033 剣崎浩一

「グレンにはできますから」か。


 夜、寮の部屋でワインを口に含ませながら、図書館でのアイリとのやり取りを改めて思い出した。「何もできない俺」という恐怖。それは現実世界に居たときでさえ、体験した事がなかった感覚だった。


(あれは一体なんだったんだ)


 不覚にも四十代のおっさんが十代の女の子に取り縋るような醜態を晒してしまった。この事もショックだ。無様としか言いようがない。いくらアイリが主人公補正を持っているからといって頼ってしまった事に対し、申し訳ない気持ちになってしまう。


 確かに俺は不定形な業務は苦手だ。だから営業のようにその場の臨機が求められる仕事や作業は向かない。だから現実世界ではそういう仕事に触る事はなかったし、近寄ろうともしなかった。危険要素は常に回避する。それが俺の生き方だった。唯一リスクを負う覚悟で動いたのは、佳奈に告白した時ぐらいだ。


 佳奈と知り合ったのは俺が大学生の時。俺の高校時代からの親友・相沢拓弥たくやの彼女としてである。拓弥は男前で交友関係が広く、勉強もスポーツも音楽もできる俺とは対照的な『完璧超人』で、連れてくる歴代の彼女も当然ながら綺麗どころばかり。ただ、その中でも佳奈は別格だった。


 拓弥から初めて佳奈を紹介された時、佳奈の姿に思わず見惚れてしまった。あれと同じ経験はアイリと初めて会った時ぐらいなものだ。それまで紹介された子に対しては何か思ったことさえなかったのだが、拓弥に羨ましいと嫉妬するような感情を抱かせたのは佳奈一人だけ。正直、一目惚れだった。


 当時の佳奈は今と違ってセミロングで、髪の色のトーンを少し落として落ち着いた色にしていた。佳奈は気負わない明るい性格で、どちらかと言えば内向的だった俺ともすぐに打ち解けるぐらい社交的だった。拓弥の彼女の中で、唯一マトモに喋ったのは佳奈ぐらいなものだ。


 拓弥は女たらしという訳ではなかったのだが、付き合っても長く続く方ではなかった。一番短い人で一ヶ月、長くても半年程度だったのだが、佳奈とは長く続いていた事を考えると、拓弥にとって佳奈はいい彼女だったのだろう。人の彼女を取る趣味などない俺は、自分の思いを胸に秘め、そんな二人を遠巻きに見守る、ではなく眺めるだけだった。


 そんな二人が別れたのは俺たちが四回生に上る前くらい。確か正月を越えたくらいだったのではないかと思う。拓弥から別れたとの話を聞いた時、クリスマスも一緒に過ごしたのにか?と聞いた覚えがある。どうして別れたのかと問うても、判らないんだよなぁ、と返ってきた。佳奈の側から別れを告げたのである。


 そんな佳奈とバッタリ会ったのは、その話を聞いた三ヶ月後のこと。街中での事だった。折角会ったんだからカフェにでも、という佳奈の誘いに、天にも登るような気持ちを抑えながら店に入った記憶は今でも鮮明に覚えている。拓弥に対する後ろめたさや罪悪感を抱きながら、それ以上に佳奈と話せるという欲求というか、欲望が勝った。


 佳奈との会話、初めての一対一の会話はとても弾んだ。今は彼氏が居ないという佳奈と過去のこと、現在のこと、これからのこと、二人で時間を忘れて語り合った。他愛のない話なのだが、実に楽しかった。それに笑顔で答えてくれる佳奈。よく考えればアイリとの会話と似た感覚。夢中になれる魅力が佳奈にはあった。


 ただ偶然出会ったからといって、ドラマのような神展開は現実には起こらない。佳奈が彼女だったらいいな、と思いながらも付き合おうという発想にはなからなかったからで、俺が女と付き合った経験がゼロだったことも要因の一つだろう。共に連絡先を教え合ったのだが、お互いやり取りもなかったので、俺たちの関係に進展はなかった。


 それが変わったのは、再会してから四ヶ月ぐらい後のこと。はたまた街で佳奈と出会った事がきっかけだった。そのとき佳奈は女友達と一緒にいたのだが、その友達が用事があるからと、佳奈と別れたことで俺と佳奈は再びカフェに入った。今度は俺の方から誘ったのだが、これでも勇気を振り絞っての誘いだった。


 店に入ると、前と同じく二人の会話はとても弾んだ。就職がどうかとか、ピアノの話とか、不思議と何でも話せる空気だった。そのうち佳奈がまだ彼氏が居ないという話となったとき、俺は腹を括った。俺は元彼の友人。断られるのはむしろ当然のこと。当たって砕けろだ。だが今告白しなければ後悔すると。


「竹原さん。ずっと好きでした。俺と付き合って下さい」


 唐突な告白に佳奈は暫し固まっていた。会話の最中、何の脈略もなく告白した俺がどうかしていたのだが、今言わずにはいられなかった。


「はい。私の方こそお願いします」


 軽く会釈して恥ずかしそうに微笑む佳奈。気がつけば俺は立ち上がってガッツポーズをしていた。客の視線が俺に集中したが、興奮しすぎて全く気にならなかった。多分、あれが俺の運を使い果たした瞬間だろう。この後どうしたのか全く覚えていない。気分が高揚しすぎて、記憶が飛んでしまったのだろう。


 俺は拓弥に佳奈と付き合い始めたことを携帯で告げた。佳奈の元彼である親友に隠し事をしたくなかったからだ。当時、既に拓弥には新しい彼女がおり、そうしたことも佳奈と付き合う事への後ろめたさを感じなかった理由だった。俺の話を聞いた拓弥はちょっと驚いた感じではあったが、俺たちの付き合いを祝福してくれた。


 そこから俺と佳奈は深い関係どころか、一気に結婚への道を突き進む。一年後、佳奈が妊娠している事が明らかとなった。俺たちは急いで式を上げ、俺たちはあっという間に夫婦になった。そうこうしている間に長男祐介が誕生。三年後には長女愛羅が生まれる。本当に怒涛の二十代だった。


(今考えても無茶な結婚だったよなぁ)


 グラスのワインを口に含めながら、当時のことを思い出す。就職半年で結婚し、その半年ぐらい後で長男出産。結婚が早すぎて暮らすカネにも困る有様だったが、佳奈と一緒であれば苦にもならなかった。


(佳奈のウエディング姿、本当に綺麗だった)


 目に焼き付けたウエディングドレスを着た佳奈の姿を思い出すと、目から涙がこぼれだす。いくら拭いても涙が止まらない。突然、このエレノ世界に飛ばされてから六年。未だ佳奈と会えずじまい。ようやく学園入学こそ果たしたものの、現実世界への帰還という本来の目的から遠く離れたところにいる。


 それにしても涙腺が弱くなった。これも年齢の成し得ることなのか。俺は目頭を押さえ、涙を止める。よくよく考えれば、毎晩ワインを飲んでいるのも、無意識のうちに精神の均衡を維持しようとしているからかも知れない。


(俺は本当に帰ることができるのだろうか?)


 帰還への進展がない今、焦りが俺を弱気にさせる。もしかすると、こうした焦りが潜在化して、図書館での「何もできない俺」というような、突発的な恐怖を誘発させている可能性がある。俺にはできるとアイリは励ましてくれたが、展望が見えない状況で俺は自分の弱気に打ち克つことができるのか。


(そういえばウチの親父は仕事をやめてから、もぬけの殻になってたな)


 俺の父親は昔で言うバリバリの企業戦士だった。社畜生活一筋、課長補佐止まりの俺とは違い、弱電メーカーで事業本部長にまで昇進した。当然ながら給料も高額。おかげで俺は長くピアノができたし、学費も気にすることもなく大学にも進むことができた。結婚費用も全部親出しだ。母親も働きに出なくてよいので専業主婦。


 そんな父親がリタイヤしたのは六十二歳の時。子会社に出向し、取締役を退任したのを最後として身を引いた。社会人として曲がり角を過ぎた俺だからわかるが、社会人としては上出来、大成した方だ。時代も良かった。しかし、退職した父親は物事への感心を急速に失っていく。俺の子供たち、父親から見れば孫に対しても全く関心を示さなくなった。


『抜け殻』


 昨日まで一線でバリバリ働いていた男が、今はただ家にいるだけの「何もできない人間」に変わってしまったのだ。心配した母親が病院に連れて行くと、何件目かの病院で「燃え尽き症候群」と診断された。その後、治療に取り組むことになるのだが、芳しいものではなかった。今から考えれば心の中で治療自体を拒否していたのかもしれない。


 親父と俺との違いは「できる男ができなくなった事を認識した」か「できない男ができないことを再認識した」かの違いだろう。親父はできる自分の認識しかなかったところに、仕事自体が無くなったことで「できなくなった」と思い、俺はできない自分を自覚しながら、できなかった事自体を忘れてしまっていたという感じか。


(だったら俺は「できない」事をより自覚すればいいのではないか)


 元々できない自覚はあるのだから、それを常に意識しながら暮らせば、ああいった「気付き」による狼狽を防ぐ事ができるのではないか。分からないから、分からぬうちに病を背負うのであって、分かっていればそのリスクは自ずと少なくなるはず。意識をすることは萎縮もするが、リスクを減らすことにも繋がるはず。


 そう考えると気が楽になった。こうやって自分の過去を思い返すことで、何がしかのヒントがある。ここでの俺は十五歳だが、現実世界の四十七年の経験があるのだ。俺にできることは二つの世界で生きてきた経験を活かすこと。これならアイリの言う『俺ならばできること』だ。


 社会的な成功を収めた部類に入るだろう親父と、そうとは言えないだろう俺。一般的にはそのような認識かもしれないが、どちらが幸いなのかは本人すらわからない。親父が俺が佳奈を愛するぐらいに母親の事を思っていたのかは不明だし、バリバリ働いていた頃の親父が退職後の自分の暮らしを望んでいたとは思えないからだ。


 親父は最終的には生きることにすら興味がなくなってしまったのか、六十六歳で人生の幕を下ろした。死因は急性心不全。自分から心不全を起こしに行った感もなくはない。そして母親の方も父親の病気と戦うのに摩耗したのか、三年後に脳梗塞で世を去ってしまう。六十五歳だった。今の時代、若死にだといえば若死の夫婦だった。


 俺は佳奈とはそうならないようにしたいと頭の片隅に常にあるのだが、現実には子供のことは佳奈任せ。共働きで佳奈を駆り出し。つくづく佳奈に甘えた暮らしをしてしまっていた。親の事を思い出し、家に帰ったら、少しでも佳奈の負担を減らしてやりたいと改めて思う。


(なんとしてもゲートを探し出し、現実世界に帰ろう)


 俺は決意を新たにし、グラスのワインを飲み干した。

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