Episode1-A 蛙(かわず)

 ある日突然、何の前触れもなく異世界に。

 こんな災難に巻き込まれてしまった者が自分一人だけではなく、他にもう一人いたとしたら?

 それならまだ、二人で手を取り合い、異世界で生き抜いていけるかもしれないという希望の光がそれぞれの心に灯されるであろうか?

 しかし、それは二人の関係による。

 壮絶な虐めの加害者と被害者。

 その二人が同時に、異世界にいざなわれてしまったのだとしたら……

 

 虐めの加害者であり、首謀者でもある者の名は、井手口(いでぐち)という。

 現在、高校二年生の井手口は、自身が通う中高一貫の私立男子校の学園長の息子という立場にあった。

 今時、こんなライトノベルみたいな学校があるのかと呆れずにはいられないが、我が物顔で好き勝手に振舞える学校という小さな世界で、井手口はターゲットを設定しては虐め――井手口本人に言わせると親しみを込めた弄り――を、取り巻きとともに繰り返していた。


 井手口のターゲットの設定は、少し変わっていた。

 本来ならば、虐めのターゲットになる確率は非常に低いであろう者を標的にしていた。

 同じクラスであるという以外、自分とこれといった接点があるわけではない。言動や外見にも、他人の嫌悪や侮蔑の対象となる要因も見当たらない。そして、極端な運動音痴などといった具合に周りから能力的に劣り過ぎているというわけでもない。


 現在のターゲットである榊(さかき)もそうであった。

 それどころか、成績に身体能力、容貌も含め、あらゆる面で榊は井手口の数歩先を歩いていた。

 この榊は、高等部からの入学組でもあった。


 井手口と榊。

 彼ら二人の元の世界における最後の日も、井手口は榊を取り巻きとともに男子トイレで痛めつけていた。

 榊の弁当箱を取り上げ、中身をトイレの便器にぶちまけただけでなく、囃し立てながら榊を小突き蹴とばしていた。


 この日も榊は耐えていた。耐え続けていた。

 涙一つこぼさず、また許しを乞うわけでもない榊のその姿は、井手口の嗜虐心をさらに煽ることとなった。


「榊、お前、随分と粘るんだな。”前の柳沢(やなぎさわ)”を超えたぜ。ついにお前が新記録だ」


 取り巻きたちからも笑い声があがる。


「そういや、柳沢の奴も結構、粘ったよなぁ。ま、結局、あいつ、二年に進級する前に中退していったけど」

「聞いた話じゃ、別の高校に編入も出来ず、引きこもりになってるらしいぜ」

「こいつもあと数か月後には、ヒッキーになっちまうんじゃね?」


 それを聞いた井手口はさらに大きな笑い声をあげた。


「いやいや、今すぐにでも、こいつを俺たちの目の前から消してやるよ」


 井手口が榊の胸倉を掴み、さらなる拳を振り上げようとしたその時であった。

 突然、何の前触れもなく男子トイレ内に現れた灰色の煙が、彼ら二人にまるで大蛇のように絡みつき、飲み込み、取り巻きたちの前から消してしまったのだ。



※※※



 井手口と榊は、冷たく寂しい風が吹き抜けゆく荒れ野原に転がっていた。

 ここは日本のどこかであるような気がしないでもない。

 けれども何かが違う、と強烈な違和感を彼らの肌はともに感じ取り始めていた。


 そんな彼らの前に、一人の老婆が現れた。

 汚れきった襤褸切れのような着物を着たザンバラ髪の老婆の片方の目は潰れて濁り、痩せこけているのに腹部だけがボコンと膨れているのは着物の上からでも分かり、垢じみた肌は疥癬に覆われてもいた。


 老婆は言う。

 ”時折、別の時空からこの荒れ野原に迷い込んでくる者がいる。一度、ここに来てしまったら最後、もう戻れない”と。


 この老婆の言葉も日本語らしきものであったため、井手口も榊も何とか聞き取れて要約できたものの、自分たち二人が普段使っている言葉の言い回しとは違い、どこか時代がかったものであった。


 そして老婆は、井手口と榊の二人に、懐から取り出した紙を渡そうとしてきた。

 老婆は”自分は迫害を受け追放された妖術使いだ、ここで生きていくしかないお前たちにとって、これがせめてもの希望になれば……”というニュアンスのことを言っている。

 黄ばんだ襤褸紙は、ちょうど葉書ほどの大きさであった。

 井手口は「近寄んじゃねえよ、ババア!」とそれを受け取らなかったものの、榊は正反対の行動を取った。

 老婆から紙を受け取り、その紙が持つ力――すなわち老婆が紙に授けた力――についての説明もちゃんと聞いたのだ。


 ほどなくして、井手口と榊の力関係は逆転し始めた。

 いや、逆転という表現は正しくないかもしれない。

 学園長の息子であるという後ろ盾も自分に迎合してくれる取り巻きたちも、ここには存在しないから”俺こそが世界の中心”とばかりに威張り散らすなんて、もうできない。


 何より、ここは井手口が今まで”井の中の蛙”のごとく好き勝手に振舞っていた元の世界とは、あらゆる面で勝手が違っていた。

 日本の戦国時代を実際に知っているわけがない井手口であるも、その戦国時代ですら、これほどまで不便で不衛生で、治安が悪く、血生臭くもなかったであろうと思うほどに。


 昼夜問わず、至るところで男の怒声や女の悲鳴があがり、道端には死体が普通に幾つも人間の排泄物とともに転がっている。

 明らかな他殺体であるそれらにも、この世界の者たちは見慣れているのか、殺人事件だと騒ぐこともなく、そのまま放置だ。

 その死体たちは、異常に攻撃的な野良犬やカラスたちに食い荒らされることになる。

 井手口も榊も、男に生まれていたことは幸運だったろう。

 女であったなら、とっくの昔に貞操を奪われ、売り飛ばされていたか、命を奪われていたかもしれないのだから。


 ひょっとしたら、この異世界は並行世界の一つなのかもしれない。

 日本の歴史に幾つかのターニングポイントがあり、自国の規律や衛生観念、文化、世界との交流、そして科学技術などを、元の世界と同等に向上させることなく、横ばいのまま……というよりも、さらに不潔に、さらに野蛮に、残虐な本能を剥き出しのまま、低下させ続けてきた世界ではないかと……


 井手口は、榊の側を離れなくなった。

 まるで飼い主の後をついて回る犬のように。


「……どっか行けよ。なんで、俺につきまとってくるんだ?」


「だってよ、こんなどこに行っても修羅場でしかない世界で一人で生きていけるかよ! 元の世界から一緒にやってきたのはお前しかいないんだ! 俺もやり過ぎたって反省してんだよ。お前だって心細いし、怖いだろ? 今までのことは水に流して、俺と一緒にいてくれよ!」


「……水に流せることとそうでないことがあることぐらい分からないのか。俺はお前たちからの虐めのことを、学費の高い私立高校に頑張って通わせてくれていた両親には話すことができなかった。悲しませたくなかったから。でも、さっさと話して転校してりゃあ良かったよ。お前……元の世界での最後の日に、俺に何をしたか覚えているか? 俺の母親が作った弁当を便器にぶちまけただろ! あれは、俺が口に出来たはずの最後のお袋の味だったんだぞ!」


 榊は井手口を睨みつけた。

 彼のその目には、涙が光っていた。

 元の世界での勢いはどこへやら、井手口は竦みあがり、頭を下げるしかなかった。


 前述した通り、本来、榊は虐めのターゲットになる確率は非常に低い者だ。

 一人では何もできない井手口たちからの虐めに、両親のことを思い、歴代最長で耐え続けたことからも察するに、精神力だって相当なものに違いない。


 地獄の一軒隣に位置しているがごとき異世界での日々を重ねるうち、榊は「警団」と称する若い男たちばかりの組織に所属することになった。

 それは、”焼け石に水”でしかないのかもしれないが、元の世界で言うところの警察のような役割を担う組織である。


 榊が所属するということで、一人になりたくない井手口も入団を希望したも、”足手まといはいらぬ”と入学試験ならぬ入団試験に合格できなかった。

 井手口は榊に頭を下げた。


「頼む、お前から警団の上の奴らに言ってくれよ。俺にはお前しか頼れる者がいねえんだよ!」


 プライドも何もかも投げ捨て、土下座までした井手口であったも、榊は呆れ顔で首を横に振るだけであった。



※※※



 ある夜のことだ。

 榊は、性懲りもなく自分にまとわりついてこようとする井手口を「お前に会わせたい”奴ら”がいる」と言って、沼の畔まで連れて行った。 


 もしかして警団の上の奴らに話をつけてくれたのか、と井手口は何の疑いもなく、榊の後を付いていった。

 壮絶なまでに虐め抜いていた相手に、夜に沼の畔に連れて行かれるという不吉なフラグがこれでもかと立っているというのに、頭の単純な井手口はひとかけらの疑念すら抱くことはなかった。


 月の光を映さぬほど濁りきった沼の畔では、蛙の声が五月蠅いほどに響き渡っている。


「なあ、榊、上の奴らに俺を紹介してくれんだろ? そいつらは、いつやってくるんだ?」


「…………先にお前に確認しておきたいことがあるんだが、お前は俺たちがこの世界に来て最初に出会った婆さんを覚えているか?」


「? ああ、あの妖怪みてえなキモババアのことか?」


「その婆さんは俺たち二人に襤褸紙を渡そうとしてきた。俺はそれを受け取ったが、お前は受け取らなかった。そのことも覚えているか?」


「まあ、それも一応……というか、何で今、あのババアの話をするんだ? 何の関係があるってんだよ!」


 井手口は声を荒げたも、榊は鼻を鳴らしただけであった。


「あの紙には婆さんが力が授けてくれていたんだ。俺たちは元の世界に戻ることはもうできない。けれども、あの紙を使えば元の世界にいる者を一人だけ、ここに招待することができる」


「!?」


「だがな、強制的な招待状というわけでない。例えるなら、パーティーの招待状みたいなもんだな。出席にマルをつけるか、欠席にマルをつけるかは、受け取り手側の自由だ。まあ、二度と帰宅できない地獄のパーティーだけどもな」


「お、お前は誰かを招待したのか?! まさか……お前の親のどっちかをこの世界に……」


「どれだけ会いたくても、側にいて欲しくても、こんな明日をも知れぬ世界に親を呼べるわけないだろ。いや、俺は親だけでなく、他の誰も招待するつもりはなかった。でも、この世界でのお前を見ていたら考えが変わったんだ。お前からの虐めを受けている時は耐え抜くことだけを俺は考えていた……だがな、お前への憎しみや恨み、悔しさは”後から”何倍にも膨れ上がって、俺の中でとぐろを巻き始めた…………この苦しさは”俺と同じ思いをした奴ら”にしか分からないと思う…………ヘラヘラしながら俺に四六時中まとわりついてくるお前をこの腰にある刀で一思いに切り捨てて、黙らせようと思ったことも一度や二度じゃない。ここじゃあ、殺人なんて日常茶飯事だし、俺にはお前を斬るだけの理由もある。死体がたった一つ増えたぐらいで大騒ぎされたりもしないだろうしな」


 そう言った榊であるも腰の刀を抜くわけではなく、自身の後方に、夜の闇の中で控えていた者に合図をした。

 湿った土を踏む足音とともに現れた男の顔――月の光が照らし出した男の顔――に、井手口は見覚えがあった。


「……お前は、や、柳沢か?」


 数十秒の沈黙の後、井手口は男が誰であるのかをやっと思い出すことができたらしい。


 柳沢。

 榊の前に、虐めでターゲットであった者だ。

 中途退学した後は、引きこもりになっているという噂を取り巻きたちも話していた。


 さすがの井手口も、榊が何の目的で柳沢をこの世界に招待し、そして柳沢が何の目的で片道切符しか用意されていない、明日への希望も抱けぬこの修羅なる異世界への招待状にマルを付けたのかが分からないほど馬鹿ではない。


「な、なんだよ! お前ら、ダチだったのか? 一対一じゃなくて徒党を組んで俺に仕返ししようってのか! 卑怯だぞ!」


「……俺と柳沢は一年時は違うクラスだったし、話したこともなかった。でも顔と名前ぐらいは、互いになんとなく知っているぐらいの間柄だったはずだ。それに正直なところ……俺は柳沢が招待を受けるとは思っていなかった」


 榊の隣にいる柳沢は、何も喋らなかった。

 削げた頬、伸び放題の髪の毛と髭、光なき瞳。

 それだけ見たら、もう充分であった。

 柳沢の心はもうとっくに自身の人生への、未来への希望を失っている。

 いや、失わされてしまった。


 その体だけが”殺されたはずの心が叫ぶ断末魔”を押し込めながら生き続けていた。

 彼にとっては、自分の体がどこにあろうが、そして”どこで滅びることになろうが”、もうどうでも良くなっていたのだ。

 どこにても味わわされた地獄の苦しみから逃れることはできない、これからもずっと苦しみ続けなければならない……なら、いっそのこと、と……!


「井手口、震えているところ悪いが、”元の世界における原点”だけでなく、この世界での原点に戻ってもみないか? この異世界に来た奴らは皆、最初にあの荒れ野原で例の婆さんに会うことになるみたいだ。もちろん柳沢も婆さんに会って、俺と同じく襤褸紙を受け取ったってわけだ」


 榊が声を出さずに笑う。

 月の光の下、白い歯が不気味に輝いていた。


「俺は高等部からの入学組だったから、前の被害者たちのことは知らない。けれども、柳沢は中等部からの持ち上がり組だ……俺の言いたいことは分かるよな?」


 まさか、まさか……

 そうだ、榊は「お前に会わせたい”奴ら”がいる」と言っていた。

 柳沢も榊と同じことをしたというのか? 

 その柳沢からの招待を受け取った”柳沢の前の標的”も、柳沢と同じ選択をしたというのか?

 もしかして、前の前の標的も……


 柳沢の後ろから人影がゆらりと一つ、そしてさらに一つ、二つと湿った土を踏み鳴らしながら近づいてくる。

 沼の畔で、蛙はなおも鳴いていた。五月蠅いほどに鳴き続けていた。


(完)

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