567 融資の全体像

 『貴族ファンド』書類整理も佳境に入っていた。グレックナーの妻室ハンナが加わった事で、小麦特別融資を受けていた貴族家の分類が一気に進んだのである。またハンナが来てくれたおかげで、貴族会議終了後の貴族達の動向が色々と分かってきた。例えば『貴族ファンド』から多額の融資を受けて、小麦相場に入れ込んでいた貴族の話。


 ハンナによれば、小麦特別融資を受けていた多くの貴族達は、返済が帳消しされると見ているらしい。理由は勅令で強制的に小麦価格が五ラントとされたので、王国側が責任を持って「徳政」を行うべきだと考えているというのである。俺が「徳政」という謎の言葉について聞いてみると、徳政とは借金の棒引きを指す言葉だという。


 自分達が持っている価値ある小麦を五ラントに毀損したのだから、それをまどうのは当然であるという論法である。加えてフェレット商会の領導が行方不明である事や、『貴族ファンド』の事務所が焼けて契約書類も紛失してしまっているので、融資を返済する所もなく、負債そのものも無くなってしまっているのではないかという主張である。


「おいおい、ここに契約書類はあるぞ!」


「そうですわね。まさかこのようなものをこのような所でお見せ頂けるなんて・・・・・」


 ハンナは微笑みながら、そう言葉を返してきた。ハンナに屋敷へ来てもらうに際し、「貴族名簿の確認をして欲しい」と詳しい話をしていなかったので、まさか貴族界で今話題となっている『貴族ファンド』の書類を見られるなんて思っても見なかったというのである。しかしそれにしても本当に我田引水、自分勝手な解釈をするものだと思う。


 そもそも『貴族ファンド』からカネを借りたのは自分達の筈。カネを借りて小麦相場へ入れ込んで、大損をこいた責任を棚に上げ、よくもまぁ「貴族無罪」と叫ぶ事が出来るものだ。まるで踏み倒しこそ我が生き様。これぞエレノ貴族の真骨頂というもの。こういう話を聞くと、小麦特別融資のこの名簿、絶対に表舞台に上げなきゃいけないな。


「アウストラリス派内では、アンドリュース侯とゴデル=ハルゼイ侯との対立が高まっているそうです」


 やはりそうか。二家とも所領があるのはムファスタ周辺で、ゴデル=ハルゼイ候にやたら対抗心があるような事をアンドリュース侯が言っていた。決闘の際に一度見た事があるが、学園同窓会『園友会』の会長を務めるゴデル=ハルゼイ侯は貴族至上主義者として知られているだけあって、商人身分の俺とも相性も悪そうだった。


「今のところ、ゴデル=ハルゼイ侯の方が優勢とか」


「派内の勢力がか?」


 俺がそう聞くと、ゆっくり頷くハンナ。大体七割の貴族がゴデル=ハルゼイ侯、三割の貴族がアンドリュース侯に付いていると言われているらしい。領袖なき貴族派の第一派閥、その分裂も時間の問題だと囁かれているそうだ。ハンナの話を聞いてクラートが心配そうな表情を浮かべている。クラート子爵家はアウストラリス派に属する貴族家。


 まして今のクラートは単なる子爵家の娘ではなく、当主である父に代わって子爵家の采配権を持つ立場。姻戚関係にあるディール子爵家の実権を握った叔母ディール子爵夫人に従い、アンドリュース侯側に付いているが、自分達の方が少数派だと言われては不安になるのも無理はない。その辺りの空気を察したのか、レティがクラートに声を掛けた。


「アンドリュース侯は今、多数派よ。心配しないで」


「そうですわね。貴族会議に賛成した勢力は少数派、反対した勢力の方が多数派になっておりますから」


「しかも賛成した側の盟主は、もういないし」


 ハンナの指摘にあっけらかんと言うレティ。弟ミカエルが無事であるという報を受けて、すっかりいつもの調子を取り戻していた。アンドリュース侯を信じるべきです、というクリスの言葉に頭を下げるクラート。三人の言葉を受けて、クラートも落ち着いたようである。しかしゴデル=ハルゼイ侯、本当に大丈夫なのだろうか?


 というのも、現段階でもっとも小麦特別融資を引き出していたのがゴデル=ハルゼイ侯、その人だったからである。その額四二億二〇〇〇万ラントと、群を抜いていた。因みに二番手に位置しているのは、この屋敷の元の持ち主レグニアーレ侯で一九億四〇〇〇万ラント、三番目はヴァンデミエール伯の一六億八〇〇〇万ラント。


 いずれもアウストラリス派の幹部貴族。ヴァンデミエール伯はディール子爵と嫡嗣に、小麦特別融資を強く推していた人物。ディール子爵夫人の話から何度も名前が出てきたので、鮮明に覚えている。しかしアウストラリス派の派閥幹部ときたら、たっぷりと融資を受けていたようだ。


 その上で派内の多数派を形成するのに精を出すなんて、本当に危機感が無さすぎる。危機感がないと言えばハンナの実家ブラント子爵家が属するランドレス派の領袖ランドレス伯も同様で、自身に造反した形となったブラント子爵らに対し、詫び状を提出さえすれば咎めはしないと通知しているらしい。


 勿論、誰も返信していないそうだが。ここもブラント子爵らは派内では少数派であるが、貴族全体から見れば多数派。ランドレス伯は自身が少数派に位置しているという自覚がないのではないかと思う。木を見て森を見ずというヤツだ。その点において、ゴデル=ハルゼイ候らと相通じる物がある。


 貴族会議が「小麦を強制的に五ラントで売る」という勅令出す形で終わり、盟主アウストラリス公が都落ちまでしているのに、自分達は何も変わらないという自信は何処から来るのか? 恐らくは貴族意識、特権を自分達の権利だと考えるそれが、そうさせているのであろう。


 しかし何も考えないというのは、実に恐ろしい事だと思う。それはそれとして、整理を始めて五日目。ハンナの協力もあって遂に全作業は終了した。この結果明らかになったのは、総融資額四八六五億三七〇〇万ラント。融資貴族数千九百八十八家という恐るべき数字だった。これは全貴族の六割に迫る数だとハンナが言う。


 それだけ多数の貴族が『貴族ファンド』からカネを借りていたのである。別の言い方をすれば、『貴族ファンド』が貴族家に食い込んでいた、あるいは多くの貴族家が融資を欲していたと言えよう。ただ、全ての家が小麦特別融資を受けていた訳ではない。二百家余りの家は通常の融資を受けているのみで、小麦特別融資を受けていなかった。


 どのような事情で小麦特別融資を受けなかったのかは不明だが、この家々はリスクを回避したと言えよう。この家々を除いた千七百七十四家。全貴族の半数近くの貴族家が小麦特別融資を受けて、小麦を購入していた事になる。『貴族ファンド』において如何に小麦特別融資のウェイトが大きいのか、融資を受けた貴族家の数を見ても明らか。


 それは融資規模においても顕著に示されていた。総融資額に占める小麦特別融資の割合は九割に迫っており、その額四二八九億二三〇〇ラント。日本円換算にしておよそ一二兆八七〇〇億円が小麦相場へ注ぎ込まれた形。この額に小麦特別融資を受けた貴族家の数で割ると、およそ二億五〇〇〇ラント。


 このカネが小麦を介したマネーゲームに注ぎ込まれた計算となる。これじゃ、民衆の怒り大爆発なのは当然だ。こんな事が現実世界で起こった場合、大暴動程度は済まないだろう。しかし、ここまでの貴族が入れ込んだ理由について、欲望やら守銭奴と一括りには出来ないような気がする。


 勿論、ディール子爵親子やクラート子爵のように目が眩んで、相場に入れ込む者が多いのは間違いない。ただ、彼らもゴデル=ハルゼイ侯や、ヴァンデミエール伯といった有力貴族達に煽られた部分があったのは事実。消極的ながら『貴族ファンド』からカネを借り、言われるがままに小麦相場へカネを突っ込んだ貴族もいたのではないかと思う。


 というのも人というもの、どうしても周りに流されてしまう生き物だからである。有力貴族の歓心を買いたい者や見栄を張りたい者、同調圧力の中で心を傾く者や、人付き合いの中で止む無くという者もいるだろう。一見同じように見えても、動機や理由は千差万別。環境や状況がそれぞれに異なるのだから、それは当たり前の話。


 しかしながら民衆にはそんな事はどうでもいい話。厳しいカースト社会のこのエレノ。人の動機や感情などは無視して、極めて階級的に分析されるだろう。貴族が貴族専用の融資を使って、自分勝手に遊んでいた。被害者はいつも我々だと。同じように数字とカネも情を挟まない。小麦相場に入れ込んで大損したと、一括りにされて終わりだろう。


 また小麦特別融資を受けた後に、融資を返却した貴族家がおよそ六十家あった。その中にはディール子爵家やクラート子爵家。アンドリュース侯の血縁であるアンドリュース=ドルト子爵家、オースルマルダ子爵家、バルトー男爵家、アイスルアーラ男爵家などが含まれている。


 またリサが言っていたエルベール公の親族。ブラスティ伯爵家やアメストローヌ子爵家の名もあった。返却済み貴族の多くがリサ・ネットワークの中にある家。だが、それとは無関係そうな貴族家が幾つかある。例えばトレープ=サビリア伯という国王派第二派閥トーレンス派に属する貴族がそれ。


 八億七〇〇〇万ラントも借りながら、貴族会議の開催が決まる直前に一括返済していた。派閥領袖のトーレンス侯の目を恐れて返却したのか、相場の空気感を読んで小麦を売却したのかは不明。前者だったら強運の持ち主であり、後者であれば彗眼の持ち主という事になるだろう。


 クリスやハンナによると初老で目立つような人物ではないそうだが、トレープ=サビリア伯は危ない橋をすり抜けて、かなりのカネを手に入れたのは間違いない。また、このトレープ=サビリア伯。貴族会議開催の建議には賛成していない。つまり会議の開催に賛成していた貴族だけが融資を受けていたのではないのである。

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