噂の男
和田さとみ
一、その男
後から思えばその男の行動は、あるいは、いささか出来すぎだったかもしれない。
鎌倉の空一面が薄い雲に覆われ、前浜の方だけが微かに明るい、ほころび始めた桃の蕾をなぶる風がいつになく冷たい日だった。
絹に包まれた青磁の壺を抱えたあやめが、妓楼の軒板をくぐりかけた時、ふいにその男が目の前に飛び出して来たのである。
男と当たったはずみで、包みは腕からするりと落ち、踏み固められた土の上で派手な音をたてて砕けた。
「どうしよう」
青磁は大陸渡りの珍品であり、一部の富める者たちの象徴とさえされている。近頃の鎌倉の府においても、普及し始めたとはいえ、妓楼の下働きに過ぎぬあやめが手に入れられる
「今の音は、何だッ」
そこへ、壺の持ち主である妓楼の主人が、奥からのっそり顔を出してきた。絹の包みから散らばっている破片を見つけるなり、
「あやめ、またお前かッ」
肥えて艶々しているこめかみをはち切れさせて怒鳴った。
「使いひとつ満足にできぬとは、いつまでたってもノロマな奴め」
頭の芯に炎でも詰め込んだような形相に、あやめが恐れ、額を地べたに擦りつけていると、
「あるじ、まぁ待て」
その男が口を挟んできた。
「元はといえば、この娘にぶつかったおれの責任だ。おれがその品の代とやらを支払おう」
「お代を?」
不意をつかれたものの、
「あなたさまが?」
主人の目には、たちまち蔑みの色が加わった。
「とはおっしゃいましても、ものは舶来、滅多と見られぬ青磁の壺ゆえ、あなたさまには、とてもとても……」
確かに半袴の水干、揉み烏帽子に太刀も
男は、だが、特に気を悪くした様子も見せずに、
「これでは足りんか」
束ねた宋銭を、無造作に懐から取り出した。
宋銭とは文字通り宋の貨幣であるが、磁器と同様、大陸渡りの品として近頃珍重され始めたものである。
それを二つばかり手にした主人が、思いがけない重さに目を丸くしていると、
「あいにくと、それしか持ち合わせがない。よければ取りに戻るが」
なおも男は訊ねてきた。
「と、とんでもないことです。一つで十分でございます」
主人は、たちまち極上の笑顔を作り、
「本来ならば、あなたさまには何の咎もないところですのに、お気遣い甚く心に染み入りました。お詫びといってはなんですが、ひと休みなさってゆかれませぬか。お花代の方は、なぁに、私のほんの気持ちゆえ」
うつむいたままのあやめの頭を小突いた。
「ぼんやりしてないで、お前からもお願いしろ」
「は、はい」
女は、「お願いします」とさらに身を小さくした。
すると男は、いやいやと笑いながら、軽く手を振った。
「元々遊ぶつもりできたのだが、せっかくだからお受けしようか」
「は、それはもう。では早速、女たちをお呼びいたしましょう。お好きなのをお選びくだされ」
うまくいったという表情を隠しきれぬ主人が、むっちりとした掌をすり合わせたが、男は、
「否、それには及ばんさ。この娘で十分だ」
あやめを顎で示した。
「し、しかし、下奉公の娘では満足なお相手もできませんし」
「構わん」
「美しい女が他に、よりどりみどり」
「いいと言っているだろう」
「そうおっしゃるのであれば……」
不承不承折れた主人は近くの者に言いつけて、男を奥の部屋に案内させると、
「ほら、さっさとしろ」
いかにも不愉快そうにあやめの腕を掴み上げ、
「せっかくいい金蔓になりそうだったのに、よりによってお前を…うまいことやれ、とは言わんから、せめて機嫌だけは損ねてくれるなよ」
念を押すと、妓女たちの仕度部屋へ引きずっていった。
あやめが男の待つ部屋の襖を開けたのは、火鉢の灰が白くなりかけた頃である。
褥が敷かれた脇に、一献を傾ける空間があるだけの狭い室内には、すでに灯が入れられていた。
「待ちかねたぞ」
「も、申し訳ありません。お化粧に手間取っていたもので」
馬鹿正直に理由を述べるあやめを、男は笑って迎え入れた。
「すっかり見違えたな」
「はぁ……」
「さっきまで素顔だったのだから、改めて着飾る意味もないけどな」
「そ、そんな……」
「なかなか化粧映えするじゃないか」
「そ、そうですか」
自分の言葉にくるくると顔色を変えるあやめの肩を、男は楽しそうに抱き寄せた。
「世間ずれしていなくて、かわいいな」
「そんなの……」
「嘘じゃないさ」
黒目がちの瞳がいじらしいのは確かだが、ついぞ褒められたこともなく自覚さえしていなかったあやめは、ぱっと耳元を赤くした。
「あやめ……と言ったな」
男が訊ねた。
「お前、いくつだ」
「十六です」
「その年で、なぜまだ下奉公なんだ」
「だって、ご覧になったでしょう。私のような地味なノロマを相手にする方なんて……」
「ほう、ではおれがもの好きだとでも言うか」
「そ、そんなことは」
男が笑うと、あやめはいたく恐縮した。
この時初めて、男の顔をまじまじと見つめた。あやめより少し年上だろうか、眉の濃い、鼻筋の通った面立ちにちらりと白い歯をのぞかせて清々しい。
つられて笑みがこぼれた。
「お前は笑っている方がいいな」
短檠の灯りが微かに揺れると、浅黒い頬に微笑がにじんだように見えたが、それはどことなく不敵とも取れるような気がした。
外では相変わらず風が吹きすさび、妻戸を叩き続けている。
「すぐに良くしてやるよ」
さして気負うふうでもない言い方だが、あやめの腕を掴む力は思いがけず強い。
固く目を閉じたままあやめは、男に全てを任せてはいたが、次第に凪いだ海にゆらりと漂う小舟になった気がしていた。
何度か女の深奥をむさぼってから、
「また会いに来ようか」
男は満足そうに肩で息をしながら、あやめの横に寝転んだが、
「まぁ……」
虚ろな目であやめに見つめ返され、
「ここは、嬉しいって答えるとこだよ」
反応の薄さに、不満そうに言った。
「だって、そんなの本気になんかしません」
「馬鹿だな」
男は笑った。
「嘘だと分かっていても嬉しいって言うのが、お前の仕事だ」
「やっぱり嘘なのですね」
「おれは嘘なんかつかないよ」
紅潮したうぶな耳元に唇を寄せ、
「お前は根が正直だな」
そこがかわいい、と言った。
ぼんやりとした瞳の行く先が定まらないまま、あやめは、ふっと笑った。
「何がおかしい」
「だって、嘘をつけって言ったのに、正直でかわいいだなんて」
灯りの油が切れ、深まる闇の中であやめは再び目を閉じた。
男は暗がりの中、相手に気付かれぬように口の端でそっと笑っていた。
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