだな」


「ああ。記述が唐突に終わっている」


 俺は結末を告げると、トーマスが慌ただしかったんだねと話した。だがトーマスが想像している状況と、サルンアフィアの魔導書。いや日記に書かれいる状況は恐らく異なる。しかしまぁ、それは重要ではないので、いいだろう。俺は残る二冊の魔導書について話を始めたのだが、それを聞いたトーマスは意外だといった感じの表情になった。


 何故なら話の内容が、マリア王女との格闘の話一色に変わっていたからである。サルンアフィアの備忘録が、マリア王女の恋愛日誌へと変化した感じとなったので、あれっとなったのだろう。トーマスは、サルンアフィアが現実世界へと帰る為の準備や、その方法について書かれていると思っていたようで、これは予想外の展開だと呆れている。


 まぁ、普通に考えたらそうだよなぁ。サルンアフィアが現実世界に帰ったのなら、帰り方について書いてあるのは間違いないと思うだろ。ところが、世の中そんなに甘くない。時々書かれていた現実世界の話も全く消えて、マリア王女の話一色。マリア王女との間で起こる、日々の格闘について毎日のように綴っていた。


 それによるとマリアのサルンアフィアへのアタックは、日に日に強まっていたようだ。サルンアフィアもそんなマリア王女のペースにつられて、御苑の散策やら、一緒に乗馬など、王女のお付き合いをする事が度々発生。結果として、マリア王女とサルンアフィアはより親密となっていったのが、文章を読んでもよく分かる。


 こうした進展はサルンアフィアも、元より王女の事を好感していたからだろう。多少強引な部分は、どことなく佳奈と似ているようだからな。サルンアフィアはダメだダメだと思いつつも、マリア王女とより親密になっていく。そうした中でお互いに惹かれ合ったのだろう。この辺りはアイリやクリスと、俺との関係とそっくりだ。


 このような関係になってしまえば、いけないいけないと思っていても、歯止めをかけるのは中々難しい。どう説明すればよいか分からないが、止めようと思っても止められないのは、現在進行系で体験しているからよく分かる。それはマリア王女も同じだったようで、私塾へ来たある日、隙を見てサルンアフィアの執務室の中へ入り込んでしまった。


 そこでマリア王女がこの日記を発見する。開くと当然日本語が書かれているから読めない。なのでマリア王女は、読みたいから日本語を教えろと、サルンアフィアに迫ったと書かれていた。これにはサルンアフィアも参ったようである。押せ押せモードのマリア王女の前にサルンアフィア。いや、拓弥もタジタジだったようである。


 これはマリア王女が完全な恋愛モードに突入しているのだなと思った。佳奈がここまでしているのを見たことがないが、アイリならある。日頃は控え目なアイリだが、突っ込んでくる時は本当に猛進してくるからな。しかもマリア王女。サルンアフィアの文面を見ると、アイリと同様、相手が転生者である事を承知しているようだ。


 その上でマリア王女はサルンアフィアに激しく迫ったのである。最早リミッターの外れたマリア王女は、距離を取ろうと腐心するサルンアフィアの気持ちなぞ無視するかのように、私塾にまで頻繁に押しかけるようになったという。その理由は魔法の実地研修。サルンアフィアが作ったリングの上であれば、何者にも阻まれる事無く、魔法が存分に発動できるというもの。


 この頃から闘技場のリングはあったのか。このリング。魔力が年々落ちているエレノ世界の中で、しっかりと魔法が唱えられるように、サルンアフィアがサルジニア公国との国境線の結界と同様、魔道士達の力を思念で一つにして作ったと書かれている。三〇〇年以上、魔法の効力が維持されている点も両者同じである。


 しかし、それにしてもマリア王女。それらしい名分を取って付けてきたものだな。本気でサルンアフィアを落としにかかっているとしか思えない。手段を選ばぬ突撃の仕方はクリスのそれとそっくりだ。冬休みの時の出来事を思い出す。公爵邸へ帰っている筈のクリスが突然一人で現れ、ここで寝たいと黒屋根の屋敷で一緒に寝た事があった。


 あの時クリスはノルト=クラウディス家の者だけではなく、トーマスとシャロンまでもけむ・・に巻いてやってきたからな。お陰で監視が強まってしまった。しかしマリア王女とクリスは祖先と子孫。こうした芸風は先祖伝来、脈々と引き継がれているのだろう。しかしここまで本気のマリア王女。もう誰も止められなかったのではないかと思う。

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