生きる意味を探して

ao

短編

 唐突に、生きる意味が分からなくなった。

 起因となる何かがあった訳ではない。


「どうして、わたしは生きているのだろう?」


 日本だけでも年間、おおよそ数万人が自分の命を絶つ。

 その理由は、人それぞれだ。

 今から足を踏み出すであろう屋上から下を覗き見れば、沢山の人が行き交っている。

 幸せそうに手を繋ぎ歩く親子。せかせかと歩を進めるサラリーマン。杖を突いた白髪の老人。指を絡め手を繋ぐ恋人たち。

 誰もが必ず帰る家があり、最終的にそこへたどり着く。


「わたしには、そんな場所ないけど」


 脳裏を過ぎ去る家の情景に、感慨もなく息を吐き出した。白く濁った色の吐息が、今はまだ生きている事を教えてくれる。


 大好きだった母以外の家族全てが、赤の他人と同然だ。

 自分勝手な実父は、新年の挨拶に電話しただけで二度と連絡するななどと言い捨てた。片方――父親しか血がつながらない兄と姉二人はわたしよりも十も上で、家を出てからは一切の連絡を取っていない。


 そして、義父はモラハラを繰り返す。家に居ても無視され、自分の子供しか可愛がらない。例え同居しているわたしが死ぬかもしれない大病をしていようと、可哀想なのは我が子と言い切るほどだ。


「生きる意味って何?」


 再び浮かび上がる疑問に、死んだ魚の眼をしたいるであろう瞳を空に向ける。

 無気力、怠惰、何をやっても人より劣るわたしが生きる意味は…………ない。

 そう考える度、頭の中で何度も自分を殺す。早く死にたいと願う。

 だが、それと同時に悲しむ母の顔が浮かぶ。

 ここから飛び降り死ぬ勇気のないわたしには、頭の中で飛び降りた気になる事しかできない。


 突然の強風に煽られ、十五階建てのビルから身体が落ちる。

 恐怖にかられ、ギュッと目を閉じ思い出したのはやはり母の顔だった。

 そして、意識が途切れる間際に見えたのは、色めくヘーゼルの瞳でわたしの頭を撫でる男の人だ。

 彼はわたしを『ユーリ』と、呼んだ――。




 腐敗臭と鉄さびが混じった匂いに嫌悪感を感じた。死んだはずなのに、匂いを感じる事に不安を覚え開くはずのない瞼をあける。

 見える一面に、自分の記憶にない緑色の肌をした生物と人と思われる死骸が広がっていた。


「な、に、これ」


 余りのおぞましさに、声は掠れ、胃から込み上げる吐き気に嘔吐を繰り返す。


「ギギャギャー」


 そば近くで何かが鳴く。ベチョ、ヌチャと音を立てそれはわたしへと近づく。

 とっさに逃げなければ、と頭は理解していても身体はガタガタと震え、自由を失ったかのようにその場から動くことが出来なかった。

 棍棒のような棒を振り上げる緑の何かは、黄ばんだ牙を見せ笑むとその棒を私の頭目掛け振り下ろした。


 ――あぁ、やっと死ねる。これで、終われる。


 直ぐに届くであろう死への痛みに耐えるように瞼を降ろす。

 せめて、死に際の姿だけでもまともであるように。


「…………?」


 いつまで待っても来ない痛みに、どうしたのかと不安になりながら薄眼を開ける。緑色の何かは、

「ハァ!」と気合の入ったテノールボイスと同時に「ギィー!」と言う叫び声をあげ、パタリと倒れた。


「はぁ、はぁ、×××××××!!」


 乱れる息で、剣を握った男の人がわたしの肩を掴み何かを問いかける。彼は必死の形相でわたしの前後をぐるりと回ると大きく息を吐き出した。


「××、××××」


 何を言われているのか全くわからない。けど、その優し気な瞳や大きな手で頭を撫でる仕草にわたしは知らずに安堵した。

 彼が撫でるのに合わせ、揺れる身体。早鐘を打っていた心臓はいつの間にか穏やかになり、こわばった身体はどこか力が抜けている。


「×××ー! ××××!」


 大きく息を吸い込んだ彼が大きな声で、何かを叫ぶとさっとわたしを抱き上げる。人生初のお姫様抱っこは、温かみを感じた。

 そこで、わたしの意識は途切れた。

 

 ゆらゆらと心地良い揺れに、ふと意識が浮上する。

 夢うつつでうっすらと瞼を開けば、優し気に細められた琥珀色の瞳がわたしを見ていた。ゆっくりと髪を梳かれる感覚に、また眠気がぶり返す。


 どうして、わたしなんかにそんなに優しくしてくれるの? と、問いかけようとした言葉は中途半端に途切れる。


「××××、××、××××」


 瞼が下りる刹那、薄い唇が動きかすれた音を出した。


 ヘーゼル色の瞳をした男の名前は、カイザックと言うらしい。

 名前だと思った理由は簡潔で、馬車の中や移動した先の街で行った建物で彼を皆がカイザックと呼んでいたからだ。

 わたしの引き取り先については、幾つか候補があったけどカイザックの元でお世話になる事になった。


 共に生活を始め直ぐに言葉での意思疎通が難しいと知ったカイザックは、行動でわたしへ意思を示してくれるようになった。例えば、食事の場合はカトラリーを使う仕草。お風呂の場合は、頭を洗う仕草をする。こうして、どうにかこうにかわたしたち二人は意思疎通を行っていた。






 カイザックはわたしの事をユーリと呼び、わたしは彼をカークと呼ぶ。この半年で少しだけ言葉を学んだ。発音は英語に少し似ている気がする。

 教えてくれたのは、カークとギルド職員さん――主に美人な受付嬢ミミリアさんだが――たち。彼らは、仕事の合間に色々と教えてくれた。この国の状況や魔物のこと、通貨や宗教についてなどなど。


 そんな面倒見のいいカークだが彼は、元伯爵家の三男で成人と同時に家を出て冒険者になったらしい。歳は二十六歳で独身。この世界の結婚観念から言って行き遅れの類だそうだが、本人にその気はないようだ。


 カーク自身はイケメンとまではいかないけれど、それなりにモテる顔立ちをしていると思う。なのに好きな人もいないようで、ギルドで声をかけてくれる女性に対して素気無く対応している姿を見るともしかしてそっち系? と疑ってしまいたくなる。だからと言って、直接聞く勇気はないけど。

 彼は仕事で遠出する以外は、毎日日の出と共に家を出て陽が沈むと帰って来る状態だ。


 性格は心配性の世話焼き。ぶっちゃけ、ここ最近は心配性と言うより過保護と言った方が正解なのかもしれないと思う。

 原因は、この家に暮らすようになって直ぐの事だ。

 冒険者をしているカークは、仕事に行こうとしなかった。大丈夫なのかな? と不安を覚えながらもカークの存在に安心感を覚えていた。


 そんなある日、わたしを拾った時の状況などの報告がカークから上がらない事にしびれを切らした冒険者ギルドのマスター――クレールさんが家を訪れる。

 そこで何某か話あった二人は、突然取っ組み合うと大きな声を出し始めた。吹き飛ぶ家の残骸に怯えながら、わたしは涙目で頭を抱え隅へと隠れる。


 そうして暫く破壊音が続き、静寂が訪れ顔を上げたわたしとクレールさんの目が合った。気まずそうに逸らされる視線に、びくりと肩が震える。助けを求めるようにカークの方を見れば、大きく目を見開いたカークが悲し気な表情でわたしを見ていた。


 頭をガシガシと掻き、ふぅーと大きく息を吐いたクレールさんに対して、カークは、足早にわたしへ歩み寄る。

 はじけ飛んだ木片や石をジャリと踏みしめ目の前に立つと、情けないほど眉を下げおもむろにわたしの目尻を指先で撫でつけた。そして、震える肩へと手を伸ばしたカークが、身体ごと抱き寄せ――『怖い思いをさせてごめん』――と呟いた。


 その後、騒ぎを聞きつけたミミリアさんが、この惨状を見て二人に雷を落とし、何事か宣言――言葉が判るようになって確認したのだが『家をもとに戻すまで、わたしとの接触を禁止する』と言ったそうだ――する。

 家が元に戻るまでの三週間、わたしはギルドにお世話になった。


 約束通り家を元に戻したカークは、わたしとの接触禁止が解除されるなり大泣きながら抱きしめる。私はと言えば、カークと会っていないという気が全くしなかったため、微妙な心持こころもちだ。

 だって、カークってば毎日ギルドに来て何か叫んでたし、扉の外でユーリって毎日呼んでくれてたから。

 とまぁ、こんな感じの事がありカークが過保護であると言える。


 彼と過ごすようになってわたし自身にも変化が訪れている。自分を理解してもらうためハッキリとした喜怒哀楽を示せるようになり、この世界へ来た当初に比べて死にたいと思う事が本当に少なくなった。

 未だ母への思いは在るけれど。わたしは、この世界へ来られて少なからず幸せだと思える日々を送れている。

 それはきっと、この世界の人が優しいからだ。


「ユーリおはよう。今日の仕事は休みだから、食料とかを纏めて買い出しに出かけよう」


 琥珀色の瞳を細め清々しい笑顔でリビングへ現れたカーク。そんな彼に、不慣れながらも笑顔を作り朝の挨拶を返す。


「オハヨ、カーク。ノムモノ」


 食卓についたカークの前に、朝食兼昼食を並べ飲み物を渡す。

 カップを置いたカークは、食前の祈りを捧げガツガツと食べ始めた。折角のイケメンが台無しに見えるほどの食べっぷりに最初は驚いた。

 カークが言うには身体が資本の冒険者は、男も女もみんなよく食べるそうだ。確かにそうだろうけど、カークの場合は食べ過ぎだ。毎回食後に、お腹がポッコリ出てるから。


「ふぅ~、食べた。美味かった。ユーリ、ありがとう」


「ウン。ヨカタ」


 ちょっとしたカークの言葉に、わたしは救われている。一生懸命した行動に対して、彼は必ず『ありがとう』と言ってくれる。ただそれだけの事だけど、家にいたあの頃にはもらえなかった言葉だ。だからだろうか、ありがとうが魔法のように心を温かくしてくれた。


「そうだった。ユーリ、しばらくは一人で街に出るなよ? 必要なものがあれば俺が仕事帰りに買ってくるから、家にいてくれ」


 食器を運びながら、思い出したように告げられた言葉にわたしは首を傾げる。

 

「ナニ……えーっと、アッタ?」


「あー、うーん」


 言い淀み悩んでいたカークが顔を上げる。わたしの眼と視線を合わせ、ジッと何かを探るように此方を見るとふぅーと息を吐き話してくれた。


「まぁ、ユーリにはちゃんと話しておくべきか。実はな、教会が黒髪の子供を探しているらしい」


 十六歳のわたしからすれば、子供と言う部分に引っかかりは覚えるけどここは素直に頷いておく。

 それにカークが言う黒髪はわたしには当てはまらない。わたしの髪は母親の色合いが強く、日本人にしては茶が強い。


「ソー。ん~と……ワタシ……クロ、チガウ。だ、だからね、ダイジョブ!」


 両手を握り、本当に大丈夫だとアピールしてみる。それを見ていたカークはフッと吹き出すと苦笑いを浮かべた。


「まぁ、そうなんだがな……。ユーリの髪は、見ようによって黒に見えるからな。勘違いされて教会に連れていかれないとも限らないだろ?」


「確かに……ソウ、ダね」


「だから、この騒動が落ち着くまで暫く外出を控えて欲しい」


「ワカッタ。ヤクソク、スル」


 心配性なカークと視線を合わせ頷くと大きな手が頭をワシャワシャと撫でる。安心する心地よさに、わたしも知らずの内に笑顔になっていた。




 部屋の気温が高くなる時期が着て、あぁ夏だなと感じるある日。

 カークが居ないこの時間に、どうしても外へ買い物に行きたかった。

 なぜなら昨日たまたまミミリアさんに、一週間後の八ノ月の三水ノ日――八月の第三水曜――がカークの誕生日だと聞いたからだ。わたしとしては、日頃の感謝を込めてカークにプレゼントを用意したい。

 

「カークにバレたら怒られるだろうけど、うん、やっぱ行こう。お金は、掃除のバイトしたやつあるし」


 カークを送り出してから悩んでいたわたしは、目深にコートのフードを被ると玄関を開けた。向かうのはマルシェの近くにある繊維屋だ。出来る限り人通りの多い場所を通り、赤と白のローブを来た人を避けて街の南にあるマルシェへ向かう。

 独りで歩いているだけで、心臓はドキドキと五月蠅い。その上、この世界の人は皆わたしよりも背が大きいせいか圧迫感を感じた。


 怖い、怖い。どしよう、やっぱり帰ろうかな。でも……カークのあの笑顔が見たい。負けるな、大丈夫。何かあったらすぐに逃げればいい。

 

 恐怖心に負けそうになりながら、自分を奮い立たせ挙動不審にならないように気を付けて歩いた。

 家を出てかなり長い時間歩いた気分になったころ、漸く目的の繊維屋にたどり着く。


「いらっしゃい。何にするかね?」と店主が、わたしの姿を見ると声をかけてくれる。そこでわたしは、当初決めていた通り「えっと、アノ……ハチミツイショ、じゃない、イロノ……ヒモ、がホシイ、です」と伝える。


「はちみつ色の紐ね。少し待ってな」


 希望する色がある事を祈りながら待つこと数分。漸く店主が「はちみつ色の紐って言うのが、一応この辺りだよ。お嬢ちゃんの気に入るのがあればいいけどな」と、十五本ほどの色紐を持って戻った。


「アリガト……、うーん。これはオレンジ、こっちは朱色?」


 店主が見せてくれた紐の中で、黄色みが強いながらも薄いベージュのような色合いの紐は、まさにカークの瞳によく似ていた。そのため思わず指差し「あっ!」と声をあげてしまう。そんなわたしの様子に店主はくすりと笑い「これでいいかい?」と聞いてくれた。


「ソレ、を……十、ジュウニ、ホシイ」


「はいよ。お代は、おまけして銅貨で十六枚だよ」と言う店主の言葉に、ゴソゴソと首から下げた袋を漁り銅貨を十六枚数えて渡す。

 買った紐をポケットにしまい、お礼を伝えて店先を後にする。


 次に向かうのは、小さな色ガラスを売る店だ。目深に被ったフードを手で直し、再び緊張しながら慎重に繊維屋から真っすぐ教会方面へ進む。

 カークと歩いた時はものの数分で着いた場所なのに、一人だとかなりの時間がかかってしまった。

 それでもなんとかガラス屋へたどり着き、店先に並んだ銅貨二枚のガラス玉を見ていく。色々な色のガラスが網籠に入れられ所狭しと並べられている。その中で無病息災をイメージするあずき色――小豆粥とか京紫とか諸説ある――に近い色合いのガラス玉を六個選んだ。


 ヘーゼルとあずき色だと少し微妙だけど、このガラスは紫が少し強いからそこまで目立たたないはず。


「スミマセ、ン。えっと、コレ、ホシイ……です」


「はい、いらっしゃい。これですね。銅貨十二枚になります」


 値段を言われ、またもイソイソと袋を漁りお金を渡す。小さな袋にガラス玉を入れて貰い受け取ると店先を後にした。買い物を済ませ、家が見えた途端わたしは気を抜いてしまった――。




 水が床を打ち付ける音に目を覚ましたわたしは、硬い石の上で寝かされていた。


「……っ、いたい」


 起き上がろうとして、お腹が酷く痛んだ。余りの痛さに手で押さえようと動かすが、手足を拘束されいるせいで無理だった。


 ここはどこなの? わたし、どうなったの? 自分の状況を思い描くも頭がクラついて考えられない。不安か恐怖かわからない感情が脳裏を過ぎ去り、心を侵食していく。


「目覚めたか」不意に上がった聞き覚えのない声に、頭を動かしそちらを見れば教会のローブを着た厳つい男がわたしを見ていた。


「アナタ、ハ……だ、誰?」


 未だ働かない頭で男へ質問をなげかければ、男はフンと鼻を鳴らし蔑んだ目を向け「誰であろうと関係ない。そなたは我らが神への贄だ。その時が来るまでそこにいるがいい」と早口に告げた。


 まるで義父のような男の態度が、目が、理不尽な言葉の全てが、あの頃のわたしを呼び起こし、憤りにも似た思いが一気に膨れ上がる。


「なんで、どうして? わたしが何かしたの? わたしが生きてるのがそんなに許せないの? なんで、なんで、みんなしてわたしの、こと邪魔者扱いするの? なんで、愛してくれないの……やだよ。お母さん、カークっうわぁぁぁあぁぁぁぁぁ」


 きっと言葉なんて通じていないだろう。それでも日本に居た頃、母のために堪えに堪えた言葉を吐き出した。我慢できる限界を超え、わたしの思いは嗚咽となって牢獄に響き渡った。

 泣き叫び疲れ果て、意識を手放した。


 大泣きして目覚めてすぐに女性と思われる人――覆面してるからわからない――が食事を届けてくれる。そのついでとばかりに縛り上げられた縄が解かれ、わたしは自由に動けるようになった。

 不満があるとすれば、窓がないことと食事ぐらいだ。

 正確にはわからないが、多分ここへ来て二週間ぐらいだろう。日に二回ここへ食事を運ぶ人が来る。その回数を考えそうだと思うことにする。

 食事と一言で言ってはいるが内容は最悪だ。パサパサなパンが一個と具無しのスープだけ。それでも食べないよりは空腹がまぎれるので食べている。


 心配事と言えば、過保護なカークのことと生贄にされるらしいこと。

 カークの事だからきっと自分が仕事で家をあけたばかりに、と自分を責めているだろう。もし、またカークに会えるなら今度はちゃんと謝って、許しを請いたい。そして、できることなら側に居たい。

 もう一つの問題である生贄については、情報が何もないからわからない。


 またカークに会うんだという気持ちで、買った紐とガラス玉を使ってプレゼントする予定だったミサンガを作る。実際、誕生日は既に過ぎているだろうけど。

 カークが無事でありますようにと願いながら、六枚の花弁を形作るように紐を一本ずつ編み結びつける。二つの花を作り、ガラス玉を紐へ通す。それを囲むように再び紐を編み結ぶ。後はこれを繰り返し無病息災のミサンガの出来上がりだ。

 これを渡したらきっとカークは、喜んでくれる。大好きなあの笑顔を見たい。その一心で、ミサンガを編み続けた。




 ミサンガが出来上がって二日後、ついに生贄にされる日が来た。

 一回目の食事の時間が終わり、無理矢理脱がされ今までより上等な服――教会のローブを纏わされると顔をベールで覆われた。牢の鍵が開けられ、うっすらと見える視界だけを頼りに歩く。


 捕らえられ思い出した記憶が一つ。

 それは教会の建物は外へとつながるアーチが二か所あると、以前ミミリアさんが教えてくれたこと。

 アーチ位置の一つは正面、一般の人が使う玄関となる場所。そして、もう一つは裏口と呼ばれる教会関係者だけが使う場所。


 逃げるチャンスは一度だけ。うまく出来るのか不安だし、怖い、でも、ここで逃げ出さないと殺される。もし捕まったら、それこそ即座に殺されるかもしれない。

 それでももう一度カークに会いたい。それにどっちに転んでも殺されるなら、少しでもカークに会える方を選びたい。


 気付かれないよう深呼吸を繰り返し、今だけはカークの事を考える。

 裏の入口がもうすぐそこまで迫ったその時、わたしは一気に外へ向かい走り出した。


「まてー!」「逃げたぞ、追えー」と焦る声が聞こえ、何人かの追いすがる音がする。伸ばされた腕をなんとか振り切り、走る。すぐに息が切れはじめ、運動不足がここにきて祟っている。それでも、走れと身体に鞭を打った。

 外へとつながるアーチを抜け、通りに出ると冒険者ギルドの建物を目指した。

 流れる視界の端に、冒険者の一団らしき武装した男女を見つけ、その一団の中へと走り込む。

 ドンと勢いよく中心に立っていた人にぶつかり、巻き込む形で倒れ込むと痛みを感じる余裕も無く、頭を上げ片言で「タスケテ、ギルド、カーク」と荒い息遣いながら叫んだ。


「……っ、ユ、リ? ユーリなのか?」


 掠れた声は疲れているのか、普段より低かった。

 恐る恐る伸ばされた手が、汗で張り付いたベールを取る。

 視界がクリアになるとそこには、隈を作った顔でヘーゼル色の瞳をこれでもかと見開いたカークがいた。


「カーク、カーク、ご、ごめんなさい。勝手に、いなくなって、ごめんなさい」


「あぁ、ユーリ、ユーリだ。ユーリが戻ってきた」


 両手を広げわたしを抱きしめたカークが、嗚咽混じりに何度も何度もわたしを呼ぶ。わたしもまたカークを抱きしめ彼の名前を呼ぶ。再び会えた喜びを互いのぬくもりを感じながら伝えあう。

 そんなわたしたち二人を引き裂くように「その娘を渡せ!」と、教会からの追走者が声高に叫んだ。その声にカークがわたしをお姫様抱っこして立ち上がる。周りの冒険者たちも武器に手を添え、わたしたちを背に守るようにして教会の関係者の方を向く。


「き、貴様らが、俺のユーリを攫ったのか?」


 これまで一度たりとも聞いた事が無いドスの効いたカークの声に、ビクっと肩が震える。怯えているのが判ったのかカークが「ユーリ、俺を信じろ」と耳元で優しく囁くと、毅然とした態度で相手を見据えた。


「その娘は、我らが神の贄となるべき娘だ。今すぐそれを返すがいい」


「はん、何が神の贄だ。お前らは、神に仕える神官などではなく、ただの人攫いだ! ハンズ、見回りの兵士を呼んできてくれ。それから、フィル、すまんがギルマスを頼む」


 当然のように贄と言い切る神官を、カークが憤り非難する。「おう」と答えた冒険者の人が出来た人垣をかき分け二人走り去った。

 

「冒険者風情が、崇高なる神の信徒に逆らうか!」


「神の信徒だからと何も知らない少女を生贄にすると言うのか! そんなもの人殺しと一緒だろう! 彼女が望んだ訳じゃない!」


 馬鹿にしたような態度を取る神官に、カークも果敢に応戦する。


「ふざけるなっ! その娘の髪を見ろ。黒い髪は悪魔付きの証だ。だからこそ有効活用して何が悪い!」


「髪が黒いだけで悪魔付きか……、教会とは、くだらない集団だな」


 互いに一歩も引かず言い合いが続き、ついに熱り立った神官が、剣を引き抜き剣先をこちらに向けた。それに応えるように、冒険者たちも得物を抜く。

 一瞬の緊張ののち複数の足音が近づき、睨み合う双方の間に全身鎧の兵士が慌てたように割って入ると「待て! 街中で武器の使用は禁止されている。双方武器を収めよ!」と告げた。

 渋々と剣を収める両陣営に兵士は僅かばかり顔を緩ませ、事情聴取を始めた。そこへ呼び出されたクレールさんが、息を切らして駆けつける。そして、開口一番「カーク、状況説明を頼む」と言った。それに答えカークが状況などを説明すると、その場に居たわけでもないのにクレールさんが憤り、事情聴取中の教会側へと片腕を振り上げ突っ込んでいった。

 そんなクレールさんの姿にカークと顔を見合わせ、くすりと笑い合う。




 その後、今回のことをきっかけに冒険者ギルドと国が協力して教会を調べあげた。一年間の調査で、これまでに教会が何人もの生贄を神にささげていたことが判明し、髪や瞳の色だけで差別するような教えを説いていた事実が明るみに出た。

 更に半年後には孤児やスラムのひとたちのために集められた王侯貴族や商人などからの寄付金を、上層部が着服、横領していたことが判り国民の反感を買うことに。そのためこの国の教会は、真面に運営されている善良な教会以外全てが取り潰しになった。


 私はと言うと事件をきっかけにカークが側を片時も離れなくなり、クレールさんの要望で仕方なくカークと一緒に冒険者を始めた。そうは言っても、過保護なカークがわたしを戦わせてくれるはずもなく、ただ付いて行って安全が確保された拠点でカークの帰りを待ち、カークの食事の世話をするだけ。


 そして、今日もまた――


「ユーリ、いいか? 部屋から出るなよ? 夕方には帰るから、それまで大人しくしててくれ」


「ワカッテル。イッテラッシャイ」


 軽く返すわたしにカークはずいっと顔を寄せ腰に手を当てるとワザとらしく溜息を吐く。


「はぁ、本当にわかってるのか? ユーリ、お前はな、美人なんだぞ? しかも、身体つきも女らしい。そんなお前が一人で外に出れば、いつ不埒者に何をされるかわからんだろ? だから、ぜぇぇぇぇぇったい、部屋から一人で出るなよ?」


 美人と言われ顔に熱が集中する。それを隠すように首を縦に振り、カークを仕事へ送り出す。未だ何か言いたそうな顔をしていたカークがくしゃりと笑い「いってくる」と、無病息災のミサンガを着けた左手でわたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。




 意見が食い違いケンカらしきものもするけれど、カークとは一年半経った今も仲良くやっている。

 カークを想う気持ちは、ずっと前からわたしの中にあった。それに気付いてはいるけれど、今はまだわたし自身が生きる事に手一杯で伝えていない。

 死にたいと願っていたわたしが、生きるために必死になるなんて滑稽だ。それでもカークと過ごす日々が、わたしの生きる意欲を呼び起こす。


 来年、新しいミサンガを作ったら――その時こそ――。

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