第20話 八月八日、美咲と家庭教師

「あーあ。パンケーキ微妙だったなぁ」


 そう言って電車に揺られながら肩を落とす美咲は、スマホを見ては落ち込んでいる。


 スマホの画面には焦げて無残な姿になったパンケーキらしき物体。

 はりきって六時に起きた美咲は、寝ていた碧理と蒼太を強制的に叩き起こし、パンケーキ作りに挑戦した。

 出来上がったパンケーキは、見た目は真っ黒に焦げてしまい、味も残念な結果となった。


 狙っていたSNS映えが取れないことが心の底から残念だったらしく、廃校の宿を出ても、美咲の表情は暗い。

 そんな美咲とは違い、慎吾と翠子がすっきりとした顔つきで現れたのは朝方。


 どうやら徹夜で二人は話し合ったらしく、寝ていないはずなのに清々しい表情をしている。

 上手く話が纏まったようで、二人を見て碧理は胸を撫で下ろした。


「……微妙も何も、あれはもう食べ物と言えないだろう」


 慎吾も焦げたパンケーキを無理矢理食べさせられ機嫌が悪い。それを翠子が苦笑しながら宥めている。


「元調理室だから、あそこの火力が強いのよ。機会があったらまた挑戦するから」


「火力の問題かよ……。誰が食うんだよ、また作ったその失敗作。あれはパンケーキと言うよりは炭の塊だ」


 慎吾がまた余計なことを言う。


「失礼ね。食べさせたい相手は決まっているもん」


 不貞腐れたようにそっぽを向く美咲は、子供のような表情で答えた。


「まあ、まあ。白川も落ちついて。慎吾もそれ以上絡まないでよ。それで、何処へ向かうの? 勿論、今日中に着くよね? 出来れば夜中までに帰りたいんだけど?」


 いがみ合う慎吾と美咲の間に蒼太が入り仲裁を始める。

 これ以上続くと、また面倒なことになると動いたらしい。


「えっ、えっと、ここだよ」


 説明するために美咲が地図を広げて場所を指差した。

 本当は夜に話し合う予定だったが、慎吾と翠子のことがあったせいで詳しいことは美咲しかまだ知らない。


 時刻は朝の九時。


 学生は夏休みのせいか、電車内は比較的空いている。

 女子三人が椅子に座り、男子二人が目の前に立つと、全員で美咲の手元を覗き込んだ。


「……うーん。青春十八切符だから着くのは夜だね。今日も泊まり確定か。皆、どうする? 無断外泊だと警察に連絡されるかも知れないよ」


 蒼太が頭を掻き困ったように、皆を見る。


「私と白川さんは問題ないよ。三日間のアリバイ工作はしてあるから」


 碧理と美咲が頷き合う。


 美咲は朝起きるとすぐに、アリバイ工作の確認のため兄へと連絡した。

 そして聞かされたのは、問題は何もないと言うこと。

 碧理の家から電話もなく、美咲の両親も不審がる様子はないらしい。それを美咲から聞かされた碧理は、家から連絡がないのはわかっていたはずなのに胸が痛んだ。


 心のどこかで期待していたのかも知れない。

 初めての外泊に心配して、義母か拓真が、美咲の家へ連絡をしているかも知れないと。

 だが、それは無残にも砕け散った。


「私と碧理は問題なし。翠子は?」


「私も友達に確認しましたが、今日までは誤魔化せると言われました。ただ、さすがに明日には帰らないといけないと思います」


 翠子の言う通り、明日中には帰らないと誰かの親が気づくだろう。警察に連絡されたら、それこそ大問題だ。


「女子三人は何とかなりそうだけど、問題は僕達かもね。慎吾」


 蒼太が困ったように頭を掻く。


「そうだな。特に俺の親な。でも、ここまで来たら引き返せないだろう。バレたらその時考えようぜ。何とかなるさ」


 慎吾が諦めたように、適当に答える。

 ここまで来たら考えるのを止めて開き直ることにしたらしい。


「よく考えたら俺は問題児扱いなんだし、夏休みくらい外泊しても良いじゃん。何か言われたら両親の家庭内別居が悪いって騒ぐさ。蒼太はどうなんだ?」


「僕もこうなったら皆と一緒に説教される覚悟だよ。全部、慎吾のせいにするから」


「ああ、構わないぜ。高校最後の夏……たまには良いさ」


 男子二人は常識よりも青春を取ったらしい。


「そうだね。私も問題が起きたらその時考えることにする」


 美咲も男子二人に同調する。


「ところで、この場所って有名な花火大会なかった? 昔、ニュースで見た記憶があるんだけど。時期的に今じゃない?」


 蒼太が思い出したようにスマホを取り出した。そして検索を始めた。


「ああ、やっぱり。日本でも有名な花火大会の場所だよ。しかも……今日がその日だ。奇跡だね」


 スマホを皆に見せると、途端に美咲と翠子が目を輝かせる。


「花火大会! 家族以外で見るのは初めてです」


「私は……三年前、近くの花火大会行ったな。引きこもる前に」


 はしゃぐ翠子とは違い、美咲が遠い目をして、ぼそりと呟いた。


 美咲が思い出している花火大会は、地域で一番有名で大規模な物。落ち込んだ様子の美咲を見るに、好きな人と一緒に行ったのかも知れないと碧理は予想する。

 話に出てきた家庭教師と。


「美咲は、洞窟で何を願うの?」


 碧理は聞いてみたくなった。

 両親の関係改善か、それとも自分の恋愛の決着か。一人で洞窟を目指そうとした「願い」が何なのか。


「結婚したいって願うんだ」

「えっ? 結婚?」


 思っていたよりも現実的ではない内容に、碧理は思わず声を上げた。

 それは碧理だけではなく、他の三人も同じ気持ちだったようで、お互いに目配せしている。


「なによ、皆。私は本気なんだから。願いは普通に結婚して、子供産んで、家を建てておばあちゃんになることなの。世間一般的な幸せで良いの」


 皆が戸惑っている雰囲気を察したのか、美咲が力説した。

 普通がどれほど難しくて、幸せで羨ましいことかを。親がダブル不倫中で、家の中がギスギスしている美咲には眩しく感じたのだろう。

 明るく美咲は振る舞うが、たまにため息を吐いている。本人も気づかない内に。


「……あのさ、白川。お前の好きな人って、前に聞いた社会人で優柔不断男だろ? あんまり言いたくないけど止めとけよ。お前を迎えに来た時、一回だけ見たけど……微妙だったぞ」


 慎吾はどうやら美咲の好きな人を知っているようだ。

 しかも、相手が気にいらないらしい。


「ちょっと赤谷。約束はどうしたのよ?」

「翠子にバレた時点で約束は破棄だ」

「なんで! あんなに私は頑張ったのに酷い!」


 憤慨する美咲を遮って、慎吾が碧理達に説明を始める。

 慎吾が言うには、出席日数が足りない者同士の補習で美咲と知り合った。

 席が隣同士で気が合い、何回か会う内に身の上話をする仲になったと言う。主に、お互いの恋愛相談を。


 そこで二人の間に契約が発生した。

 慎吾は、翠子と別れるために美咲に彼女の振りを。美咲は……何があっても自分の味方になって、彼氏の前で自分と親し気に振る舞って欲しいと。


「……慎吾はわかるけど、白川は何でそんな交換条件を?」


 蒼太が不思議そうに首を傾げた。

 結婚したいと願うなら、彼氏の前で他の男といるのは不自然だ。反対に愛想を尽かされる恐れもある。


「それはね。……彼が少しでも嫉妬してくれたら良いなあって思ったの。でも彼の反応は微妙だった」


 口を尖らせた美咲の姿から、上手くいかなかったことがわかった。

 それでなくとも、高校生と社会人では関わっている世界が違う。その年齢差が次第に重荷になり、わずらわしくなることもある。


「一回だけ、俺と一緒にいた所を見せたんだ。そしたらその男、あからさまに安心した顔を見せて帰ったんだよ。それ以来会ってないんだろ? 止めとけ、そんな男」


 慎吾がまるで美咲の保護者のように、口煩く心配を始めた。

 よほど、その家庭教師が微妙だったようだ。


「だって、好きなんだもん。赤谷も翠子さんを諦めないように、私も諦めたくないの! あ、次の駅で降りるよ。乗り換えだから」


 五人で話し込んでいると、アナウンスが流れる。

 美咲が告げると、四人が戸惑ったまま頷いた。


「この話しは終わりね。行く……よ。えっ?」


 立ち上がった美咲は、四人ではなく別の方向を見ている。

 そして、その顔つきが強張っていく。まるで幽霊をみたかのような驚きように、四人も美咲の視線の先を追った。



 そこには美咲と同じように、驚き固まっている一人の若い男性の姿。

 スーツを着ている所を見ると仕事のようだ。


「なんで、こんな所に……」


 小さく呟いた美咲の声は震えていて、今にも泣き出しそうな表情をしている。


「まじかよ……。なんだよ、この偶然」


 そして、美咲の後ろでは慎吾が茫然と呟いていた。


「……美咲」


 男性は困ったような顔をしながら近づいて来ると、苗字ではなく美咲の名前を親し気に呼んだ。


「名前で呼ばないでよ……」



 悲痛な叫び声は悲鳴のように聞こえて、碧理達は黙り込む。

 美咲の様子と慎吾の呟きで、碧理と蒼太、そして翠子は察した。

 彼が美咲の好きな相手なのだと。


 だが、さっきまで結婚したいと言っていた割に、美咲の態度は不自然だ。どうみても男性を避けて逃げようとしている。


「美咲。説明させてくれないか? あの時、本当は、俺は……」

「聞きたくない!」


 そう美咲が叫ぶと、タイミングよく電車が駅に到着しドアが開く。

 それを見た美咲が一目散に駆け出した。


「美咲!」


 声を荒げた男性を横目に、碧理達も電車から急いで降りようとする。だが、その時、碧理の手が掴まれる。

 驚いて顔を上げると、美咲を知っているスーツ姿の男性が、手に何かを握らせた。


「いきなりごめんね。美咲にこれを渡して。無理だったら君が電話してくれたら助かる。誤解があるんだ……頼む」


「花木さん!」


 中々、電車から降りて来ない碧理を心配して、蒼太が碧理のもう片方の手を掴む。そして発車ベルが鳴り響く中、電車から急いで降りる。


 すると、すぐに電車のドアが閉まり動き出した。

 ドア越しに碧理と蒼太を見つめる男性は、大人なのに、今にも泣きそうな顔をしている。


「行こう、花木さん」

「う、うん」


 蒼太に手を引っ張られ歩き出す。

 男性に握らされた手の中には一枚の名刺。それは無理矢理渡されたせいで、くしゃくしゃになっていた。

 歩きながら確認すると、そこには会社名と電話番号。そして名前が書いてある。


「黒川健人……製薬会社なんだ」


「あの人の名刺? 花木さん、裏にも何か書いてあるよ」


 誰でも聞いたことのある企業名に驚いて足を止めると、蒼太も名刺に気づき覗き込んでくる。

 言われた通り名刺の裏を見ると、そこには電話番号が手書きで書かれていた。


「個人のプライベートの番号じゃない? あの瞬間に書く暇はないと思うから用意してあったんだね。それにしても白川の態度も不可解だ。結婚したいようには見えないな」


 蒼太も碧理と同じ感想を持ったらしい。

 どうやら美咲には言えない秘密があって、それが「紺碧の洞窟」を目指す理由なのだと碧理は予想した。


「白川に渡すの? その名刺」

「……うーん。ちょっと考える。美咲の様子も気になるから保留で。森里君もこの件は秘密ね」

「……そうだね。あ、慎吾があそこにいる。行こう」


 碧理の言葉に少しだけ考えるそぶりを見せたが、改札の側にいる慎吾の姿を見て頷いた。


 そして、あることに碧理は気が付く。

 蒼太と電車を降りた時からずっと手を繋いでいることに。

 顔を赤くしながら指摘しようとした碧理だが、蒼太は気にしていない様子で、待っている慎吾の元へと向かって行く。


「……お前ら付き合うことにしたのか? 仲良いな」


 碧理と蒼太の手を見ながら、慎吾がからかうように笑った。


「ち、違うから。私がモタモタしていたから森里君が気を使ってくれただけ」

「ふーん。なら、迷子予防にお前ら手を繋いでいろよ。行くぞ。夕方には着きたいから急ぐぞ」


 嬉しいやら恥ずかしいやらで、言葉にならない碧理とは違い、蒼太は涼しい顔をしていて動揺は見えない。

 しかも、手を離さない所を見ると、しばらくこのままらしく、またしても碧理の心は動揺した。


 いつもならここで何かを言ってくれそうな、美咲や翠子の姿が見えないことに気づく。


「美咲と翠子さんは?」

「二人なら、皆の飲み物やお菓子買いに行った。次に乗る電車は二時間かかるからな……。ホームで待ち合わせだから行くぞ」


 そう言うと、慎吾がまたホームへと歩き出す。

 その間も、蒼太は碧理の手を離さない。

その状況を意識する度に、碧理の心は跳ね上がる。


「あの、森里君。そろそろ手を離してくれないかな? その……恥ずかしいから。それに、迷子にはならないと思うの」


 手を離さないのは、慎吾が言ったように迷子になるのが心配なのだと碧理は思った。

 そうでなければ、本来、関わることのない平凡な碧理を、スクールカースト上位の蒼太が構うことはないと考えたからだ。


「あ、ごめんね。さっきみたいなことにならないように気を付けてね」


 すんなりと蒼太が手を離す。

 解かれた手からは温もりが消えて、自分から言い出したのに、碧理は残念さと少し寂しさを覚えた。


「三人共、こっちだよ。電車が凄く混んでいるから席は別れよう。行き先はここね。私は一人で大丈夫だから目的地で会おう。あ、これお菓子と飲み物ね」


 ホームに出ると、美咲と翠子が三人を待っていた。手にはコンビニの袋を持って。


 電車は始発らしく、もう到着していて人が乗り込んでいる。

 確かに、さっき乗った電車よりも人は多い。

 しかも、美咲はさっきの男性のことを聞かれたくないらしく、一人になろうとする。全員の了承を得ずに背を向けて歩き出した。

 そんな美咲を一人にすることは出来なくて、碧理は美咲を追い駆けて腕を掴む。


「私も一緒に行くから。あとでね!」


 驚いた表情の美咲を無視して、碧理が後ろにいる三人に声をかけた。そして、人が少なそうな車両に乗り込む。

 残念ながら座れず、しばらくは立ったままになりそうだ。


「……何も話さないからね」


 他の乗客に聞かれないように、美咲が碧理の耳元で囁く。

そして碧理に背を向けると、すぐにスマホを取り出して操作し始めた。

 二人の間に沈黙が流れる。



 ドアの近くに陣とった碧理は、走り出した電車から外の風景を無言で見つめた。





「ここが洞窟のある街か。普通の観光地だな」


 慎吾の発した言葉は、ここにいる全員の感想だった。


 駅を出ると潮の香りがした。

 肉眼で確認出来るほど海が近い。歩いて五分もかからないだろう。

 陽が落ちるのが遅い今の季節は、夕方になってもまだ明るく、沈みゆく夕日にあてられ、水面がキラキラと光っていた。


 そして、今日は有名な花火大会のせいか人が多い。家族ずれも多く、若い女の子達は浴衣を着ていて楽しそうだ。

 案内板を見ると、海辺で花火を打ち上げるようで、開始時刻は、今から一時間後の二十時になっている。


 はしゃぐ花火目当ての人々とは違い、ずっと電車に乗っていた慎吾は疲れたらしく、駅から出ると身体を大きく動かす。


 慎吾と翠子は、徹夜だったこともあり、電車の中では二人共ほぼ寝ていたらしい。蒼太が起こさなかったら、乗り継ぎも危なかった。

 疲れているのは慎吾だけではなく、残りの四人も同じで、つられるように腕を曲げたり身体を捻っている。


「それで白川、今日はどこに泊まるんだ?」


 時刻は十九時。


 美咲と無言の時間を朝から過ごした碧理は、神経をすり減らしていた。洞窟へ着く前に、もう疲労困憊だ。

 早く宿で休みたいと思ったのは、五人全員が同じ気持ちだろう。


 翠子は電車に長時間乗るのが初めてだったらしく、近くにあるベンチに座り込むと、慎吾も隣に腰を下ろした。

 蒼太もいつものような元気がなく疲れ切っている。


「えっとね。……あのね、皆。怒らないで聞いてくれるかな?」


 思ったことを口に出すサバサバしている美咲が言いよどむ。しかも、不自然なほど四人と目を合わせない。

 それだけで碧理は嫌な予感がした。


「なんだよ、早く言えよ」


 慎吾が早くしろと美咲をせかす。

 すると、美咲が思いっきり頭を下げて謝罪した。


「ごめん! 二日目の宿のことなんだけど、満喫にでも泊まろうと思っていたから取ってないの! だって、本来なら、私、一人だけの旅だったから……さ」


「まじかよ……。どうするんだ、今日」


 唖然とする慎吾の隣で、翠子は目を潤ませる。


「本当にごめん! 電車の中で探してみたんだけど、今日は花火大会でどこも予約で一杯なの。最悪、野宿かも」


 項垂れる美咲に誰も口を開かない。

 だが、落ち込む美咲を責めることが出来なかった。

 なぜから、美咲一人に全部任せすぎていることに今更ながらに気づいたからだ。切符の手配からどの電車やバスに乗るのか。どの道を行くのか。

頼りすぎていた。


「仕方無いよ。一応、満喫探して、ダメだったらどこかで野宿しよう」


 重い空気を振り払うように碧理が提案する。


「でもさ、この人数で外にいたら補導される確率高いよ。そうなったら困るでしょ?」


 蒼太が苦笑しながら碧理を見た。

 確かに、親に嘘を付いての未成年だけの旅。

 警察に見つかると問答無用で家に連絡が行くだろう。そうなると学校にも知られる確率が高い。


 それは、なるべく避けたかった。

 途端に全員が黙り込んだ。

 五人いても、これからどうすれば良いのか全く良い知恵が浮かばない。


「とりあえず皆さん。花火見に行きませんか? それに、お腹が空きました」


 か弱い声は翠子で、赤い顔をしながらお腹を抑えた。

 確かに今日は、焦げたパンケーキとコンビニ食しか口にしていない。

辺りを見渡すと、屋台も出ているらしく食べ物の匂いが食欲を刺激する。


「……行くか。泊まる所はまた考えることにして腹ごしらえしようぜ」


 人混みのせいで翠子がはぐれると思ったのか、過保護な慎吾が手を繋ぐ。その何気ない仕草が嬉しかったのか、二人は歩き出した。


「あーあ。甘いな、あの二人。羨ましい。私も去年はあんな感じだったんだけどな」


 羨ましそうな美咲の声に、碧理は名刺を取り出した。

 電車で貰った、あの男性から渡された物を。

 それを見ると、空気をよんだ蒼太は歩き出す。先に行った二人を追い駆けるように。


「……美咲、これ預かった」


「こんなの渡して来たんだ。あーあ。わからなくなってきたな。ちょっと……聞いて貰っても良いかな? 少し落ちついたし碧理になら話せる」


「うん。私で良かったら聞くよ。欲しい答えはあげられないかも知れないけど」


「……ありがとう」


 美咲が名刺を受け取ると二人は歩き出した。


大勢の人で賑わう屋台の方角ではなく海の方へと。花火が上がる場所は、すでに人で溢れていたため、二人は喧騒から離れた海に近い岩場へと歩いて行く。

 そして、まばらに人がいるのを確認すると、会話が聞こえない程度に距離をあけて腰を下ろした。


「……ごめんね。今日、一日中、私の不機嫌さに付き合わせて。あとから赤谷達にも謝ってくる。あの電車の人ね……私が高校受験する時の家庭教師だったんだ。兄貴の友達なの」


 美咲が過去を思い出すように、陽が沈んでいく海を眺めた。

地平線に隠れそうな夕日は、血のように赤く、暗い海へと消えていく。


「黒川健人さんだっけ。美咲の好きな人」

「ああ、名刺に名前あったね。そう、七歳上なの。その時、健人君は大学四年生だった。就職も決まって時間があるからって引き受けてくれた。十五歳の私からしたら、凄く大人でさ……すぐに好きになった」


 黒川健人は今、二十五歳になるのかと、碧理は頭の中で計算した。

 さっきの電車では童顔だったせいか、学生でも通用する容姿だった。

 美咲と話し合いたいのに強く出れない様子は、頼りなく見えて、それも幼く見えた原因かも知れない。


「確かに大人だよ。七歳差だもん。学生の過ごす時間と、社会人の過ごす時間は早さが違うって母さんが言ってた」


「碧理を……産んでくれたママの方?」


「うん。聞いた時は意味が分からなかったけど、今なら少しだけど理解出来る……かな。離婚する時、母さんが言ったんだ。『学生の時は、離れていてもあんなにも時間を作ったのに、一緒に住んだら、一緒にいる時間が減った』って。うちの両親、大学の時から付き合っていたから。離婚は親も大変だけど子供も大変」


 子供の頃には理解出来なかった大人の事情が見えてくると、嫌でも過去の記憶が蘇る。冷え切った両親の関係は、同世代の子供よりも早く碧理を大人にした。

 空気をよみ、火の粉がかからない場所へ逃げる。その最善の道を探し出すために。


 それは学校でも同じだった。平凡で目立たず当たり障りのない毎日。

 そうやって自分の感情を抑えて、生きる術が身に付くのに時間はかからない。感情を抑えることに慣れた子供になった。


「我が家も似たようなもんよ。親がダブル不倫だもん。しかも、ママの相手誰だと思う?」


 クイズのような美咲の質問に、碧理は嫌な予感が心に渦巻く。

 どう考えても、この話の流れは……美咲の好きな人へと繋がるのだろう。


「……まさかの黒川さん」


「当たりです!」


 笑っているが、美咲の瞳は潤んでいた。


「うちのママは今時珍しい専業主婦なの。あれは高校二年の時かな。学校が終わって帰ったら、リビングで健人君とママが抱き合ってた。目の前が暗くなったよ」


「ヘビーだ」


 碧理は何て言って慰めれば良いのかわからない。何を言っても気休めにしかならないと悟ったから。


 美咲が言うには、高校に入ってからも勉強を教えてくれていたという。

その日は短縮事業で、いつもよりも少しだけ帰りが早くなった。

 健人が夜に来ることを知っていた美咲は、学校が終わると家路へと急ぐ。部屋を少しでも綺麗に片づけて着替えるために。


 いつもは「ただいま」と大声で帰宅を告げるが、この日は違った。

 なぜなら、玄関を開けると健人の靴が目に飛び込んで来たから。健人がいつも訪れる時間より三時間も早く来ている。

 なのに、玄関から続く廊下の向こう側、リビングからは音が何も聞こえない。


 不思議に思い、美咲は音を立てないように廊下を歩くと、リビングのドアの前へ立った。


 リビングのドアは所々、ガラスがはめ込まれていて中の様子が伺える作りになっている。そこから美咲は覗き込む。

 すると、大好きな健人が、美咲の母を抱き締めている場面に遭遇した。しかも母親は泣いているようで縋りついているように見える。


 健人も嫌がっているそぶりは見えない。

 美咲はその様子を見て、ガラガラと何かが崩れ去るような感覚に陥った。しかも、逃げるように一歩後ろに下がると棚に置いてあった花瓶が倒れて大きな音を立てた。


 その音に驚いたのは美咲だけではなく、中の二人も同じだったようで、母親は目に見えて動揺した。

 健人もまた、茫然と美咲を見ている。


「それでどうしたの?」


 小説のような展開に碧理は美咲を見た。


「すぐに家を飛び出して兄貴に電話したんだ。健人君とママが浮気してるって。そしたら、兄貴、黙り込んで。……知っていたんだろうね。それからよ。私が学校に行かなくなったのは。見張ることにしたんだ、二人を」


 あんな場面を見ても、美咲は健人のことが大好きだった。

 だから学校を行くのを止めた。二人を会わせないために。


「それ以来、黒川さんと話してないの?」


「うん。健人君の電話も全部無視しているし、ママとも三年間まともに話してないの。兄貴と弟がいるから二人が間に入ってくれているんだ。兄貴も弟も賢いから、雰囲気察して何も言わない。パパも愛人がいるから家に帰って来ないの……。こんなの家族って言えないかもね」


 寂しそうな美咲は海を真っ直ぐに見つめる。

 そんな美咲を見ていると、碧理も何も言えなくなった。

 そのまま二人で、無言で暗い海を見ていると、美咲がポケットからスマホを取り出す。どうやら電話がかかってきたようだ。



「……嫌な予感がする。家からだ」


 碧理を見つめる美咲の顔が緊張で強張った。そして、恐る恐る電話に出る。



「もしもし。……うん。えっ?」


 美咲が電話を始めてすぐに、困ったように碧理を見た。そして、すぐにまた電話の主と会話を始める。

 そんな美咲の様子を見て、碧理もまた不安になった。自分達に取って、あまり良くない知らせなのだと。


「あのさ。今の電話、兄貴からだったんだけど……。碧理の家から電話があったって。一回、家に連絡した方が良いかも」


 電話を終えた美咲が、碧理に詳細を伝える。


 美咲の家に電話があったのは、十七時を過ぎた頃。

 電話をかけてきたのは碧理の父である拓真で、その電話を取ったのは、ちょうど家に在宅していた美咲の兄だった。


 聞かれたのは碧理の様子と、さすがに三日も泊まるのは迷惑だと思うから明日には帰るようにとのこと。


 それと「今は家にいない。遊びに行っている」と機転を聞かせてくれた美咲の兄が受け取った伝言は「外出先から帰って来たら、すぐに電話をするように」と厳しい物だった。



「なんか兄貴が言うには、碧理のお父さん、何度か碧理のスマホに電話しているらしいよ? いつ連絡あったの?」


 そう美咲に問い詰められ、碧理は苦笑いをして口を開いた。


「……昨日の夜と今日の朝。夜は遅かったから止めた。朝はパンケーキ食べ終わった後に着信があった。それと、移動中の電車で二回。計、四回だね」


「何ですぐに出ないの? 話していれば私の家に連絡なかったのに」


 咎めるような美咲の言い方に、碧理は口を閉ざす。

 拓真が碧理のスマホに電話をかけて来たのはこれが初めてに等しい。それほど、二人の関係は気薄なものだった。


 だから、碧理は迷ったのだ。


 電話をかけて最初に何を言えば良いのかを。そして、どう言う会話をしたら良いのか朝から考えていたら時間だけが過ぎて今に至る。

 それほど、電話を拓真にかけるハードルは、碧理にとって遥かに高い。


「深く考えすぎなんだよ、碧理は。ただ、元気で楽しく過ごしてるって言えば良いのに。電話してくれるだけマシだよ。ほら、電話かけなよ。でないと……兄貴が困る」


 そう助言する美咲の言葉も一理あると、碧理は頷く。

 だが、そこで気づいた。

 美咲も電話をどうするのかと。

 さっきから黒川健人の名刺を手に持ったままで、時折り気にする仕草を見せていた。

 本人は無意識かも知れないが、碧理と話している時も、目線が手元にいっている。


「美咲はかけないの? 黒川さんに。モヤモヤしているならかけて見たら? 結婚したいんでしょ?」


「か、かけないよ。それに、結婚する相手はケン君じゃなくても良いの。特定の人と結婚したいんじゃなくて、素敵な人と結婚出来ますようにだよ」


 美咲の言い訳は苦しい。

 だが、碧理はあえて指摘しないでおいた。


「健人君に電話したって、どうせ誰にも言わないでって口止めしてくる気だよ。……言わないわよ。三年も経っているのにね。言える訳がないじゃない……母親に若いツバメがいるって。恥ずかしいもん」


 眉間に皺を寄せて、怒ったような様子を見せる美咲だが、碧理は「若いツバメ」の意味が分からなかった。


「なに? ツバメって」


「昔の西洋ヨーロッパで使われていた言葉よ。貴族は政略結婚が多いから、跡継ぎ生まれると、男性は若い愛人を。女性は、ステータスの一種として、若いイケメンの愛人を持つの。それを『ツバメ』って呼ぶの。愛人になる代わりに仕事に出資したり、お金や家を貰う感じ。今で言うヒモ男ね」


 どこで知ったのか知らないが、美咲が得意げに知識を披露する。


 現代日本で、特に必要ない知識を。

 それに黒川健人は無職ではなく仕事をしている。しかも、碧理でも聞いたことのある製薬会社だ。ヒモではない気がしたが何も言わなかった。


「美咲が電話しないなら私もしない。だって、好きなんでしょ? まだ黒川さんのこと。じゃなきゃ、都市伝説信じてこんな所まで来ないよ。美咲ならすぐに彼氏が出来そうだし、こんな面倒な真似しないでしょ」


 そう言うと、美咲の目に迷いが出たのを碧理は見逃さない。


「たった一日一緒に過ごしただけで私の性格わかるの? ……それにさ、碧理もわかっているんじゃない? 都市伝説なんて、願いが叶う洞窟なんて嘘だって。なのに、何で付いて来たの?」


 やっぱり、美咲も頭ではわかっていたらしい。

 願いが叶う奇跡の洞窟など、都市伝説であり存在しないと。それでも、まだ希望を託した。蜘蛛の糸に縋るように。

 真剣な美咲の様子に、碧理は笑った。


「私は信じてる。だって、その方が、夢があるじゃない。それに、洞窟を目指さなきゃ、美咲や皆ともこんなに話さなかっただろうし。私は新しい出会いがあっただけ嬉しいよ。探すだけ探そう。ここまで来たんだから」


 皆が言うように、嘘でも迷信でもタイムリミットいっぱいまで探したかった。いつもの日常に戻る前に。この出会いに感謝して。


 偶然出会った旅仲間とは、普段から話すことは無いに等しい。

 美咲は引きこもり。慎吾は学校に寄りつかず、蒼太はクラスが同じだが親しい訳ではない。五人揃うことは、もうないだろう。


 旅が終わると、また単調な毎日がやって来る。

 学校へ行き、授業を受けて終わる平凡な日々。わかってはいるが、碧理はもう少し、この仲間と一緒に居たかった。

 高校最後の夏の思い出に。


「……よし。なら電話するわ。だから碧理も家に電話して」


「えっ……。なんでそうなるの? あんまり話に関係なくない?」


 あんなにも連絡するのを渋っていた美咲が、吹っ切れたようにスマホを手に取る。

 美咲は思い立ったら即行動する性格だ。電話をかけるのは決定事項だ。


「私も洞窟の奇跡を信じてみようと思って。新しい友達も出来たしね。それと、私はこの旅が終わっても碧理と遊ぶ予定だからよろしく。家にも遊びに行くから。お義母さん紹介してよ」


「……それはちょっと」


 美咲の言葉は嬉しかったが、まだ新しい家族にどう接して良いのかわからない碧理は難色を示す。

 その時、悶々と考えている碧理のスマホが音を立てた。


「あ……」


 スマホを見ると「父」の文字が。

 初めてかかってきた父親からの電話に、碧理が迷うようにじっと見つめる。


「碧理。出ないと捜索願い出されるかもよ。それでも良いの? ……私も電話かけてくるよ。お互い頑張ってみない?」


 じっとスマホを見つめたままの碧理の肩を美咲が叩く。「頑張って」と励ますように。


 そして、美咲も立ち上がり、スマホを見ながら碧理から離れていく。

 あんなにも拒否して、不登校になるくらい三年も避けていたのに美咲は強い。そんな姿に勇気を貰いながら、碧理は鳴り続けるスマホの通話ボタンを押した。



「……もしもし」


 固く緊張した声は暗くなった夏の空に消えていく。



『碧理か? ……外泊する時は事前に言いなさい。連泊すると相手の家にも迷惑だ。すぐに帰って来なさい』


 拓真と一対一で話したのはいつのことだったかと碧理は考える。

 それどころか、電話をかけてきたことすら初めてのような気がした。


「……今日は帰らない。明日帰るから」


 小さな声でそう答えると、電話の向こうから溜め息が聞こえる。


『家で何かあったのか? 香菜と冬矢と……二人と何かあったのか?』


 いつも、あまり感情を表に出さない拓真にしては珍しく、緊張した声色だった。どこか不安げで碧理を気遣っているようにも思えた。


「……別になにもないけど」


 まさか居場所がなくて、家にはいたくないとは、さすがの碧理も直接言えない。そんなことを言うと、三人の幸せな家庭が壊れてしまう。

 だから碧理は嘘を吐いた。


『……碧理』


 長年コミュニケーション不足な二人は、それ以上会話が続かず沈黙が続く。

 すると、そんな碧理のスマホがいきなり奪われた。


「初めまして。白川美咲と言います……」


 何が起こったのかわからず、茫然としている碧理を見ながら美咲は話し出す。


 どうやらアリバイ工作の一環らしい。あんなにも話が続かなかった拓真とも、美咲はにこやかに会話をしている。

 引きこもりなのに、美咲のコミュニケーション能力は高いらしい。


 連泊に難色を示している拓真に向かって「大学受験のために、近くの図書館や知り合いの大学生に勉強を見て貰っている。そしてキャンパス見学に言っている」など、美咲は嘘を流暢に語っている。


 しばらくすると話が纏まったようで、ふいにスマホを渡された。

 受け取るか躊躇する迷う碧理に、苦笑しながら美咲が無理やり押し付ける。


「不審がられないようにね」


 こっそりと囁かれた声に碧理は頷いた。

そして、勇気を出して口を開く。


「もしもし。明日……帰るから。……うん。わかった」


 拓真に、美咲の家族にくれぐれも迷惑をかけないようにと念押しされる。何度も「わかった」と頷く碧理が通話を切ろうとすると、ふいに引き止められた。


「……なに?」


『帰って来るのを待ってるから。明日の夜は、久しぶりにご飯でも食べに行こう。何が食べたいか考えておいてくれ』


 そう言うと、碧理の返事を聞く前に通話が切れた。

 まさかの外食の提案に、碧理は混乱する。

 離婚してから初めてだった。拓真が碧理を食事に連れて行ってくれることも、一緒に何処かへ行こうと誘うことも。


「なに、変な顔してんの? やっぱり、すぐ帰れって言われたとか?」


 切れたスマホを見つめたままの碧理に、美咲は焦ったように話しかけた。

 ここで家に帰ることになったら、せっかくここまで来た過程が無駄になる。噂でも、嘘でも何かを見つけたい。


「……ううん。何か、帰って来たら外食行こうって。しかも、何を食べたいか考えとけって。……そんなこと初めて言われたんだけど。……何を食べたら良いのかわからない」


 真剣に碧理は困っていた。

 思春期特有の、親と一緒にいる所を友達に見られたくない。そんな感情ではない。初めての出来事に碧理の経験値が足りないのだ。


「なんだ、そんなこと。お寿司やファミレス。それに焼き肉でも何処でも良いじゃん。たまには外食も良いよね。家族皆でなんて羨ましい」


 そう言って空を見上げた美咲は、清々しいほどに吹っ切れていた。

 美咲の方が重い電話だったはずなのに、どことなく嬉しそうにも見える。


「美咲はどうだったの? 黒川さんとの電話」

「うーん。予想通りの……誤解だって言われた」


 黒川健人が言うには、美咲のママと健人が抱き合っていたのは、事故とのこと。


 お茶を運んでいた美咲のママがつまずいて、それを助けようとして抱き止めた。そこへタイミング良く美咲が現れ誤解された。

そんな漫画や小説のような話を聞かされたらしい。


「……それでどうするの? 信じる?」


「信じる訳ないじゃん。それならママも兄貴もすぐに言えることでしょ? それにさ、健人君は、赤谷を私の彼氏と勘違いしてた……」


 電車の中でも、慎吾と美咲が一緒にいる姿を見て、健人は恋人同士だと勘違いをしたらしい。

 それについては誤解だと突っぱねたが、何を言っても「幸せにね」としか言わない健人に、美咲は落ち込み諦めたらしい。

  やっぱり自分は彼の恋愛対象ではなかったのだと。


「まだ好きなんだね、やっぱり」


「……そうみたい。でもさ! なら、最初から年下は好みじゃないとか、好きじゃないとか言って欲しくない? ずるいよ……何も言わずに私に諦めさせるなんて」


 優しさは時に人を傷つける。

 健人がきっぱりと美咲を拒絶していたら、ここまでこじれなかった。そして、美咲もまた次へといけただろう。

 人の心は時に残酷だ。


「でも、それも今日限りにする。だって、私のことを健人君は好きじゃないんだもん。やっぱり結婚するなら……私を好きになってくれる人じゃないと。だから、紺碧の洞窟では幸せな結婚を願うわ!」


 強がりなのか、心配をかけまいとしているのか、それとも恋愛脳なのか。美咲は滲んでいる涙を拭いて、にこやかに笑った。



「――おい、そこの二人。話は終わったか? 色々買って来たから食べるぞ」


 いつからいたのか不明だが、いつの間にか慎吾と翠子。そして蒼太がこっちを見ていた。

 手には、屋台で買ったであろうビニール袋をいくつも下げて。



 「……いつからいたのよ」


 泣いていたことを知られたくないのか、赤い目をしながら美咲はぶっきらぼうに聞く。


「今、来たんだよ。それよりも食うぞ。腹減って死にそうだ。定番のタコ焼きやお好み焼き、それにポテトや綿菓子な」


 平らな岩の上に、次々と食べ物が置かれる。


「私、屋台の食べ物初めてです。昨日から初めてづくしで良い経験になって来て良かった」


 翠子がカップに入ったカラフルな綿菓子を千切り、口へと運ぶ。

 お嬢様の翠子の所作は綺麗だ。

 平凡な綿菓子が、まるで高級菓子のように思える。


「美味しいです! すぐに口の中でとけます」

「……綿菓子だからな」


 逐一、味の感想を言う翠子に、慎吾が適当に相槌を打ち、自分は焼きそばを食べ始めた。雑な翠子への対応は普通らしい。


「二人は何、食べる?」


 自分はタコ焼きを食べながら、蒼太がかいがいしく碧理と美咲に聞いた。


「じゃあ、私もタコ焼きかな。美咲は?」


 蒼太の隣に腰を下ろした碧理は、美咲を見上げる。だが、なぜか美咲の表情は強張っていて辛そうだ。


「あ、あの。皆、本当にごめんね。泊まる場所なくて……。それに、今日一日、私のせいで雰囲気悪くてごめんなさい」


 勢い良く五人に向かって美咲が頭を下げる。

 どうやらずっと悩んでいたらしい。


「気にすんなよ。俺達も迷惑かけたし。それに、泊まる場所なら確保出来るかも知れないぞ」


「えっ? そうなの?」


 慎吾も翠子も、自分達が迷惑をかけた分、気にすることはない。と、美咲に声をかける。蒼太もいつも通りで気分を害している様子は見られない。


 美咲はその反応に安堵した。

 そして、今夜の一番重要な宿の確保が気になったらしい。


「こんなお祭りの日に泊まれる宿あるの? それに、未成年の私達にいきなり貸してくれる所の方が危険じゃない?」


 皆が皆、良い人ではない。親切に近づいて詐欺や犯罪行為を平気で行う人間もいる。それが一番気になることだ。

 犯罪に巻き込まれたら、それこそ本末転倒だ。


「食べ終わったら行って見ようぜ。屋台を抜けた向こうの海の近くにあるらしい。民泊だって教えられた」


 慎吾が言うには、屋台を周りながらホテルの情報を集めていたら、そこで民泊を紹介されたと言う。

 スマホで調べたら評価も悪くなく宿泊料も平均的。気候は寒くない夏とは言え、危険と隣り合わせの野宿は避けたかった。

 皆の反応に安心したのか、美咲もタコ焼きに手を伸ばし食べ始める。


「直接、宿に行ってみて聞こうぜ。なんでか電話が繋がらなくてさ」


 慎吾と蒼太は、さっきから何回か電話をかけていると言う。だが、ずっと通話中になっていて連絡が取れないらしい。


「……ホラーとか嫌だよ」


 美咲が青ざめる。どうやら心霊現象が苦手らしい。

 碧理も同じ気持ちのようで、手に持っていたから揚げを落とす。


「大丈夫だよ。危なくないしホラーでもないよ。ちゃんと街の観光課に聞いたから。祭りの中心で特産品や観光地のPRしてたんだ。事情を話したら、民泊にも力入れている地域だからってパンフレット貰った。それと、僕達は大学生の設定だから覚えておいて」


 そのパンフレットを見ると、純和風の佇まいらしい。庭も立派な元民宿で、時代の流れと共に跡継ぎがいなくなり廃業。


 部屋は当時のまま保存していて、使わないのは勿体ない。宿は出来ないが、泊まる人達が自分で全てやる民泊なら人手もいらない。

そんな理由で始めたと書いてある。

 確かに、人が住まなくなった家は魂が消えたように痛んでいく。なら、家も手入れ出来て収入がある方が家主も助かるだろう。


「元民宿なら安心かもね。希望が出て来た!」


 落ち込んでいた美咲が、嬉しそうに笑った。


「昨日が廃校で、今日が元民宿ですか。どっちも楽しそうです」


 翠子が目を輝かせる。

 お嬢様は、大人しい容姿と違い、好奇心旺盛なようだ。


「じゃあ、食べ終わったことだし行こうか? それと、その民宿の人にも『紺碧の洞窟』のこと聞こうよ。白川の地図の位置も、ここを指している。他に情報はないんでしょ?」


 美咲から地図を受け取っていた蒼太が広げて確認している。


「うん。そこに行けば管理人がいるみたいなんだけど、管理人ってどうやって探すんだろうね? そこまではわかんないなあ。さっき健人君に電話した時にも聞いたけど、噂だから帰って来いって言われたわ」


 どうやら美咲は、さっきの電話で洞窟の話を確認したと言う。

 黒川健人は美咲に「噂だから」と焦って止め、すぐに帰って来るようにと説得を始めたとらしい。


 人を介して聞いた噂は、変な尾ひれも付いて信用出来ない。

 それに、願うことがもうない美咲や翠子、慎吾や蒼太は都市伝説だと思っている。本気で願いを叶えたいと思っているのは碧理一人だけ。

 四人が本気で洞窟を探すことは無いだろう。


「……電話で聞いたんだ。進歩だね……」


 あんなに頑なだった美咲の気持ちの変化に、事情を詳しく知らない蒼太達は興味津々だ。やはり、年頃の三人も他人の恋愛話は気になるらしい。


「まあね。それは全て解決済みよ。詳しくは話さないからね」


 だから、それ以上は聞くな。と、美咲は三人を止める。まだ、碧理以外に話す心の準備は出来ていないようだ。

 自分勝手な美咲の様子に苦笑いを浮かべて、蒼太が続ける。


「……一応、洞窟の話も観光課の人や地元の人にさりげなく聞いたけど、やっぱり全員が迷信だって笑ってたよ。たまに、僕達みたいに聞きに来る若者がいるみたいだけど、探して何日かしたら諦めて帰るって」


「そうなんだ。でも、明日の昼までは時間あるでしょ? せっかくここまで来たんだから、思い出に海の散策もしようよ」


 すでに美咲にとって、洞窟はどうでも良いらしい。

 ぐだぐだせずに、切り替えが早いのは美咲の長所だ。


「お前、相変わらず自己中心的だな。四人も巻き込んでおいて。願いはもう良いのかよ」


「違うわよ。巻き込んだんじゃなくて皆が付いて来たんでしょ? それに願いは……私は自分で頑張って結婚相手見つけるわ。ハイスペックの」


「……なんだよ、それ。お前、それ男の前で言うなよ。絶対に引かれる」


「言わないわよ。そのために良い大学に行く。そして男女率が平均の上場企業に就職するわ」


 いきなりハイテンションで語り出す美咲に、四人が呆気に取られる。


「……なんで上場企業なんだよ」


「人が多い方が出会いも多いからよ! 女ばかりの職場には出会いがない! 良い男は結婚も早いからどうせなら大学から目星をつけたい」


 美咲の力説に、男子二人は、もう何も言うまいと口を噤む。


「美咲さんの考えは最もだと思います。友達の紹介や飲み会で出会うより、大学や職場の方が、一緒にいる時間が長くて人柄が見えますし。それよりも風が出て来ましたね……。花火は見たいですけど、先に宿へ行ってみませんか?」


翠子が弱々しく、そう言った。




 急に潮風が強まり体温を奪い出す。

 吹きつける風に、全員が海へと視線を向けた。


「花火大丈夫かな? 風が強いと中止なんでしょ?」


 碧理は暗くなる空を見ていると不安にかられた。

 飛ばないようにと、急いでゴミをかき集め袋に入れた。

「このくらいの風なら大丈夫だよ。それよりも移動しよう。慎吾も翠子さんも寝ていないから眠いでしょ? 電車の仮眠じゃ落ちつかないよね」


 蒼太が碧理の片づけを手伝い、ゴミを半分受け取る。

 翠子は電車や移動に慣れていないらしく疲れているようだ。

 花火は遠くからも見えるからと、蒼太を先頭に、賑やかな屋台を目指す。

 すれ違う人々は、皆が笑顔で幸せそうだ。


 色とりどりの熱帯魚のような浴衣を身に纏う女性達は勿論、家族ずれも多い。皆が楽しんでいる。

 そんな光景を視界にいれながら、碧理は羨ましいと思った。


 四歳の時に両親が離婚した碧理は、賑やかなお祭りに行った記憶がない。成長してからも、隣に住む瑠衣に何度か誘われたが、適当な理由を付けて断っていた。だから、実質、これが初めてのお祭りだ。


 その光景を夢中で目に焼きつける。


「花木さん、お祭り好きなの? すんごいキョロキョロしてる」


 美咲や慎吾、翠子達三人は揃って碧理達の前を歩いている。たまに足を止めて買い食いをしているのは、慎吾と美咲だ。それを翠子が呆れた様子で見ていた。

 二人はまだお腹に余裕があるらしい。


「あ、うん。私、お祭りって来たことなくて……凄いね。見ているだけでも楽しい」


 陽が落ちた世界は、暗闇の中、そこだけが煌めいている。

 まるで、世界から隔離されたように。


「なら……帰ったらまた行かない? 十日後に地元で花火大会あるから……どうかな?」


 遠慮がちに、碧理の様子を伺うように告げた蒼太の顔は少し赤い。照れているようにも見えるが、緊張しているのか手を強く握っている。

 蒼太が誘った花火大会は、美咲が家庭教師と三年前に行った、地元で一番有名な花火大会だ。


「え……。あの、行きたいけど、私と一緒で良いの? バスケ部の友達とかは?」


 素直に「行きたい」と伝える碧理に、蒼太は嬉しそうに笑った。


「花木と一緒に行きたいんだ。……二人で」

「えっ……?」


 てっきり、またこの五人で行くとばかり思っていた碧理は、いきなりの蒼太の言葉に驚いた。そして、その意味を噛みしめて恥ずかしそうに俯いた。


「ダメかな……」


 そんな碧理の姿を見て、蒼太が沈んだ声を出す。

 誤解させたと感じた碧理は、慌てて顔を上げた。その顔は林檎のように真っ赤になっている。


「行きたい! 私で良いなら行きたいな」


 全力で碧理が伝えると、蒼太は顔をほころばせた。

 そんな二人の甘い空気は、遠くから見守っている三人にも伝わる。


 美咲は「早く付き合えば良いのに」と小声で囁き、慎吾は美咲に「余計なことは言うな」と小言を言っている。翠子は「素敵です」と目を輝かせ拝むように手を合わせた。

 初々しい二人の姿ににまついていると、美咲はふと視線を露店に向けた。


「ねえ。あそこでおもちゃの指輪買おうよ。記念に!」


 目に入ったのは、縁日に良くあるおもちゃばかり取り扱っている。


 そこで見つけたのは、プラスチックのおもちゃの指輪。

 銀色のリングに石の色だけ違っている。

 小学生以下の子供がメインターゲットだろう。そこに高校生の碧理達が引き寄せられる。女、三人ではしゃいでいる後ろで、男二人が呆れたように見守っていた。


「いらっしゃい。お嬢さん達。その指輪にイニシャルも彫れるよ。十分あれば出来るからどう?」


 目を輝かせている女子三人に、愛想の良い店の主人は声をかける。


「名前彫れるの? それ凄い。記念に三人で買おう。あ、石の色はね……それぞれが好きな人の色ね」


 男二人に聞かれないように、美咲が声を潜めた。


「えっ? 好きな人の色?」


 碧理が何のことかわからずにいると、翠子が短く声をあげる。


「私はわかりました。名前に入っている色ですね」

「そうよ。翠子は赤谷の赤。碧理は森里蒼太の青。そして私は黒よ」


 どうやら、美咲はまだ黒川健人が忘れられないらしい。吹っ切れたように見えたのは強がりだったようだ。


「碧理……。何よ、その顔。別に良いでしょう」


 碧理の気持ちをよんだのか、美咲が頬を膨らませる。


「何も言ってないじゃない。それに良いんじゃない。私も失恋したら引きずるもん。帰ったら残念会しよう」


「……碧理。自分は上手くいくからって。絶対に私も頑張るんだから。おじさん、この三つ頂戴。それと、イニシャル彫って欲しいな」


「まいどあり! 紙にイニシャルと、どの石に彫るか書いて」


 美咲が紙を受け取り代表して書いていく。

 どうやら、機械ですぐに彫れるようだ。十分待つと、それぞれの指輪を渡された。


「お嬢ちゃん達、指に合うか合わせてみて。今なら調整出来るから。おもちゃの指輪は簡単に大きさ変えられるからね」


 どうやら、調整出来る機械もあるようで、今の縁日は凄いと三人は心の底から喜んだ。そして、受け取った指輪をその場で嵌めて歩き出す。


「可愛いです。おもちゃの割にしっかりした作りですね。大切にします」


 右手の薬指に合わせた翠子は始終ご機嫌だ。

 どうやら、この指輪で疲れも吹っ飛んだらしい。

 美咲も満足な様子で小指に嵌めた。そして、碧理もまた左手の薬指に指輪をする。


「何で、翠子が薬指で、お前ら二人は小指なんだ?」


 慎吾が不思議そうに聞いてくる。


「あら、赤谷。これ、指によってそれぞれ意味があるのよ。所説はいっぱいあるけど、翠子の右手薬指は心の安定や恋を叶えるため。私達の左手小指はチャンスと恋を引き寄せるためよ! ……碧理は翠子と同じでも良いと思うけどな」


 にやにやと笑みを浮かべる美咲を見て、碧理は何も言えないくらい顔を赤く染めた。傍にいる蒼太に余計なことを言うな。と言うように。

 男子二人は、指輪の色に気が付いていないようだ。それぞれが好きな人の色を選んだことに。


「あ、あそこじゃないか? 元民宿って」


 しばらく五人で歩くと、屋台を抜けて海の側までやってきた。

 海沿いに建てられた家々の中で、趣のある和風建築に五人は足を止める。

 立派な門に、建物の周りは中が見えないように囲われている。元民宿と言うよりは、由緒正しい旅館の造り。


 思っていたよりも厳かな日本建築に、五人の歩みが止まる。


「えっ……。紹介されたの、本当にここ? かなり立派なんだけど……間違ってない?」


 美咲が蒼太や慎吾に不安げに確かめる。

 どう見ても、高校生が泊まるにはハードルが高い。

 誰かに聞こうにも、なぜかこの周りに人がいない。そして、他のお店は全部閉まっていた。


「……だよね。スマホで調べた宿と何か違う気がするなあ。でも、他は民家や飲食店、雑貨屋しかないし、ここかな?」


 蒼太もスマホを片手に困惑気味だ。

 周りを見渡しても、この場所だけ異質に思えた。まるでタイムスリップしたように、この建物だけ周りから浮いている。


「ここで話し合っていても仕方がないから中に入ろうぜ。間違っていたら戻れば良いだけだし。行くぞ」


 物怖じしない慎吾は、率先して歩き出した。

 インターホンが見当たらないので、普通の家には到底あり得ない立派な門をくぐる。

 敷地内に入ると、手入れの行き届いた和風庭園が広がっていた。


「凄いね……。私達、場違い感が半端ないんだけど」


 美咲の言葉に、碧理や蒼太は同意する。

 だが、翠子は慣れているようで、庭の説明をしてくれた。


「素晴らしいお庭ですね。今は滅多に見ることが出来ない鹿威しや岩灯籠もありますし、木々の剪定も丁寧ですわ」


 さすがはお嬢様だ。碧理達が歩いている、敷岩の説明までしてくれる。

 庭に圧倒されていると、玄関へと辿り着いた。

 そして、躊躇する暇もなく、慎吾が豪快に戸を開けた。



「すみませーん。ごめんください」


 大声で中に呼びかける慎吾の声に、すぐに反応が返ってきた。


「はーい。どなた?」


 中から出て来たのは、三十代と思われる女性。

 髪を一つに纏め、黒いワンピースに白いエプロンをつけている。どうやら料理中だったようだ。

 その女性は碧理達の姿を見て、とても驚いている。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る