九鬼龍作の冒険  湖の妖精

青 劉一郎 (あい ころいちろう)

第1話

にゃぉー

 黒い猫は傍に立っている男を見上げている。

 「ビビ、よし、よし、いい子だ。こっちに、おいで。よく気付いてくれたね」

 九鬼龍作は黒猫ビビを抱き上げた。ビビは軽々と持ち上げられ、龍作の腕の中にすっぽりと納まった。黒い毛は秋の日差しにきれいに光っている。ほっそりとした体は痩せている、というより非常にスマートな体をしていて、気品があった。

 「にゃ、にゃ」

 ビビは龍作の腕から、またひょいと飛び出した。

 「分かった、分かった。心配しなくていい」

 龍作の前には、三十前後の男がうなだれていた。

 「聞くが、どうして死のうとしたんだ?」

 人の心に響く低い声だった。

 男は、その声に引きつられるように顔を上げた。

 「俺の目を見な。打ちひしがれた格好は余計に、自分自身を惨めにする、さあ」

 その男はゆっくりと顔を上げた。身長はそんなに高くない。龍作の肩辺りくらいで、顔の印象だけでなく、風貌からも気弱な印象を受ける。ひょっとして、他人からはよくいじめられるタイプなのかもしれない。

 「何があったのか、話してみな。力になれるかもしれない。まず、名前からだ」

 その男は躊躇することなく、話し始めた。素直だ。いい人柄なのかもしれない。

 その男の名前は、沖田昇平と言い、三十一歳。昇平の父はこの町の郊外に広大な土地を持ち、その他にも町はずれの奥まった所に、大きな山をいくつか所持していた。いわゆる昔からの資産家であり大金持ちだ。昇平は、そこの長男のようだ。そんな境遇なのに、なぜ自殺をする必要があるのか、

「なぜ、死ぬ必要がある?」

こんな疑問を持たないではいられない。

昇平の父、沖田喜之助氏は江戸時代以前からの資産家だったが、自動車部品の製造会社を興し、成功もしている。その資産の面でも、田畑も多く持ち、街の人に様々な野菜を作らせ、市場に出荷し、またみかん農園やいちご、なし狩り等で近隣の人たちを呼び集め、多くの収入を得ていた。しかし、彼にはそういう事業を大きくしようという欲望はなかった。喜之助氏の唯一の欲望は金、純金には人一倍の欲望があり、目を輝かせていた。

 だからと言って、彼は自分のその欲望を他人に語らなかったし、口外もしていない。だが、噂は、何処からともなく伝搬し。喜之助さんは純金が何よりも好きで、たくさんの純金を持っており、そのなかでも気に入っているのが、金の斧だということであった。残念なことに、そんな噂をしている人の誰ひとりも、実際にその金の斧を見たことがなかった。

「なるほど!」

 と龍作はいった。

 「それで!」

 「私も、その金の斧を見たことがないんです。多分、それは弟も同じだと思います。その金の斧に、ある泥棒が目に着けたらしいのです」

 「・・・」

 「多分、名前は知って見えると思うんですが、九鬼龍作という盗人が、その金の斧を頂戴するという告知があったのです。そして、見事に金の斧は龍作に盗まれてしまったのです」

 この男は内心可笑しくなり、笑ってしまいそうになるのを我慢した。

 「そうですか、それは気の毒に。でも、お前さんが、なぜ死ぬ必要があるのです?」

 沖田昇平は続けて話し始める。彼の体にビビはすり寄っている。ビビは昇平を余程気に入っているのか。それとも、もう死んではいけないよ、と言っているのか。そんなビビを見て、

龍作は戸惑いというより、にっこりと笑っている。あのはにかみやのビビが・・・と思うのだった。

 「それで?何があった?」

 「恥ずかしいことなのですが、私は何も出来ない愚かな男なのです。いつもへまぱっかりやっているんです。いや、本当なのです。情けない男なんです。私には弟がいますが、弟の昌美は賢くて、学校の成績は学生の頃からずっと一番でした、そうなんです、小学校からずっと一番なのです。それに比べ、私は学校の成績も悪く、大学には行けませんでしたが、弟は東京のりっぱな大学に行き、とりあえず大きな会社に入りました。何とかという建築会社です。ぶらぶらしている私なんかよりも、りっぱな生き方をしています。他人は、そんなことでどうする、お前、兄さんなんだろ、と。もっとしっかりしなさいという。しかし、どうしようもないのです。持って生まれた才能のようなものなんでしょうか」

 龍作は腕を組み、湖の傍にある大きな石に座り、聞いている。さらに話をするように要求した。

 「私は長男です。沖田家の家系はその昔からずっと長男が継いできました。本来なら、家の資産は私に継がせるべきなのです。でも、私がこんなんだから,父の喜之助は、昌美に継がせたいようです。直接聞いて確かめたわけではありません。父の日頃の態度で、それが分かります。だから、私は自暴自棄になり家ではふてくされた態度を取り、ついに私は家を出る決心をしました。ええ、家政婦の水田明美とです。彼女は高校を卒業すると、すぐに沖田の家に家政婦としてやって来ました。十八歳の女の子でした。すごく勇気が入っただろうと思います。私はそんな明美といつの間にか恋仲になり、付き合うようになりました。よく働く女です。ああ、私と明美の間には子供がいます。つい六か月ばかり前に生まれたばかりです。家族を守るには、家を出る、その方法しかない、その方がいいと思って、家から出る計画を立てたのです。明美も納得してくれました。そんな時、九鬼龍作から、金の斧を頂戴するという告知が届いたのです。もちろん、父は警察に知らせ、金の斧を守ってくれるように依頼したのですが、あっさりと盗まれてしまったのです。」

 龍作は笑みを浮かべた。

 「だが、金の斧が盗まれたことで、なぜお前が死ななければならいのだ?」

 「それは、私に原因があるんです」

 九鬼の目が鋭く反応する。

 「それが・・・さっきも言いましたが、私のへまをしたから、金の斧が盗まれたと言っていいのです」

 九鬼には、ことが容易く運んだことに内心驚いていたのだが・・・。金の斧は警察によって厳重に警備されていた。そんな状況を、九鬼はよく知っている。九鬼は警備が緩む瞬間を待つことにした。待つことには、彼はいつも慣れていた。三時間ばかり経ったか・・・。

 「ああっ、助けて・・・」 

 家の中で、悲鳴に近い叫び声が響いたのである。その悲鳴の主は、

「私です」

 昇平だった。十数人いた警官がざわつき始めた。みんな何が起こったのか、互いに顔を見合わせている。

 「奴だ、九鬼が現れたんだ」

 そういう結論が浮かぶのは、誰の目にも当然だった。

 「来た!この時を、待っていた」

 と龍作は思った。結果として、龍作は金の斧を難なく手にすることが出来たのである。

 (そうか)

 「何だった、その悲鳴は?」

 昇平は涙を流しながら、

 「その日の夜は、カレーだったんです。家政婦の水田明美が風をひいて寝込んでいたのです。彼女の代わりに、私が作り始めていたのです。ああ、私がいけなかったんです。彼女の熱が三十八度を超えていて、明美が心配だったんです。」

 と、肩を落としている。

 昇平が言うには、油で肉を炒めている時、不注意でフライパンごとひっくり返してしまったようだ。おまけに、油を入れ過ぎ、フライパンの油はガス台の中に落ち、火が上がった。

 結果として、そんなに炎は上がらなかったのだが、警備の警官を巻き込み、ひと騒動あった。その時家にいたほとんどの人間がキッチンに集まったことになる。

 一番怒ったのは、沖田喜之助氏で、

 「また、お前か。へまばっかりやってるな。こんなことでは、やはり、この家を継がせるわけにはいかんな。だから、お前はみんなから馬鹿にされるんだ」

 というと、呆れて何処かへ行ってしまったという。

 この時、誰もが、金の斧の警備しているのを忘れていた。急いで戻ってみると、案の定、金の斧はなかった。

見事というか、九鬼龍作にしてやられたことになる。

 警備の警察官たちはざわつき、家の周りを捜査し始めた。肝心の金の斧が亡くなった以上、九鬼龍作が近くにいるはずが無い。

 「待て、慌てるな。誰か怪しい奴を見なかったか?」

 賢明な警部補は命令を出した。みんな互いに見合ったが、誰も、見たという返事はなかった。

 龍作が神出鬼没の盗人なら、今更騒いでも近くにいるはずが無い。しかし、実際金の斧は無くなっているのである。誰かが盗んだのだ。奴しかいないのだ。

 「探せ、探してくれ。警察は何をやっているんだ」

 沖山喜之助氏は怒鳴りちらした。人のいい喜之助氏であるが、一旦怒り出すと、手がつけられない。このままでは、警察の面子はない。町の実力者の一人だから、警察は必死だった。そして、最後には、長男の昇平が餌食になった。

 「絶対に、金の斧を見つけて来い、九鬼龍作という奴から奪い取って来い。それまではこの家に帰って来るな。この家から出て行け」

「そういう訳です。一人で出て行くつもりでしたが、私に同情して家政婦の水田朋美も一緒に行きますというので、今も同じにいます。子供ももうすぐ生まれて来ます。実は、その頃明美のお腹には子供がいたのです。だから、家に残しておくわけにはいかなかったのです」

 龍作は笑みを浮かべた。というのは、沖田の家に盗人に入る前、大きな家電センターで若い男女を目にしていた。女は赤ん坊を抱いていた。

 龍作はこの二人を目にしていた。二か月ほど前の非常に暑い日だった。

二人がいたのは、エアコン売り場であった。

若い男は女と何やら話していた。龍作は何を話しているのか気になったのだが、それよりもエアコンよりも冷風機の前でいる二人が余りにも初々しい姿に、龍作は惹かれた。

 龍作は表情を崩している。

 女は多分水田朋美だろう。男は言うまでもなく沖田昇平だ。エアコンではなく、想像するに、どうやら冷風機を買うかどうか迷っているように見えた。とてもエアコンを買う余裕などないのだろう。

 この後すぐ龍作は、その場を後にした。だから、二人が冷風機を買ったのか買わなかったのか分からない。


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