第4話 翔太の日常 2
「どうしたんだ? 今日は心ここにあらずという感じがするぞ」
その日の放課後。
翔太は『陰陽流』の師匠である埼玉周作に剣の稽古を付けてもらっていた。
といっても、ここは道場ではない。
時代に取り残され廃れた流派ゆえに、門下生も翔太以外には1人しかおらず、道場を所持することなど夢のまた夢。さりとて実戦さながらで剣呑極まりない陰陽流では体育館などは借りれないので、稽古はもっぱら師範である埼玉周作宅の裏庭と相成るのだ。
まあ裏庭といってもテニスコート半面近い広さがあるので、屋外で下が土だという以外は特にデメリットなどないのだが。
いつもなら真冬でも汗だくになるくらいの剣の応酬を見せる埼玉が、なぜか一太刀も振らずに「今日はここまで」と稽古の終了を宣言する。
「どうしてですか?」
急に中止を宣言されて、戸惑う翔太に埼玉が「分からんのか?」とすこし呆れる。
「剣に気持ちが乗っていない。そんな状態で稽古を続けていたら大怪我をしてしまう」
「そんなことは……」
「ないとは言わせないぞ」
言葉使いは丁重で穏やかだが、かかる気迫は剃刀よりも鋭い。
竹刀ではなく剣を扱うのだから、剣道以上に稽古中は集中しないと大怪我をする。
ことあるごとに「危険だから気を散らすな」と口酸っぱく忠告する埼玉の指摘だけに、はぐらかしたり言い逃れはできない。翔太はプレッシャーに負けて「はい」と返事をした。
「では、理由を訊こうか」
いざ問い質されても、思い当たる節は昨夜見た夢だけ。あまりにもバカげているので口にするのも恥ずかしいのだが、師匠の前で取り繕ったところで「格好つけるな」と看破されるだけ。
それこそ「バカ者」と叱責されるのがオチなので、あきらめて正直に打ち明けることにした。
夢での顛末を翔太が語りだすと、埼玉が絶妙なタイミングで「ほうほう」と合の手を入れてくる。冷静に聞けば呆れたを通り越して失笑ものな内容なのだが、埼玉の巧みな誘導に促され、照れたり赤面もすることなくするすると話し続けていた。
それも当然と言えば当然。
埼玉はほんの数年前まで誰でも知っているような有名企業の代表を務めていたのだ。翔太の父とさして変わらぬ齢で悠々自適なのは、ハッピーリタイヤができるほど優秀だった証左。それほど優秀な企業人だったがゆえに、聞き上手なのもまた道理。
結局洗いざらい白状してしまい、夢の中でのおっぱいの顛末までも白日の下に晒してしまった。
「まあ、何だな。堪っていると言ったら聞こえが悪いから、表現を変えて若さゆえの暴走? 良いじゃないか」
当初呆れ顔だったのに、コトの子細を聞き終えると埼玉が「そうか、そうか」と膝を叩いて豪快に笑う。
黙っていれば渋くてダンディーな小父様なのに、腹を抱えて笑っているから色々と台無しである。
「えーと、夢の話ですよ?」
師匠の突然の豹変に翔太が尋ねると、埼玉が「分かっている、分かっている」と意味不明なサムズアップ。
「年の割りに妙に枯れていると思っていたから心配していたんだが、翔太もやっぱり男だったんだな。きっと抑圧した性欲が夢の中で具現化したんだろう」
縁側で茶を啜りながら、恥ずかしさで丸まっている翔太の背中を楽し気にバンバンと叩く。
埼玉があまりにも豪快に笑うので「師匠。ぜったいに面白がっているでしょう?」と翔太が拗ねると、急に表情を引き締めて「そんなことはないぞ」と真顔で答える。
「ちゃんと年長者として聞いているとも」
取って付けたように埼玉が答え「それが証拠に、見ろ。智恵だって心配しているだろう」と、もうひとりの門下生である娘の智恵を引っ張り込むが、翔太にとってはむしろ針の筵。傍から見れば妄想垂れ流しのヨタ話を暴露されたようなものだ。
幸いにも智恵が「お父さん、はしゃぎ過ぎよ」と埼玉の暴走にクギを刺してくれたから良いものの、あのままエスカレートしていたら、塩をかけられたナメクジみたいに消えてしまっていただろう。
「ゴメンね。父がこんなポンコツで」
お茶のお代わりを注ぎながら、智恵が悪ノリする埼玉に代わって謝罪する。彼女もとばっちりを喰らった口なので、謝罪だと頭を下げられると逆に恐縮してしまう。
「とんでもない。智恵さんが頭を下げるような代物じゃないですって」
右手を横に振って、気にするような案件じゃないとアピールする。
「オレの集中力が欠けていたばっかりに、師匠に心配させてしまったのがそもそもの原因だし」
陰陽流の稽古は危険極まりない。
「なるほどね。そんな状態なら、父が稽古を止めたのも道理だわ」
師範の娘だけあって内情は裏の裏まで知り尽くしている。中止の理由は「ああ」とひと言頷いただけで、すべて納得したようだ。
「中止の理由はキミにあるようね。擁護しようがないから以後気をつけなさい」
翔太は生意気だがひねくれてはいない。姉弟子の忠告に素直に「はい」と頷く。
「ん。よろしい」
素直な翔太に満足するように智恵が頷く。
「それはそうと、父は何をはしゃいでいるの? 話を聞く限りだと叱りこそすれ、悪ふざけをするような内容じゃないよね」
稽古中止の理由に得心はしたようだが、埼玉の奇行は理解の範疇外。智恵がここに至った理由を尋ねる。
「あー、それはだな……」
「昨夜見た夢の話をしたらツボに嵌ったみたいなんです! 大したことじゃないから、気にしないでください」
夢の話をしなければ埼玉が暴走することもなかっただろう。そう思って口に出したのだが、智恵の琴線にも触れるものがあったらしい。
さっきまでの楚々とイメージをかなぐり捨て「どういうこと? お姉さんに説明してみなさい」と近所のオバちゃんと化してしまった。
翔太より3つ年上の大学生。凛とした佇まいの綺麗なお姉さんという外見に惑わされて失念していたが、智恵もコイバナが大好きな人種である。加えてまだモラトリアムな思春期に乗っかっており、異性の行動には興味津々。
つまるところ「さあ、吐け。洗いざらい自供しなさい」と蛙の子は蛙。智恵も父親と全く同じ行動に出たのだ。
「なるほどねー。父が翔太クンに欲求不満なんてほざくのも分からなくもないわ」
縁側に腰かけながら優雅にお茶を嗜む。一見すると良家のお嬢さんだし、実際もその通りで見た目は完璧に体現しているが、中身はウワサ話が大好きな井戸端会議のおばさんズと何ら変わらない。
好奇心全開の智恵の追及は厳しく硬軟織り交ぜてながら執拗に訊きまくり、根負けした翔太が自白した結果が先のセリフである。
「お願いですから他言無用にしてください」
両手を合わせて懇願するように翔太は頼み込むが、当の智恵はニマニマしながら「翔太クンもお年頃なんだし、おっぱいに興味が向くのもしょうがないよねー」と弄ぶ気満々。
「だから、欲求不満とかじゃなくて!」
夢でみた一連の顛末は、ゲームかタイムスリップでもしたかのような中世世界に困惑したのがメインで、おっぱいの件はその中のごくごく一部に過ぎない。
だがそんなことはお構いなし。からかうネタにはおっぱいこそ最適と言わんばかりに「解ってる、解ってる。理性で抑えているのよね。エライ、エライ」と聞く耳を持たない。
「夢にまで出てくるんだったら、お姉さんのおっぱいを一回触らせてあげようか?」
ニマニマしながら智恵がこれ見よがしに自分の胸を翔太の鼻先に付きつけてきた。
「なっ!」
突然のことに翔太が驚くと気を良くしたのか、調子にのって「ホレ、ホレ」と胸元を揺らす。
「タチの悪いことは止めてください!」
立ち込めるかぐわしい香りに惑わされそうになりながら翔太が抗議する。
と、
「えー、興味あるんでしょう?」
翔太の反応が面白くないのか、両手で胸を抱いてさらに強調する仕草を見せる。
「興味があるから止めて欲しいんです!」
下手な挑発は辞めてくれと、声を大にして抗議する。
イメージが崩壊したとはいえ、智恵は相当レベルで〝キレイなお姉さん〟である。
肩口で揃えたボブカットは理知的な印象とともに清楚な雰囲気を纏わせ、ミスキャンパスに何度も推挙された美貌の持ち主にからかわれているのだ。これを理性で耐えるのは至難の業である。
翔太が理性と煩悩で葛藤するよりも早く、意外なところから助け舟は現れた。
「こらこら。年頃の娘がはしたないことをするんじゃない」
さすがに娘の痴態を見かねたのか、埼玉が智恵の態度に苦言を呈したのだ。
「そんなことをしたら、翔太が困ってしまうだろう」
埼玉にはっきりと指摘され、苦笑いを浮かべながらバツが悪そうに智恵が引き下がる。
さすがは父親、言うときはピシャリと言うんだ。
「そんな貧相な胸で迫っても翔太は喜びやしないぞ。もっとたわわに実ったボインボインな胸でないと困るだろうに」
胸を強調するジャスチャーを交えながら、真顔で娘の絶壁具合を指摘する。
確かにその通りだが、間違いなく合っているが……
世の中、例え事実であっても指摘してはいけないこともある。
翔太はここで学んだすり足を駆使して、音もなく静かに後ろに下がった。
直後。地獄の底からかくやという「お・と・う・さ・ん!」の響き声。
雉も鳴かずば撃たれまいに……
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