少年だった頃
七海美桜
第1話 少年
今日の相手は、毎週水曜日に連絡をしてくる男だった。場所は、決まって男同士でも入店できるラブホテル。行為が終わると、自分を買ったお金を貰い足早に部屋を出ようとした。
「待ってくれ」
その日、いつもの様に先に部屋を出ようとした
「…何?」
イラついた声を出した葵は、冷めた目で男を見返した。
「もう、こんな…お金のやり取りで会うんじゃなく、付き合わないか?相性いいと思うよ、俺達」
男は葵の機嫌を取る様に、笑みを浮かべた。葵は腕を振り払うと、男に背を向けて部屋の外へ向かう。
「一時間、一万五千円。それだけの関係だよ」
吐き捨てる様に言うと、葵は夜の繁華街に足を向けた。冬の繁華街は、ネオンが綺麗だ。明け方の冷気の中、自分が吐く息が白い。薄暗い路地を歩いながら、田舎で育った葵は初めて都会に出てきた時の事を思い出した。
母親が再婚したのは、中学二年の頃だった。新しい父親との生活は、最初は上手くいっていた。しかし彼は次第に本性を現しはじめた。酒癖が悪く、酔うと母に手を上げる事が多くなった。その母を庇う葵も、容赦なく殴られた。そうして、そんな毎日が続く中、母は葵を置いてパート先の男と逃げ出した。思えば、母は男癖が悪かったのだ。
残された葵と義理の父。母が逃げたその夜、その義理の父はいつもの様に酒を飲み、嫌がる葵を無理やり犯した。痛くて屈辱で情けなくて、葵は行為が終わり寝ている義理の父を残して家を出た。持って出たのは、少しの着替えとスマホと、こっそり貯めていた三万円が入金されている通帳と印鑑だけだ。
鈍行を乗り継ぎ、ようやくここまで逃げてきた。学校も生まれ故郷も捨て、葵は自由になった。幸い母が買ってくれていたスマホは、引き落とし先を変えて使えた。生きる為の仕事を探そうとしたが、未成年で家出の葵を雇ってくれる所はない。そうして、葵は義理の父の様に若い葵の体を欲する男たちに自分を売った。
スマホがあれば、簡単に客は見つかった。寝るところは、ネットカフェで十分だ。
生きている意味も分からないまま、葵は毎日自分を売って生きている。
「おはようございます」
そう声をかけられたのは、毎朝訪れるファストフード店のモーニングを食べている時だった。時間的にはモーニングだが、葵にとっては夕食に近かった。
自分に声をかけてきたのは、にこにこと愛想のいい笑みを浮かべている同じ年くらいのニット帽をかぶった制服姿の少年だった。
「…おはよう」
そういえば、こんな普通な挨拶をするのは随分久しぶりな気がしていた。自分を買う男か、何処かの店員くらいとしか喋っていない事を思い出す。
「よくここで見るなって思って、良かったら一緒に食べませんか?」
「え…?別に、いいけど…」
にこにこ笑う少年は、
「僕、最近毎朝病院に行かないといけなくて。容体が良いとこれから学校に行ってるんです」
食欲がないのか、少年は牛乳とポテトしか頼んでいないようだった。
「病院?どこか悪いのか?」
保険証のない葵は、病院に行けない。にこにこと笑っている少年は、素直に頷いた。
「癌なんです。ステージ3の悪性腫瘍なので、もう長くないと思います」
陽太は、ニット帽を頭から取る。癌の薬の副作用なのか、陽太には毛髪がなかった。出会って初めての人に、もうすぐ死ぬと笑って言う陽太を、葵は唖然と見つめた。
それから、頻繁に葵と陽太はその店で会う事になった。葵のつまらない毎日に、陽太は大きな変化をもたらした。誰かと何げなく話すという事が、人生に意味をもたらす事に気が付いた。
陽太は、葵を自分の家にも連れて行った。母親は陽太の笑顔に喜び、葵を歓迎した。陽太から葵の話を聞いていたようで、葵が『家出少年』だと気付いているようだが、陽太が喜ぶ姿を見たい親心か何も言わなかった。陽太と同じように、葵を大事にしてくれた。
しかし、日に日に陽太の姿は弱ってきた。食べ物も喉を通らなく、服が大きく感じるほど痩せた。陽太の母は、三人でお茶をしている時よく泣いていた。「泣かないで、お母さん」と、陽太は困った様に母に声をかけていた。
陽太は、本が好きだった。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を特に気に入っていて、葵にも勧めていた。就学を途中でやめた葵は読めない文字も多いからと断ると、絵本も出してきた。その影響で、葵は自分の事を『ジョバンニ』と呼び陽太を『カムパネルラ』と呼び合って遊んでいた。
そんな陽太に、葵は水曜の男と会っているのを見られた。繁華街だったから、男が必要にキスをしてくるのも追加料金を貰う事で許していた。それを見て凍り付いている陽太の姿を、葵も息が詰まる思いで見返していた。
次の日、いつもの様に店にいる葵の許に陽太は来た。葵は、自分が男に体を売っている話をしなかった。そうしなければ生きていけないことを。黙ったまま、二人はハンバーガーとポテトを食べた。
「葵、うちに来てよ」
ポテトをほとんど残した食事が終わると、陽太は病院にも学校も行かず家に葵を連れ帰った。
「僕、葵が好きだよ。だから、昨日はとても辛かった」
陽太の部屋に入ると、彼は小さくそう呟いた。葵は驚いてその顔を見つめた。
「あの店で、ずっと葵を見てて、あの日ようやく勇気を出して声をかけたんだ。死ぬ前に、葵と仲良くなりたかったんだ」
「……だったら、死ぬとか簡単に言うなよ…っ!」
葵は、涙を流して陽太を彼のベッドに押し倒した。軽くなってしまった陽太はたやすくベッドに倒されて、困った様に笑って葵を見上げた。
「ごめんね、でも本当に僕はもう死ぬんだよ…」
葵は、それ以上聞きたくないと陽太にキスをした。困った笑顔だった陽太の顔が、嬉しそうに赤く染まる。
「なら…最後まで、傍にいるよ。カムパネルラ」
葵の言葉に、陽太は嬉しそうに頷いた。
「有難う、ジョバンニ」
春が来る前に、陽太の容態は急変した。陽太の母から連絡を受けて病院に向かったが、この冬の最期の雪の降った朝に陽太は死んだ。
病室に到着した時、もう陽太は目を開けなかった。病室で泣いている彼の母とそれを支える父の姿を横目に、葵はゆっくり陽太の傍らに立った。その冷たい頬を撫でると、ゆっくり悲しみの気持ちが溢れてきて葵は動かない陽太の体に縋りついた。
「俺を置いて行かないでくれよ…!陽太!!」
しかし、いつもにこにこ笑っていた陽太は、その笑みを二度と浮かべる事はなかった。
陽太の葬式の日、訪れた葵に陽太の両親が一冊の本を差し出した。『銀河鉄道の夜』だった。
「陽太が、自分が死んだら葵君に渡してくれって言ってたの。貰ってくれる…?」
二人でよく読んだそれに、葵は涙を流した。
「有難うございます、大事にします」
頭を下げてその本を受け取った。見開きの最初の一ページ目に『僕のジョバンニへ』と、陽太の文字が加えられていた。
葵は、自分を売る事を止めた。役所に行って自分の身の上を相談して、施設に預けられた。そうして、遅れていた勉強を始めて、高校にも通えるようになった。
普通の少年の生活が始まると、葵は小説を書き始めた。
元気な陽太と葵が冒険する小説。陽太が沢山活躍する話。小説の中でも、陽太はいつも笑顔だった。葵は精力的にその話を書き上げると、その作品に目を留めた出版社に「本にしないか」と声をかけて貰えた。
葵は牛乳を飲むと車に乗り、通い慣れた陽太の墓へと向かった。あれからもう五年経った。しかし、葵の中の陽太は死ぬことがない。元気な姿で彼の小説を彩っていた。読者の少年少女から、応援の手紙もたくさん届く。
自分が彼の許に向かうまで、葵は陽太を書き続けると決めていた。
今日もどこかの誰かが、元気に駆けまわる陽太の本を読んでいる。葵が知っている陽太と同じで、彼はいつもにこにこと笑っている。
形見の『銀河鉄道の夜』の本と、毎朝飲む牛乳。
カムパネルラ、今も君は旅をしてるのかい?君の乗っている鉄道が迎えに来るまで、君を想って書き続けるよ。
僕たちの、『銀河鉄道の夜』を。
少年だった頃 七海美桜 @miou_nanami
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