032 『癒やしの力』

 俺はいつも通り四時五十分くらいに起床した。前の日のワインが残っているのか、少し頭が痛い。レティが酒呑みなので、それに合わせて飲んでしまうのはしょうがないが、抑えながら飲んだので、今日は身体が普通に動く。


 いつもならここで柔軟体操をするのだが、今日は学食「ロタスティ」に直行した。『緊急支援貸付』の告知ポスターやビラのセッティングの為である。昨日学食側に伝えてあったので、中に入りポスターを貼ってビラを置いた。特にポスターは十五枚作ってもらったので、学食内と学食の外にこれでもかと貼ってやった。


 後は食事、休憩、事前運動、鍛錬、風呂という普段通りのスケジュールをこなし、何事もなかったように教室に入ったのだが、中に入るやいなや、いきなり取り囲まれた。


「おい! 昨日の話、本当だったんだな!」

「ありがとう! 助かったわ!」

「『ビートのグレン』さまさま・・・・だ!」

「さすが『ビートのグレン』よ!」


 一瞬何が起こったのかわからなかったが『緊急支援貸付』のことのようだ。というか、『ビートのグレン』って、ここまで広がっているのか。


「いやいや、昨日生徒会に掛け合ったら会長代行の人が応じてくれたんだよ」


「アークケネッシュって人が?」


「そうそう。あの人が進めてくれたんだ」


 皆の話を総合すると朝の生徒会室は大混雑だったらしい。そこで申請書だけを出して、後で順次受け取りという話だったので、混雑していてもスムーズな手続きだったとの事。これは副会長代理エクスターナの提言のおかげだ。


 俺は自分の席に座ると、早速フレディ、リディアに事情を聞いてみた。


「朝の「ロタスティ」、凄かったのよ」


「そうそう。昨日までなかったポスターがあちこちに貼られてあって、人だかりができて」


 学食「ロタスティ」の告知はよく効いたようだ。


「みんな助かった! とか、救われた! みたいに叫んでいて・・・・・」


 リディアが少し複雑そうな顔をした。自分は勝ったけれど、という後ろめたさのようなものがあるのだろう。いい子だよな。本当にやさしい。


「生徒会は決戦賭博を開いた立場だから、道義的な責任はあるんだよ。賭けた人は自分の責任だけだけど」


「そうだと思う。胴元だもん。でもこの支援で責任を果たしたよな」


 フレディの言葉に俺は答えた。


「後は、支援を受けた人間がどう受け止めるかだ」


 『緊急支援貸付』の評判は上々だったようで、賭けに負けた生徒がかなり申請、または申請しようとしているようだ。既に五百人近い生徒が申請したという話も出ている。みんな相当負けたんだな、と実感した。


 ――昼、「ロタスティ」でアーサーを捕まえた。というかほとんど一緒に食べているので捕捉するのは簡単だった。そのアーサーの話によると、今日もドーベルウィンは来ていないらしい。俺たちはドーベルウィンの消息を知るべく、決闘の際にドーベルウィンのセコンドに付いていたスクロードを探した。


 スクロードのクラスに本人が居らず、その行方探しに往生していたが、廊下でバッタリ会ったので早速二人で問い詰めた。最初、俺たちがスクロードを襲うためにやってきたと考えていたのか、すごく萎縮していたのだが、ドーベルウィンの行方を尋ねているだけだと知ると、あっさりと教えてくれた。


「実家に帰ったんだよ」


「は?」


 スクロードの回答に俺たちは唖然とした。話によるとドーベルウィンは負けた直後、そのまま馬車に乗って逃げるように家に帰ってしまったらしい。だからその後、ドーベルウィンがどうなったのかについてスクロード自身も知らず、心配なのだという。


「いずれにしてもドーベルウィンがちゃんと戻って来るようにしなきゃならんな」


 俺の言葉にアーサーは頷いたが、スクロードは意外だったようで、訝しげな表情を浮かべながら聞いてきた。


「決闘したのにか?」


「当たり前だろ。戦いが終わってるのに、なんでドーベルウィンを追い詰めなきゃならん」


 アーサーが金髪をかきむしりながら答えた。スクロードはなるほど、と言いながらも首を傾げている。おそらく半信半疑なのだろう。ここは貴族学園。決闘に負けて貴族が学園辞めたなんかになったら、全部俺の責任になるんだぞ。もう少し想像力を働かせて欲しい。


「ところでスクロード。男爵夫人を介してドーベルウィン家にアプローチをかけられないか?」


 俺の提案にスクロードは考え込んだ。どういうことだとアーサーに問われたので、男爵夫人はドーベルウィン伯の姉上だと伝えると、そういうことかと納得してくれた。スクロードがドーベルウィンのセコンドについていたので、どんな関係か調べたのだ。


「つまり母上から、叔父上に働きかけを?」


 俺の説明を聞いていたスクロードは少し興味を持ったようだった。


「お前がドーベルウィンに直接言うより効果があるのでは、と思ってな」


「確かに・・・・・」


 スクロードは少しやる気になったようだ。母に手紙を書くので協力をお願いしたいと頭を下げてきたので、その場で早馬の手筈を整え、今後は連絡を取り合って動こうと約束した。俺の身を守るためには、奴の学園逃亡だけは絶対に阻止しないといけない。どこまでも世話が焼けるぜドーベルウィン。


 ――放課後、俺は久々に図書館に向かっていた。途中、クリスの従者トーマスと会い、約束していた決闘賭博の配当金三八〇〇万ラントを引き渡したので、いつもより時間が遅くなってしまったのである。例によっていつもの指定席に向かうと、そこにはアイリが待ち構えるように座っていた。


「やぁ、アイリ」


 ニコッと微笑んでくれるアイリを見て、正直ホッとした。


「レティシアから話を聞きました。決闘が終わってからも大変だったのですね、グレン」

「私のクラスでも『貸付』の話が凄くて。みんな大騒ぎでしたよ」


 アイリはレティから話を聞いているようだ。普段、奔放に振る舞っているかのように見えるが、こういうとき、それとなく伝えてくれるレティの存在は大きい。俺は本も持たず、アイリの向かいに座った。


「えっ」


 俺は絶句した。座った世界が反転したような感覚に襲われたのだ。自分の正体を知ってしまった瞬間に立ち会うという、形容しようがないこの衝撃。


「グレン、どうしたの・・・・・」


 自分の顔が引きつっているのが分かる。アイリが不安げな表情を見せているのはそれが原因だ。この場を立ち去りたくて仕方がない衝動に駆られる。というか止められない。俺は慌てて立ち上がり、無言で立ち去ろうとした。


「待って!」


 アイリは俺の腕を両手で掴んできた。


「何かあったの、グレン」


 俺の中で時間が止まった。どうすればいい。


「アイリ、「ロタスティ」に行かないか?」


「はい」


 俺たちは図書館を後にして、「ロタスティ」に向かい個室に入った。終始無言、部屋に入っても重苦しい空気が漂う。だがアイリは俺が何かを言うのを待ってくれているようだった。


「実はな」


 俺が口を開いたのは部屋に入って十五分ぐらい経った後だろうか、目の前に出された紅茶の湯気も立たなくたってからだった。


「あの椅子に座った瞬間、俺はなんにもできない人間・・・・・・・・・・だと気付いてしまったんだ」


 アイリの大きな青い瞳が見開いている。なにか言いた気ではあるが口をつぐんでいるのは俺に気を使ってのことだろう。


「いつもならアイリより前に来て、自分が今日読む本を積んでいる所でアイリがやってくる」

「ところが今日は逆だった。アイリが先にいた。俺があとに来て、席に座った時に分かったんだ。『なんにもできない・・・・・・・・』って」

「俺はアイリより先に来て、事前準備ができていないと、言葉一つさえ交わせない人間だって、さっき気付いたんだよ」


 そうなのだ。俺は本来、事前に準備し、予測し、組み立てたシナリオやパターンに沿った動きしかできない無力な人間。現実世界ではそうだったし、だからこそ社畜一筋だったし、ルーチンワーカーなのだ。


 ところがエレノ世界では俺の知識が役に立つ局面があって、シナリオが先読みできるようになったりしていたために、すっかりそれを忘れてしまっていたのだ。アドリブができない、臨機に対応できない俺という人間を。


「それの何がいけないのですか!」


 アイリがこちらを見据えて、強い口調で迫ってきた。


「人はできないから・・・・・・準備や勉強をするのでしょう。できないことの何が悪いのですか!」


 発せられる威圧感から口を開けなかった。俺はアイリに圧倒されている。怒っている訳ではないが、その言葉には強い意志がみなぎっていた。


「その場その場で対応できることが素晴らしい事なのですか? 確かに生きていくには必要な力かもしれません。ですが、それができないからといって嘆かなければならない事ですか?」


「・・・・・俺にとって『なんにもできない』のは恐怖だ」


「なら『恐怖』に打ち勝って下さい! 貴方にはできます」


 アイリは事も無げに言い放った。『恐怖』に勝てと。俺にはできると断言までした。この子はいつも想像の上を行く。


「グレンは違う世界から来たと言っていたではありませんか。いきなり別の世界に放り出される恐怖に比べれば、グレンの言う『恐怖』は恐怖のうちに入りません」


 なるほど、そういうことか。言われてみれば確かにそうだ。ここはどこだというあの『恐怖』に比べれば、今、俺の言ってる恐怖など、恐怖のうちには入らない。アイリに言われると不思議と気が楽になる。やはりこれがアイリの『癒やしの力』か。


 『癒やしの力』。ゲーム『エレノオーレ!』でアイリが持つ、人の心を癒やす不思議な力。攻略対象者はこの力で心の傷を癒やし、アイリに惹かれていくという流れ。実に安直な設定だと思っていたが、実際に『癒やしの力』をこうして体験してみると、そりゃ惹かれるよな、と思う。


「だから安心して下さい。グレンにはできますから」


 そう言うとアイリはニッコリ微笑んでくれた。ありがとうアイリ、やはり君は女神だ。俺は改めてアイリに感謝した。

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