東京にも空はある
垣内玲
【1】
色鉛筆を削るときにはカッターを使う。別に鉛筆削り器を使ってはいけないというわけではなく、単純にカッターで鉛筆を削る感覚が好きだからそうしている。
絵を描くようになって、自分がこれまでいかに手というものを使ってこなかったかがわかる。筆先がスケッチブックに当たる感触。自分の指で紙に触れているかのような感覚。私の手がこんなふうに何かを感じとるものなのだということを、私は26年、全く知らずに生きてきたのだ。
絵を描くことそれ自体よりも、絵を描くことを通して私の五感が研ぎ澄まされ、拡張していくような感覚が心地良い。
洗練されていくのは指先の触覚だけではない。目も同じだ。私はいつものように空を見上げる。空の表情は多彩だ。雲が多いか少ないかによってももちろん変わるし、大気の状態によって透明感が全く違う。同じ日の、同じ空でも、場所によって濃淡の差がある。今日の空は、どんなふうに描こう。
言うまでもなく、色鉛筆で空の青をそのまま再現することはできない。いや、水彩でも油彩でも、もっと言えば写真でさえ、現実の風景をありのままに再現することは不可能だ。空であろうと何であろうと、結局はその風景を受け取る人間の主観と切り離して表現することはできないから。だからと言って、観察しなくて良いわけでもない。というより、目の前にあるものを客観的に、仔細に分析し尽くして初めて、主観的な世界を十全に表現することが可能になるのではないか、という気がする。
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
高校の教科書にこんな詩が載っていた。自分の住んでるところを、「空が無い」などと決めつけられる方の身にもなって欲しい。長沼智恵子という人は画家であったはずだけども、「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空」だけが「ほんとの空」であるというのは、なんだかつまらない感性だなと思ってしまう。今ヒットしてるアニメ映画に描かれた、あの東京の空を見てみるがいい。リアルで繊細で、吸い込まれそうなほどに美しい新宿の風景は、間違いなく現実の東京を忠実に再現したものであって空想の光景ではない。新宿のような都会の中の都会にも、美しさを見出せる人はいるし、そうでない人もいる。要するに智恵子もその夫である高村光太郎も、東京の空を美しいものとして受け取り、表現できる人ではなかったというだけのことではないのだろうか。
「東京に空が無い」というのは、智恵子本人のセリフではないような気がする。
あの人がそう言っていたのをふと思い出して、私は息を呑む。筆を運ぶ手が固まる。動悸が生じて、過呼吸の兆候が現れる。いけない、まずは水を飲もう。私は色鉛筆を置いて、バッグの中にあったミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、キャップを外して一気に半分ほど喉に流し込む。
大丈夫、そこまで酷いフラッシュバックではない。少し目を閉じて頭を休めれば治るだろう。薬は飲まなくて良いと思う。
私の身体と心が、私の望むように働いてくれたことなどほとんどない。それでも、長年使っている分、付き合い方もわかってきたところは多い。
動悸が少し治まってきたところで、また一口、水を飲む。軽く深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。ここ最近、あの人のことを思い出すことが増えている。もう7年も前のことなのに。今更、思い出してみても何をどうすることもできないのに。
あの人の、村瀬先生にまつわる記憶を、私はどこにしまえば良いかわからなくて、どこにも片付けることのできないそれを7年間抱え続けている。この7年で、大学を卒業して就職して結婚して母親になった同級生は何人いるだろう。離婚して再婚した子だっている。私だけが、7年間同じ場所で足踏みを続けている。
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