第十八話:偽りの婚約者
土曜の夜。
普段であれば静かな如月家の別邸は、華やかな明かりに照らされていた。
そこは主に社交場として使われており、今日も如月圭吾の誕生パーティーのため、著名な財閥の者達が、二階のホールに
既に会場には多くの関係者が詰めかけ、主宰の挨拶も終え、各自自由に立食や会話を楽しんでおり。圭吾への挨拶周りも盛り上がっている。
と。
そんな別邸のエントランスに、一台のリムジンが静かに止まった。
運転席から現れた
そして。
エントランスに立っていた待ち人。
それは、大胆に肩を出した赤いドレスにヒール。そして頭部側面に添えた黒き薔薇をあしらったコサージュが文字通り華を添える、普段とは装いの違う、大人びた霧華の姿だった。
「へぇ。流石お嬢様、って感じだね。霧華さん」
彼女を前にして、悪びれもなくそう口にする雅騎に。
「貴方はまるで変わらないわね。雅騎」
霧華もまた、皮肉を込めた言葉を口にすると。
二人はふっと、互いに笑みを漏らした。
「……悪いけれど、今日だけ我慢なさい」
表情に僅かに影を見せ、小さくそう呟いた彼女の脇に雅騎は歩み寄ると、エントランスの開いたドアの向こうに見える、普段はまず見ることがないであろう、華やかさを感じる世界をじっと見つめると、こう言った。
「大丈夫。ちゃんと借りは返すからさ」
* * * * *
それは、二日前の夜に遡る。
だが、寝る前に突然、雅騎は霧華に誘われた。
「今日は一緒の部屋で休みなさい」
流石に同じベッドではないとはいえ、あまり気乗りのしなかった彼であったが。
明日の夜には家に帰るのだからと言われ、渋々それを承諾した。
* * * * *
「今日は、悪かったわね」
霧華はベッドに。雅騎は床に敷いた布団にそれぞれ潜り、部屋の電気を消した後。
最初に口を開いたのは霧華だった。
彼女は雅騎寄りの位置でベッドに横になり、眼下の彼を見つめている。
対する雅騎は天井を見るように仰向けになったまま、視線だけ彼女に向けると。
「こっちこそ。明日大変にしちゃってごめん」
また学校で騒ぎ立てられるであろうことを容易に想像したのか。
苦笑しながら視線を天井に戻す。
少し間、二人を包む沈黙。
それを破ったのは、真面目な顔をした霧華だった。
「それはいいわ。ただ、迷惑ついでにもうひとつ、お願いしたいことがあるの」
声が僅かに震えたのを感じ、彼は再びじっと彼女を見る。
そこにある真剣さに。
──何だ?
雅騎は少しだけ、嫌な予感がした。
「あの、まさかだけど。実はずっと家を離れてないといけなかった、なんて事はないよね?」
ある意味で最も最悪かもしれないシナリオを頭に描き、恐る恐る尋ねる彼に、霧華はゆっくり首を振る。
その反応に、少しだけ胸をなでおろした雅騎だったが。
「……貴方に、私の
「……は? はぁぁぁっ!?」
次に口にされた言葉を聞き、一瞬耳を疑った雅騎は、思わず大きな驚きの声を上げる。
突然何を言っているのか。
そう言わんばかりに思いっきり戸惑う彼を見て、思わず霧華はぷっと吹き出した。
「凄く嫌そうな反応ね。そこまで私は魅力がないのかしら?」
「そういことじゃなくて! 急に何言ってるの!?」
思わず上半身を起こし、くるりと彼女に向き合うように布団の上であぐらを掻く雅騎に、合わせるように霧華も上半身を起こした。
──……ごめんなさい。
悪いと理解はしていた。
だが、こんな無茶な願いを叶えるべく、彼女は最後の切り札を静かに口にする。
「貴方。勿論、御影がいなくなった時の貸し、覚えているわよね?」
それを聞いた瞬間。雅騎の動きが唖然とした表情のまま固まった。
──まだ覚えてたのかよ!?
彼は既に、霧華がその事を忘れていたと思っていた。
それは、一ヶ月程前の出来事。
御影が行方知れずとなった時に、佳穂を元気づけてほしいと、彼女に頼んだときのこと。
あの時雅騎は御影を助けに行かねばならず。自身が佳穂を元気づける事ができないと理解していた。
だからこそ、バイトと嘘をつき、霧華にその願いを託したのだが。
──「いいわ。但し、これは貸しよ」
彼女はそれを受け入れる代わりに、こう口にしていたのだ。
とはいえ。
以降、この話について霧華が何か言及してくることもなく。あれから既に一ヶ月。彼すらもその事を忘れていた。
それもそうだ。
当時、霧華はああ言ったものの、以前ドラゴンに助けられた恩義もある。
だからこそ、そんな言葉は建前としか思っていなかったのだから。
しかし今回の願いは、これを盾にせざるを得ないほど、無理難題だと理解している。
それ故の、苦渋の決断でもあった。
とはいえ雅騎もまた、それを簡単に受け入れられなどしない。
流石にたったひとつの貸しが、人生を左右するほどの話に使われては堪らない。
「幾ら何でも、あれを理由に
そう言いながら、困り顔で頭を掻く彼を見て。
──貴方は本当に、真面目なんだから。
その内心を感じ取り、心で心底申し訳ない気持ちになる。
雅騎は、何処か曖昧な否定を口にした。
それは同時に彼が、貸しは返さないといけないと迷っている。
この一週間の中でより彼を知った霧華は、強くそれを感じ取っていた。
もし本当に断ろうとしていたら、彼はもっと強く、はっきりと否定するはず。
──「でも迷うってことは、それは嫌だって事でさ」
涙を見せ、無理して笑顔で語ったその言葉。
今が本当に、その通りなのだろう。
──だから、付け込まれるのよ……。
そんな皮肉を思うも、口になどできない。
どうすれば良いのか困り果てている雅騎を見ながら、彼女はため息を
「嘘よ」
そう短く口にした。
「へ?」
突然の否定。ころころ変わる霧華の反応にぽかんとする雅騎に、霧華は影のある笑みを浮かべると、ベッドに横になり、改めて身体ごと彼に向き直る。
「婚約者が必要なのは本当。でも、それは嘘でも……
「……どういう事?」
瞬間。彼の声色が変わった。
それは嘘だったという安堵……ではない。
自分は、雅騎を利用しようとしている。
改めてそれを強く感じ。霧華の心が、瞬間強く痛む。
だがもう、引けなかった。
「お
「……それが、
初日に語られた話を思い返し、雅騎がそう尋ねると。
「ええ」
短く、彼女は答えた。
そして。
「私は、本気で貴方に
そんな本音を続けることは、できなかった。
「情けない話だけど。ここで世話になる時に話した通り、私には親しい男友達なんていないわ。だからこんな事を頼める相手なんて、貴方くらいなのよ」
「……だろうね」
短く返す雅騎に顔を向けると。
彼は、笑っていた。
「つまり、一日だけ
「……そうよ」
「まったく……」
呆れるように口にする。
しかし、そこにはもう、馬鹿にする態度も、困ったような反応もない。
彼は霧華をちらりと見る。
そこにある顔を見た時。彼女の素直過ぎる申し訳無さをひしひしと感じる。
「あの時の約束、守ってもらったしね」
そう言って、彼も改めて布団に横になり、天井を見た。
はっきりとは言わない。
だがもうそれは、彼の伝えし答え。
霧華はぐっと奥歯を噛み、思わず顔を歪める。
迷惑ばかり掛けてしまう自分に対する歯がゆさだけが、心を責める。
枕に添えた手が、ぎゅっと枕を掴む。
その身が少し、震える。
「……ごめんなさい」
震えし声が漏れる。
それは、悔しさだけを強く感じる。
「気にしないで」
彼女の心を知ってか知らずか。
雅騎はもう願いなど知らなかったかのような、普段通りの優しい声を掛けた。
ちらりと横目で見た彼と目が合うと。にっこりと微笑んでくる。
「手が届くから、勝手にやるだけ」
その言葉に、思わず涙が
幼き日に初めて手を取ってくれたマサキは、差し伸べた手を払い除けようとしたのに、その手を掴んでくれた。
それから彼は、ずっと手を繋いでくれていた。
ずっと話を聞き、話をしてくれた。
何より、命を繋いでくれた。
ずっと。
手を伸ばし、掴んでいてくれた。
そして今。
新たな世界を知り。孤独に怯えることなく。
この一週間を乗り切れたのは、同じ名の、優しき彼が手を差し伸べてくれたから。
そう。
優しき彼がいたから、今の自分はここにいる。
彼女はもう、信じて疑わなかった。
マサキとの過去は、雅騎との今に繋がっていると。
手を差し伸べてくれたのは、昔も、今も、彼なのだと。
「……ありがとう」
短く、震える声で感謝を口にした。
ありったけの想いを込めて。
* * * * *
建物の中は、西洋風の豪華絢爛さを見せていた。
既に客人達は皆ホール。一階のロビーには受付をする者や警備の者の姿しかいない。
まるで道を指し示すように、シャンデリアの明かりに照らされたレッドカーペットを進んだ二人は、ゆっくりと二階への豪華な階段に足を掛け、一歩一歩上っていく。
少しずつ会場の賑やかな声が、閉まりし大きな扉越しに耳に届く。
雅騎にとっては未知なる世界が迫る中。
階段を上り終えた二人は、扉の前で暫しじっとしていた。
ため息をひとつ。
「俺、こういう世界何も知らないから、エスコートは任せるね」
苦笑しながら霧華を見た彼は、腕を組みやすいよう片手を腰にやり、腕を曲げ。
「安心なさい。貴方が迷わないように、この世界を教えてあげるわ」
そう言って、ゆっくりとそこに腕を回す霧華。
二人は暫し、視線だけで互いを見ると。
新たなる世界の扉を開き、足を踏み入れていった。
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