第22話 八月八日、始まった約束

 次の日は、朝からどんよりと厚い雲が空を覆っていた。前日までの晴天が嘘のようだ。


 天気予報ではお昼から雨。

風も強く、そして何よりも蒸し暑い。

 雨が降る前の独特なジメジメ感は、慣れない旅をしている碧理達の体力を奪って行く。


「……嫌な雨だな」


 時刻は朝の五時。


 早くに目が覚めた碧理は、まだ寝ていた美咲と翠子を起こさないように部屋を出た。そして海に向かった。

 宿から道を挟んですぐが海だ。


 昨日まで穏やかだった青い海は波だっていて、近づくのを躊躇するほど。まだそこまで危険ではないが、気を付けるにこしたことはない。

しかも建物が何もない場所は遮る物がなく、突風が砂を舞い上げる。


 碧理はまだ迷っていた。

 紺碧の洞窟に願うかどうかを。


 海から離れた安全な砂浜に腰を下ろす。

 白い砂浜は観光名所としても有名だ。土産物店では砂を瓶詰にして「星の砂」と名売って販売していた。


 その砂を碧理は手で掴んだ。粒子は細かく、指の隙間からすぐに流れ落ちてしまう。

 砂を何気なく見ていると小さな貝殻を見つけた。

 白い巻き貝や割れた貝殻は、迷っている碧理の心を穏やかにする。


「可愛い。写真撮ろう」


 思い出にと、右手に砂と小さな貝殻をのせて、左手にスマホを持つ。慣れない片手での撮影に四苦八苦していると、後ろからシャッター音が聞こえた。


 驚いて後ろを振り向くと、いつの間にいたのか、蒼太がスマホを手に立っている。

 どうやら奮闘していた碧理を撮ったようだ。


「森里君。勝手に撮らないで……。知らない人だったら警察に通報する所だよ」


「ごめん。一人で何やっているのか気になって。あ、そのままでいて。もう少し近くで撮るから。貝殻を映え風に撮れば良いんだよね?」


 碧理のやりたいことがわかったらしく、蒼太が隣に来るとスマホを構える。

 すると何やら気にいらないようで、ちょこちょこ碧理に注文をつけていく。「貝殻をもう少し右」「明るさが足りないから手を前に出して」など。


「……慣れているね。森里君」

「よく弟達を撮っているからね。画像は花木さんに送っておくよ」

「ありがとう。可愛く撮れてる」


 蒼太のスマホを覗き込むと、碧理が嬉しそうに笑った。

 どうやら満足がいく出来だったようだ。

 考えすぎて塞ぎ込んでいた気持ちが少しだけ晴れやかになる。


「……願い事するか決まった?」

「……まだ迷ってる。それよりも、森里君、どうして私がここにいることがわかったの?」


 そのことを聞かれたくなくて、碧理は話題を変えた。


「起きて窓の外を見たら、花木さんが見えたから追い駆けて来た。慎吾はまだ寝てるよ。僕は枕が変わると眠れないんだ」


 一人で海にいる碧理を見て、蒼太は心配した。悩んでいる碧理の気持ちを察して。


「美咲と翠子さんもぐっすり寝てた。昨日もいっぱい歩いたからかな。……森里君は一人になりたいって思ったことない? 誰にも会いたくない時とかなかった?」


 碧理は聞いてみたかった。

 友達もいっぱいいて家族関係は良好。いつも笑顔で幸せそうな蒼太に。


「あるよ。誰でもあるんじゃない? 俺は弟達が煩くて、良く一人になりたいって両親に言ったことある。お互い喧嘩もするし……でも、それが家族じゃない? 言いたいことが言い合えるって大切だよ」


 蒼太の大人な考えに、碧理は目を丸くする。

 今まで拓真と喧嘩をするなんて思いつきもしなかった。

 顔を合わせないようにしていた碧理には新鮮な答えだ。


「僕が言うことじゃないけど、もう少しお父さんと話してみたら? そしたら少しずつ変わるかもよ?」

「……そうかな」


 碧理は昨日の電話を思い出す。


 心配してくれた拓真は、碧理と共に外食へ行こうと提案してきた。

 そのことは長年顔も合わせない状態だったことを思えば奇跡に近かった。

 今までの会話不足を一気に埋めることは不可能かもしれないが、碧理もまた、歩み寄る努力をする時が来たのかも知れない。


「僕の家、家庭円満に見えるかも知れないけど、五年前は酷かったんだよ。両親が毎日のように喧嘩してさ」


 考え込む碧理に、蒼太が話し出す。

 海を眺めながら二人が並んで座っていると、厚い雲の隙間から、少しだけ太陽が顔を見せた。二人を見守るように。


「森里君の家って共働きだったよね?」

「うん。今でこそ落ちついているけど、五年前から母さんが働き出して、最初は大変だった」


 五年前というと蒼太は十三歳。

 一番下の弟が六歳の時、小学校に入学すると蒼太の母は仕事に復帰した。

 毎日、家事や育児に追われ、そこにフルタイムでの仕事。最初は何とかこなしていた蒼太の母にも限界が訪れて爆発する。


「よく聞かない? 夫が何もしなくて、妻が一人で全部背負い込んで切れる話。それ、僕の母親。あんなにブチ切れて大泣きした母さんを見るのが初めてで、子供心にショックだった」


 苦笑している蒼太だが、一時は離婚危機まで母親は追い込まれた。

 それを何とか回避するように頑張ったのが蒼太だ。


「毎日帰ったら弟達と協力して掃除や洗濯ものを片づけたりして頑張った。それに料理も」


 確かに廃校でカレーを作った時、蒼太は手際が良かった。

 あれは、そういうことがあって培われた技術なのだと碧理は納得する。


「今は父さんも料理をするまでに成長したんだ。……本人がやる気を出せば変われるよ、花木さん」

「そうだね……。そうかも知れないね」


 逃げてばかりいたのは拓真だけではない。碧理も同じだ。その事実が突き刺さる。


「そうだよ。それに、僕の癒しは部活と図書室に行く時。そこで花木さんと話すようになって……嬉しかった」

「……えっ?」


 碧理は緊張した。

 まさかここで自分が出てくるとは思わなかったから。


「僕が図書室に行く時って、家に帰りたくない時が多いんだ。だって、家に帰っても弟の世話に家事。さすがに嫌になるよ。花木さん、最初はぎこちなかったのに、話すようになったら気になって仕方なかった」


 碧理の頬が赤くなる。

 話す内に気になったのは蒼太だけではない。碧理も同じだ。

 同じ気持ちだったことが嬉しくて、碧理は恥ずかしくなり目の前の海をジッと見つめた。

 そして、勇気を出して言葉を紡ぐ。

 逃げないで伝えようと。


「私もだよ。……私も森里君と話すようになって、図書室に行くのか楽しみになったの」


 碧理がそういうと、蒼太も照れたように手で口元を覆う。

 どんよりとした荒れている海とは違い、二人を包む空気は初々しいほど新鮮で生温かい。


 見ている人がいたら、チョコレートより甘くて溶けてしまいそうだと言うほどに。


 しばらく二人とも黙り込んだ後、蒼太が緊張しながら口を開く。



「花木さん。俺と付き合わない? けっこう……ううん。凄く好きなんだ」




「――えっ」


「だめ……かな?」


 いきなりの蒼太の告白に、碧理は驚きすぎて言葉を紡げない。

 その沈黙の時間が蒼太を不安にさせた。


 肩を落として項垂れる蒼太に、碧理は勘違いしていることに気づく。


「ち、違うから! だ、だめじゃない! 私も……森里君のこと、気づいたら好きになっていたから」


 顔を真っ赤にさせた碧理は、恥ずかし気に海へと視線を戻した。

 まさかの展開に頭がついていけないからだ。

 海は大荒れだが、二人の空気は甘いまま。

 しかも、お互いに照れてしまってどうしようもない。


「花木さん。……僕も出来る限り協力するから願い事は止めてくれないかな? だって、この記憶が無くなったら……悲しい。それに、また……僕の片思いになってしまうから」


 神妙な面持ちで、蒼太が碧理の手をとる。その手は震えていた。


『願いが叶うと、記憶を一つ失う』


 管理人である榊は、どの記憶を失うかまでは言っていなかった。

 皆で過ごした、この三日間の記憶ではないのかも知れない。でも、この記憶なのかも知れない。


 碧理は、この三日間の記憶を失ってまで自由になりたいとは思わない。なぜなら、かけがえのない仲間が出来たから。

 碧理は、蒼太の願いに頷いた。


「――わかった。願いは止める。皆で帰ろう」


 あんなに悩んでいたのに、ずっと我慢していた思いは、蒼太に癒され仲間に救われた。


「良かった」


 晴れやかに蒼太が笑った。

 屈託のないその笑みは、碧理に向けられた後、その後方へと注がれた。


「……なんで」


 途端に蒼太が顔を手で覆った。


 不審に思った碧理が後ろを見ると、なぜか美咲、翠子、慎吾がいる。

 三人共、にまにまと生温かい視線を碧理と蒼太に向けながら。

 いつの間にか三人が来ていて、一部始終を見ていたようだ。


「良かったね! 上手くいって。起きて碧理がいないから焦ったよ。……洞窟へ行ったんじゃないかって。慌てて翠子と赤谷を起こして窓の外を見たら、森里といるから急いで来たんだ」


 美咲が二人の元へと走って来ると、思いっきり碧理へと抱き付いた。

 嬉しそうな笑みを浮かべる美咲は、自分のことのように喜んでいる。


「おめでとうございます。二人は付き合うと思っていました」

「まあ、最初からお互いの気持ちは駄々漏れだったけどな」


 翠子と赤谷も嬉しそうだ。

 そんな三人とは反対に、碧理と蒼太は居心地が悪そうにしている。いきなりの祝福に頭がついていかないらしい。


「これで皆、帰れるね。残りの夏休みも楽しみ。皆で勉強しよう」


 美咲がこれからの予定をたて始める。


「それは帰ってからだな。一番早い電車で帰ろう。朝から親の電話で俺はもう面倒だ」


 慎吾の手にあるスマホを見ると、着信履歴が凄まじいことになっていた。

 このままでは警察沙汰だ。


「皆、荷物を纏めよう」


 蒼太がそう言うと、各自が頷いた。

 告白され両想いになった余韻も一気に消え去る。

 そんな時、碧理は気づいた。翠子の膝に血が滲んでいることに。


「翠子さん。足どうしたの? 血が少し出てるよ」


 爽やかな青のチュニックに白の膝丈のスカート。ファストファッションに身を包んだ翠子は、自分の膝を見て苦笑した。


「さっき、そこで転んだんです。でも、少し血が出ただけなので大丈夫ですよ」


「……痛そう」


 碧理は自分の服のポケットを探る。

 そこには、一枚のハンカチがあった。

 廃校でサラダを作っていた時、包丁で怪我をした。その時、蒼太が貸してくれたハンカチだ。角に猫の刺繍が入っている。


「あ、森里君。このハンカチ貸してあげて大丈夫?」

「大丈夫だよ。痛そうだね、翠子さん」


 昨日、寝る前に管理人の榊から、乾燥機つきの洗濯機を借りていた。

綺麗に洗ったハンカチは、朝、起きると碧理の枕元に置いてあった。榊がアイロンをかけてくれたらしい。


 それを翠子へと渡す。


 だがその時、なぜか突風が吹きつけ、碧理の手から離れるとハンカチが舞い上がる。それは意志を持っているように、ふわふわと弧を描き海へと飛んで行った。


 荒波が押し寄せる波打ち際へと。


「――あ」


 失くしては大変だと碧理はすぐに走り出す。

 蒼太のハンカチを捕まえようと、荒れ狂う荒波の方へと。

 上ばかり見ている碧理は気が付かない。


 足首まで海水に浸かっていることも、その行為がどれほど危険だと言うことかも。


「花木さん! 危ないから戻って――碧理!」


 美咲と翠子の悲鳴に混じって、蒼太の切羽詰まった声が碧理の耳に届いた。


 だが、その瞬間、黒い高波が碧理をのみ込んだ。

そのまま海の中へと引きずり込む。

 さっきまでは、陽の光がわずかにあった。だが、今は雨がぽつりぽつりと降ってきて、辺りはまるで夜のようだ。


「花木! 二人は誰か呼んで来い。蒼太戻れ!」


 慎吾が翠子と美咲に声をかけた。


 碧理を助けに海の中に入ろうとしている蒼太を、慎吾が必死で止める。

 そんなことは何もわからずに、碧理は冷たい海水に飲み込まれたまま意識を失った。

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