青年の日の思い出
あんび
思い出の窓
私の師事している先生は昆虫学者としてとても優れた方だ。還暦をとうに過ぎたものの未だその研究意欲は衰えるところを知らず、ついこの間も学会誌に新たな論文を発表した。
そんな彼の専門は『チョウ類の生態及び形態』であり、研究所構内の、先生の管理する倉庫には研究の為の貴重な資料達がこれでもかと詰め込まれている。いや、詰め込まれ過ぎている、といった方が正確かもしれない。
私含め六人の研究員が、教授室にまさに今逃げ込もうとした先生を捕まえた。先生は眉間を皺だらけにしながら至極面倒臭そうに溜息をつく。
「今日は気乗りしないからまた明日に……」
「そう言ってやった事無いじゃないですか!」
先生は致命的に片づけが出来ない。そして興味があること以外にはとことん後ろ向きだ。
先生が半分開けた扉の隙間から見える教授室の内部は、床が見えなくなるまで本とゴミで埋め尽くされている。様々な資料を入れている倉庫もそれと同じ、いや、それを遥かに上回る惨状なのである。
そこから暫く私達と先生はけんけん言い合いをしていたが、結局折れたのは先生の方だった。彼は連行される容疑者の如く、私達に四方を囲まれながら倉庫へと向かった。
一面埃の海だ。平積みの本の山があちこちで崩れてしまっている。棚が重さに耐えきれず歪んでいる。一部の標本類に至っては保存状況が悪かったのか黴や虫が発生している。
まず、六人で手分けして手前の物から引っ張り出していく。破損や汚れがあまりにひどい物は、勿体ないが、持ってきたキャスターに乗せてどんどん外のゴミ集積所へ運び込む。それ以外のものに関しては一点一点先生が判断していき、今後の置き場所などを指定していった。先生は、自分の監督外で、他人が自分の場所を片付けようとすると烈火の如く怒るのだ。全く難儀である。
「僕はどこに何があるか分かってるんだがな」
「先生にしか分からないのが問題なんです。先生が今亡くなったら、引き継いだ人間は絶対頭抱えますよ」
「つまりこの掃除は僕の為じゃなく未来の誰かの為、と」
「あと私達の為です」
厚さだけが取り柄の古すぎる辞書を先生に突き出しながら答える。彼はそれを受け取りながらも、拗ねたように廊下に座り込んだ。
「なあ、山ほど標本箱があるぞ」
展翅された昆虫たちが崩れてしまわないよう慎重に、古びた木箱達を廊下に並べていく。先生はそれらを見た後、旧友にでもあったかのように顔を綻ばせ、ああ、と手を打った。
「全部、僕が学生の頃に研究室の皆と一緒に作ったものだ。ここの研究所に来たときに持ち込んだんだ」
「先生が学生って、半世紀前じゃないですか」
「綺麗に保たれてるだろう?」
確かに標本はどれも殆ど崩れず変色もしていない。それを自慢するように先生は鼻を鳴らした。
しかし、確かに昆虫標本は美しいままなのだか、それに添えられた紙のラベルはどれも傷み、そこに書かれた文字もすっかり色褪せていた。
「ラベルに関しては後で皆で書きなおそう。それでいいですよね先生?……先生?」
先生はおもむろに一つの標本箱の蓋を開け一枚のラベルを取り出した。そこにはもうすっかり薄くなったインクで採集日時や採集者などが記されている。
「この苗字は確か……僕が大学院時代にお世話になった教授だ。マメな人で、資料の整理や収納も上手だった。懐かしいな、久々にお名前を見たよ」
その後も先生は暫く、手の中の茶色いラベルをぼんやり眺めていた。目はいつになく細められている。心が、どこか遠くに行ってしまっているようにも見えた。
「やはり、ラベルは書き直さないでおきましょうか?」
「……いや。添え書きが読めないのでは標本として用を為さなくなるからな」
先生は弾かれたようにすっと顔を上げる。その表情はもういつもの通りであった。
「この掃除は僕の為じゃなく未来の誰かの為なんだったな」
先生はぽつりと溢すと、こちらが止める間も無くずかずか資料室に入っていく。呆気にとられる此方を肩越しに見やりながら、どこか言いづらそうに彼は口を開いた。
「僕も、後進にちゃんとした置き土産を残したくなった」
それは何よりだと、私達は顔を見合わせ笑い合った。
青年の日の思い出 あんび @ambystoma
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