腐敗の日

ロセ

第1話

 私が目を覚ましたところは、とても埃臭かった。というより何処を見渡しても、真白い砂ばかりだった。現状を整理しながら、おもむろに立ち上がってみると、履いているブーツのヒール部分が砂に飲み込まれて歩き辛い。

 難儀なその砂に一人顔を顰めて、「厄介な砂」と文句を漏らした。それから砂に足をとられて躓かない事を目標として、私は前に進む事を決めたのだった。

 歩きながら周辺を確認したのだけど、本当に見渡す限りが砂ばかりで家やビルといった建設物も見当たらなかった。それどころか植物もこの砂漠のような場所には無いし、この環境に適応していそうな生き物もちっとも見つからない。

 ここが何処なのか知りたくても聞けない状況に私は置かれていた。

 真白い砂ばかりしか目に入らない土地を一人延々と歩いていると、途方も無くて疲労感を覚える。最初も終わりも見えないから、嫌になって疲れてしまうのだろう。その結果、現実逃避へと走りがちになる。簡単なことに私は溜息を漏らしていると、体全体にむずむずとした不快感があるのに気付く。

 なんだろう、と額に手を伸ばして、目の前に手を下ろす。指先には水滴がついていた。水滴と言っても、それは私の汗であまり綺麗なものではないと言えたのだけど。

 それにしても汗なんて久々に見たかもしれない。生理的な現象一つに、私は記憶を馳せていた。

 そして改めて周囲を見渡す。周囲を見渡しながらも、私は足を止めることはしなかった。止まっていても、広大なこの場所全てを見渡せるとは思えない。苦行に耐え忍ぶように、私はひっそりと歩いた。

 何度も足をとられては、足を砂から引き抜くという行動を繰り返す内に、この場所の歩き方が少しだけ分かったような気がした。些か歩行が楽になり、別なことを考える余裕が生まれた。

 高い所からならば見渡すのに良いかも知れないと思い、私は砂山の出来ている場所はないだろうかと辺りを見渡す。と、丁度良い砂山を見つけて、その山の頂上を目指し何度も滑りそうになりながら上った。

 四苦八苦をしながら、やっとの思いで私は頂点へと辿りつけた。

 一つに束ねて後ろ背に流している髪が風に遊ばれて視界にちらついている。片手で髪の毛が視界に入るのを防ぎながら、ぐるりとその場で回ってみた。靴の踵に踏まれた砂がぽろぽろと伝うようにして落ちていく。

 空を見上げて、生き物の姿が無いかを探したけれど、そこにはただ紺色の空が広がっているだけだった。本当に居ないかもしれないわ、と空を見上げたまま、私はそう思った。

 空には今日もあの丸い光の塊が打ち上がっていて、あまりにも綺麗だから長く見ていたいのだけど、直ぐに目が眩んでしまって駄目だった。ひどい時は、頭の中であの光が映像としてちらつくこともある。

 それが正に今の状況で、私は頭を抑えてよろめいた。その時だった。間の悪く、靴のヒール部分が砂地に食い込んで、体が後ろへとゆっくりと倒れ落ち始めていたのだ。落ちたくはない一心で、もう一つの手を前に突き出したけど、そういえばここには摑むものが何一つ無かった。

 従って私は砂の上を勢いよく滑り落ちる事になってしまう。しかも悪いことに加速しながら。これの理由も直ぐに分かった。ここの真白い砂は本当に細かいもので、これといって抵抗が無かった。要するに、何かと衝突するか、もしくは勢いが殺されるくらいの場所に出なければ止まる事は不可能と、そういう話で。

 冷静に思考が出来た頭が憎らしい。自分で自分を憎らしく思って、やっと私の体は止まった。衝突したという感覚は無かったし、何よりぶつかった痛みも無い。

 となると、私は平らな場所に出たのだろう。長い滑走だった。咳き込みながら、砂に両手を突いて起き上がる。胸の部分までパックリと割れた黒い服と、足元まである白いスカートは砂にまみれていて散々だった。

 服に付いた砂を手で叩き落として、馬鹿をやってしまったわと一人恥ずかしい思いに駆られる。

「お嬢さん、怪我はしなかったかい」

「はい、大丈夫……」

 返答しかけて、思考がぴたりと石のように固まった。怪物と出くわしてしまったかのように、不味い気持ちになる。どくどくと器官が「振り向くな」と唸り声を上げる中、私は気付いた時には既に後ろを向いていた。

 けれど目線の先に親切に声をかけた何かは居らず、首を傾げて視線を下へとずらした。そして一番に私は自分の眼を疑った。疑う他に方法が無かった。

 だってそこにはガスマスクを被った首が無造作に転がっていたのだから。


 ・

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 転がっていたのは濃い緑色の下地に、口の部分は三つに枝分かれした筒状になっているタイプのガスマスクだった。目の部分は大きな丸になっているのだけど、こちら側からではガスマスクを被っている主がどんな顔をしているのかさっぱり分からない。

 けれどどうしてこんな所にガスマスクが。不審に思いつつ、そのガスマスクから私はすっかり目が離せなくなってしまっていた。じいっとガスマスクを半ば呆けて観察していると、「どうかしたのかな」と先程の厳かな声が響く。

 声の低さからして、性別は男性だろう。

 だけどもその声の主が何処にいるのか、私は周囲を探してみたがやはりそれらしき姿は無い。目の前のガスマスクを除いては。自分がどれだけ愚かしい事をしようとしているのかに私は馬鹿らしいと思いながらも、目の前のガスマスクに対して話しかけた。

「あなたが喋っていらっしゃるのですか?」

 期待はしていなかった、むしろ冗談であって欲しいと私は願っていたのだから。しかしそうした私の願いというのは、いつも裏切られる方向にあるらしかった。 

「いかにも。……ああ、今の私の見目は怪しいね。お嬢さん、これは諸事情あって……うん? おかしいな、私の眼には君がまだ五体満足で生きているように見える」

「間違いはありません。ですがどうしてそのような事をお聞きになられるのですか?」

 ガスマスクの男性はゆらゆらと揺れ動きながら、尋ね返した私に補足をした。

「それは私の今の現状を一から説明しなくては……、いや私だけにはとどまらないな。お嬢さん、兎に角うんと時間が掛かることなんだよ。まず自己紹介をしようと私は考えているんだが、いかがかな?」

「構いません」

 私が二つ返事で受け答えると、ガスマスクの男性は縦に首を動かした、まるで満足というように。

「素直なお嬢さんだ、たいへん宜しい。私の名前はクィル。以前は生物工学の研究者を務めていたんだが、諸事情で少し研究内容に変更があってね。……まあ、それは後で説明しよう。お嬢さんの名前は?」

 私は名乗ろうとして、心に暗い闇の中でざわざわと蠢く木々を思い出した。誰かに名前を教えるたびに、私はその情景をよく思い出す。心が揺れ動いているとでも表現したら良いのだろうか。

 頭を振って、胸を張った。背筋が良いほうが相手に与えるイメージは良い、と教わったからだ。

「フラーと申します」

「フラー、観測者という意味の名前だね。実にいい名前だ。お父さんとお母さんはとてもロマンチストな方だったんだろう」

 私はガスマスクの男性――クィルが名前を褒めたことに対して、曖昧に微笑んだ。そして尋ねる。

「クィル、宜しければ私に何があったのかをお話して頂けませんか」

「私は一向に構わないよ。しかしさっきも言った様に、時間の掛かってしまう。それでも良いかな」

 静かに頷くと、クィルは「宜しい」と口癖のように呟いた。

「最初に私が何故君に五体満足で生きているのかを尋ねた原因を説明しよう。けどもフラ-、聞くのに疲れてしまったら、遠慮なく言うんだよ。その時は少しばかり休むから」

「分かりました、クィル」

「久々だな、そうやって誰かに名前を呼んで貰えるのは」

 クィルは嬉しそうに声を弾ませて、事の次第を話してくれた。


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「私の脳、記憶領域がまだ生きているなら、あれが起こったのはつい二ヶ月ほど前だった。ひどくのんびりした日で、時間の進みも心なしかゆっくりとしていたよ。私はその時研究所で新しい作物の研究を行っている仲間たちと昼飯を食べていた時だったかな。大手の病院に入院しているお年寄りと新生児全てが突然未明の病気にかかったという報道がされたんだ」

「未明の病気……?」

 首をかしげながら私は聞き返すと、クィルは不思議そうな声で尋ね返す。

「そういえば君は何も知らないと言うけど、どうしてだい?」

「私にも分かりません。けれどここがいったい何処なのかも私には分からないのです」

「……という事は、君は異邦人か!」

 ぱあとクィルの声が明るく、そしてうきうきとしていた。私が異邦人という言葉を租借している一方で、クィルは「だとしたらフラーが影響を受けていない理由も頷ける。もしかしたら対抗策が見えるかもしれない」とぶつぶつと言っている。

「クィル?」

「ああ、私としたことがつい我を忘れてしまった。すまないね、話の途中だったのに。何処まで話したかな?」

「未明の病気が報道された、という所まででした」

「そうだった。ありがとう、フラー」

 私は言葉を返さず、ただ首を左右に振って見せた。

「未明の病気というのはね、突然自分の体が臓器も含めて、腐敗し始めたんだ」

「腐敗……?」

「そう、しかもこの現象は全員同じ場所から腐敗はしないんだ。当初は同じ病気なのか?という医者の間での話もされたんだが、腐敗した部分が完全に腐敗しきると砂になるという共通点があった。これで同じ病気だと断定されたんだ」

 クィルの話を聞きながら、私は砂、という言葉に反応した。

「クィル、もしかしてここにある砂は……」

「察しが良いね。フラー、君の考えている通りだよ。ここにある砂は全部元は生き物だ」

 ふいに私は自分の座っている足元を見た。真白い砂、それは見ようによっては骨の色でもあるのではないだろうか。しかしどうしてそんな奇怪な病気が流行ったのか。

「……この砂の量、ほとんどの方が?」

「ああ、私にまだ胴があった時には既に人口の八割以上が腐敗化で砂になってしまってたんだ」

 人口の八割が、と声を低くしながら問い返し、クィルは耐え難そうに話を続けた。

「最初に病院で発症した患者は全員殺菌ルームに移されて経過を観察、発症した人たちと同じ部屋だった人たちでまだ腐敗が確認されていない人たちも念のために殺菌ルームに移動した。被害は最小限に留められている筈だったんだ。だけれど水に小石を落とした時に波紋が出来るように、腐敗の症状を訴える人は病院から外、つまり街へと広がって行った。あまりの患者数に一時期は病院のベッドが足りなくなるほどだったし、高名な医者や熟練の看護婦達も次々と腐敗で倒れてね。病院は機能を完全に停止させられてしまっていたし……。研究室で毎日報道される映像を見ては、地獄絵図みたいだと私はよく思っていたよ。腐敗は猛威を奮って勢いを止める事無く、じわじわと人口を減らしていった。人口の四割が減った時だったかな、ここ一帯にある研究施設に政府からじきじきにお達しが来たんだ。この腐敗の謎を調べろ、とね」

 話を聞いて、私は政府の対応が随分遅いと感じた。顔にもそれが出ていたのか、「元首が腐敗にかかって、政治の指揮が取れなかったんだ」とクィルは説明した。

 政治の頂点にさえ腐敗はその力を振るった、そしてこの腐敗という現象こそがクィルの研究変更を余儀なくしたものだろう。国家を揺るがすものだし、当たり前といえば当たり前の処置ではある。

「私たちに下された指令は二つ。腐敗の原因究明、次点に抗体は作れないかという二点だ」

「難しい事を要求されていますね」

「その通りだ、けれどフラー。私たちには断る理由が無かったんだよ。国を救いたいと、友人を救いたいと、どうして研究者が思わないでいられるだろうか。それにあの映像を見て安穏と暮らしていける輩が居たなら、私はその輩を口汚く罵っていただろうね」

 クィルは唾を吐き捨てるようにそう言って見せた。

 私は彼がそういう中で、別の事を考える。彼らに出された指令の二つが完了していたなら、人口の八割も減る事は無かっただろう。ということは完了できなかったという事なのだ。 

「ですがクィル、その指令は現状を見るに達成されなかったのでは?」

 クィルは暫く私のその問いに口ごもっていたのだが、やっとで重い口を開いた。

「またしてもその通りだ、フラー。私たちは指令を遂行出来なかった。こう言ってしまうと、言い訳がましく聞こえるだろうけど私たちに襲い掛かったこの病気、腐敗の性質のようなものは分かったんだ」

「性質…? と、言うと?」

「私は君にどうして五体満足で、と尋ねたろう?」

「ええ」

「そこだ、フラー。私はどうして首だけでこうも君と話せれていると思う?」

 私は首を捻る。クィルの意図とする所を考える為に。

 最初は確かに何故首だけなのかとも思った、他の腕なり、足なりも必要だし、ましてや首だけは生命器官が無いのだから生きることさえ不可能である筈。何故、クィルは生きているのか。

「クィル、あなた方は生命器官を必要としない種なのですか?」

 在り得ない、とは思いつつも、私は尋ねた。可能性を消したいからだ。「いいや、どんな種にも生命器官は必要だろう」とクィルは決して私の問いに笑う事なく、きちんと答えてくれた。

 だとしたら、どうしてクィルは死なないのか。

 いいや、先程クィルはどこが最初に腐敗するのかは全く分からないと言っていた。つまりはランダムに体が腐敗していく。とすれば、真っ先に生命体の生命器官が腐敗してしまった場合、どうなるんだろう。

 死んでしまうのだろうか? けど、それは目の前のクィルの状態と矛盾している。

「また質問ですが、あなた方の種族の生命器官は頭に?」

「いいや、胴にあったよ」

 頭に描いた可能性に黒い横線を引く。誤りだ。だとするなら、結論は生命器官が無くても腐敗に掛かった患者は生きていける。これだ。けど大本の理由が分かっては居ない。生命器官が無くて、どうして細胞は悲鳴を上げないのか。

 更に頭を捻ろうとしていると、「私の仮定を言おうか?」とクィルが助け舟を出してくれた。少し考えたり無くもあったけれど、私は頷く。私はこの人の意見が聞きたかったのだ。

「私は病院にも行って、何人かの腐敗にかかった患者も見たんだ。そこで分かったことは、たとえ生命器官が腐敗によって失われても、私たちは生き延び続けるんだ」

「……、どうして?」

「いい質問だ。私たちにかかったこの腐敗というのは内臓、または肉や骨の全てが腐敗しきるまで死ねないんだ」

「死ねない……、ということは腐敗そのものが、あなた方の全てが腐敗しきるまで生かしているのだと?」

「そうだとしか説明が付かない、実際に私は首とそこにある内蔵だけになってしまったけど生きれているから」

 悲愴をまとって、クィルはそう答えた。

 私はクィルから教えてもらった情報を頭に詰め込んで、整理をしようとしていたのだが上手くまとまらなかった。暫く考え込んでいると、クィルがころんと後ろに転げた。

 顔の部分が天を見て、「もう直ぐ夜になるね」と言って、私もつられて空を見上げたのだが、どうやって夜になるという事が分かったのか全く分からなかった。

「フラー、申し訳ないんだけど起こしてもらえるかな」

「分かりました」

 頷いて、私はクィルの首を持ち上げる。そこで気付いたのだが、首というのは案外軽かった。クィルだけかもしれないし、他も皆そうなのかもしれない。あるいは私もそうなのかしら。

 そのまま私はクィルの首を何処に置けば良いのか迷って、先程のように倒れた時や砂が掛かった時には危ないと抱えたままにした。

「置いてもらって構わないよ、フラー」

「こちらの方があなたの安全を確保できますから」

 そう答えると、クィルはもごもごと口の中で切れ味の悪い言葉を繰り返していたのだけど、「すまないね」と最後にそう言った。「いいえ」と私は簡素に返事をしてから暫くして、クィルが沈黙を破った。

「君に一つ頼みたいことがあるんだ」

「頼み、ですか?」

「そう。夜になると、黄色の大きな星が写る湖があるんだ。小さい頃、両親に手を引かれてその光景を見たけれど、とても美しかった。最後にあの星を見たいんだけど、今の私では到底行けそうに無い。申し訳ないけれど、フラー。私をそこへ連れて行ってはもらえないだろうか?」

 考えて、私はそれに答えることにした。特段害のなさそうな事であったから。クィルの首を抱えたまま私は立ち上がり、砂ばかりのその土地を見渡す。

「かしこまりました、私はどちらに向かえば?」

「それは今の私には分からない」

「ではどうやって?」

「もう直ぐ空に星が見えるんだ。それでどの方角に行けば良いのかを指示するから少し待っていてもらえるかい」

 クィルの言葉に頷きながら、どうして星を見ただけで方角が分かるのかということが不思議でならなかった。私はまた砂の上に腰を下ろしてからも矢張り不思議が消えず、変だと思われるだろうかと考えつつも尋ねる。

「クィル、星で方角は分かるものなのですか?」

「分かるよ、星の中には方位を示す物があるんだ。その星の形とどこを向くのかさえ分かっておけば、簡単に方角を知ることが出来るんだよ。教わらなかったかな?」

「はい」

「それは勿体無いな。君の名前は星にぴったりだと言うのに。そうだ、星の見方を教えてあげよう」

「星の見方……、それは役に立ちますか?」

 私の質問にクィルは上下に動いて、「勿論だとも」と誇らしそうに言った。新しい事を教えてもらえるというのは、私自身忘れかけていた気持ちで。改めて知らない事を学べるのは、こんなにもわくわくするのだと思い知った。

 知っているだろうか、思いだせるだろうか、この懐かしい気持ちを。

 彼は。


 ・

 ・


 星によって湖の場所が分かり目的地へと歩いていたときのことだった。

「そういえばクィル、ここにはどうして建物は無いんですか?」

「中々良いところに着目したね、フラー。これも実は腐敗の影響なんだ」

「腐敗の、ですか?」

 砂の山をクィルの首を抱えて歩くのは、空手で歩くよりも難しかった。滑り落ちそうになっても両手は塞がっているし、クィルを放り捨てるわけにも行かない。

「腐敗はね、どうやらものであれば全部に作用するらしいんだ。そういえば昨日、これは言い損ねていたね」

「では病気ではないのですか?」

「当初は私たちにばかり影響が出ていて、公園の蛇口が砂になっていたなんて些細なことには気を止めていなかったけど、おそらくそう病気というよりは現象と言った方が正しいんだろうね」

 途方もないというようなクィルの声に、私は前を向くしかなかった。悔いている彼にかける言葉を私は持っていなかったのだ。いいや、クィルだけじゃない。誰に対しても私はそうだった。

 学習する機会をみすみす捨てていて、それで正しいのだとそう自分に言い聞かせていた。そうでなければフラーは務まらない。生温い風ばかりで頭が茹だりそうだった。

 馴れ合いをしてはいけない、それが第一の条件で私自身が決めた。

「クィル、」

 名前を呼ぶと、彼が耳を傾けるのが分かった。自分で決めた事を破るのか、と私が叫んでいる気がするけれど、もう私も疲れてしまった。そう返したら何も聞こえなくなった。

 ほら、そうでしょう。もう制限なんてとっくに過ぎているでしょう。

 私は静かに唇を弓なりに上げながら提案する。

「あなたのことを先生と呼んでも良いですか?」 

「それは私には似つかわしくないよ、フラー。あまりにも身に合わない」

「そんなことはありませんよ、クィル」

「参ったな、褒められることには私は普通の大人よりも慣れていないんだ。先生だなんて呼ばれるたびに、身がくすぐったくってしょうがないよ」

 苦笑したような声でそう続けて、「あまり広めないでおくれね」と言って許可してくれた。ありがとうございます、先生と声をかけると、「やっぱりくすぐったい」と先生は笑っていた。

 一方で、私はやっと吹っ切れた気持ちで居た。

 延々と歩き続けた先に窪んだ土地があった。お碗のように内側だけがへこんでいて、砂もあるせいか、あり地獄のようだと私は思った。いや、それよりも湖だと言われていたそこには水は無かったのだ。

 しんと黙ったままの先生に、私は何と言葉をかけていいか迷っていると、「やっぱりか」と寂しそうに先生は言った。たまらず私は

「やっぱり?」と先生の言葉を鸚鵡返しに聞き返す。

「予想はしていたことなんだよ、水自体も腐敗してるっていう事にね。残念だ、ひどく」

「……先生、いかがなさいますか?」

「そうだね、……うん」

 繰り返し辿るようにして言葉を繰り返す先生に私は違和感を覚えた。嫌な違和感。

「先生?」

「心配しなくても良いよ、フラー。ただ私ももう直ぐ腐敗しきってしまうだけなんだから」

「え……」

「君と会った日には、既に首から上に必要な器官の大半は腐敗していたのさ。今の私に残っているのは、ほんの少しの海馬と目玉が片方、声帯、舌、歯が二つ、耳が片方、それから薄い骨と皮膚だけだよ」

「そんな」

「でも私は不思議と満ち足りているんだよ、フラー。確かに私は幼い頃の思い出はもう見れないけど、ここに来れただけで私は嬉しい。それにまだ目玉は片方ちゃんと残っているからね。

 きっとあの星を見るには持つと思うんだ。けれど声を発するのに必要な器官や海馬がいつ腐敗するか私には予想が付かない」

 先生は心底不安だという風に声に色を与えて、続けた。

「最後のお願いだよ、フラー。後半日で付き合ってくれるだけで良いから、私と一緒にここで星を見てくれないか。私のほとんどが砂になってしまって、星が私には見えなくっても良い。一緒に見て欲しいんだ」

「……、それで本当に宜しいのですか?」

「最後に誰かに見届けてもらえることほど、私が願っていたことも無いからね」

 何秒かの沈黙の後、私は分かりましたと答えを出した。すると先生は嬉しそうに笑い声を上げて、こう言ったのだ。

「こんなことになってしまったけれど、最後に会えたのが君で私はたいへんに嬉しく思うよ。フラー」


  ・

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 すっかり辺りが黒に染まった。私は先生の首を膝の上に置いて落ちないようにしっかりと抱えたまま、星が出るのを待った。先生はもう喋らなくなってしまったけれど、それは声帯が腐敗したからか、舌が腐敗したからか、それとも海馬が腐敗したせいなのか私には分からない。

 でも先生が私に頼んでくれたことだからやり遂げたいと、私は初めて自分の意思でそう思った。

 暗くなってしまっても吹く風は決まって温く、ここの夜とはただ辺りの明るさが変わっているだけのように見えていた。先生が最後に見たいと思ったその星は一体どんな……。

 そう思った時だった。私の前に薄い黄色の光が掛かった。ひかれるようにして、前を見る。と、そこにはこれまでに見たことの無い大きな、大きな黄色の星が地平線から顔を浮かばせていた。

 ぼこぼことした部分は少しくすんだ黄色で、それ以外の部分は本当に綺麗な薄黄色をしている。その星が光をまとっている様は、本当に絶景としか言いようがなかった。それ以外に語れない。

 先生は見れているだろうか、この光景を。

 もし見れないのだったら、今私は自分の海馬や目玉を先生に渡したい。報いたかった。

 気付けば、眼から冷たい水が流れていた。

 この水の名前を私は教えてもらっていない。



  ・

  ・


 じりじりと焼かれているような熱に私は目を覚ました。身を起こしながら、眠ってしまっていたことに気付く。もしや先生の首を離してはいやしないだろうかと慌てて周囲を見ようとしたけど、先生の首は昨夜よりもまた軽くなって私の膝の上にあった。

 良かった、と思いながら、「先生」と声をかける。

「……その声はフラーかな」

「はい、そうです。先生」

 先生の声はとても小さかったり、大きかったりと不思議な発音で喋っていた。もしや、と思い尋ねる。

「腐敗が進んでいらっしゃるのですか?」

「ああ、そのようだ。目玉はもう無いし、それに骨と皮膚も危ないね。歯も昨日の内に全部腐敗してしまったよ」

 寂しそうに言う先生に、私は何と声をかければよいのか躊躇った。そうしていると先生の声が益々小さくなりながら、寂しそうに呟くのだ。

「フラー、どうか笑わないで聞いてくれたまえ。私は死ぬ事が怖いよ。本当に怖い。どこかへ行くという意味では、キャンプと似たり寄ったりのはずなのに、命が終わるという事を考えているとさっきから震えてばかりだ」

 それは仕方の無いことです、と言おうとして、私は口をつぐんだ。先生は何も救われたがっているのではなくて、終わろうとしているのだから。

 だとしたら私は初めて尊敬できた彼に何をしてあげれるだろうか。 

「……先生、私と勝負をしませんか」

「勝負? 一体どんな?」

「私はこれから先生に一つ問題を出します、先生にはその問題の答えを考えていただいて、その答えがあっているかどうかの勝負ですよ」

「けれどフラー、私はもう直ぐ全部腐敗して死んでしまうよ」

「いいえ、そんなことはありません。きっと直ぐに会えます」

「…そうだろうか」

「そうですよ、きっと」

 沈黙がその場を包んでいたが、「フラーが言うならきっとそうなんだろうね」と先生の声が響いた。いくらか安心したようなそんな声に私は古臭い生命器官が締め付けられる思いだった。痛みに堪えながら、私は問う。

「この世の中にたった一つだけ無くならないものがあります。それを考えてください」

「無くならないもの……、ヒントは貰えるのかな」

「構いませんよ、ですがお答えできるのは一つだけです」

 私がそう返すと、先生は何秒かの思考の後にこう尋ねた。

「それは君も持っているものかな、フラー」

 その時、私の喉がひくり、と鳴った。途端、私の心は疑心暗鬼を起こす。私の視界に映るガスマスクのその向こうにある彼が、どういう意図でその問いを投げ掛けたのかを。

 辛い、けれど言うしか他ならない。私はきっとそれを持って生まれて来れなかった、と。しかしそれを言う前に、先生がぼんやりとした様子で呟いた。

「いいや、君もきっと持っているに違いないね。おかしな事を尋ねてしまったよ。ねえ、そうだろう、フラー。君もきっと持っているよ。そうに違いないさ。だって私は君が居てくれたお陰で、怖い思いをせずにいけるのだから」

 ポタ、ポタ、と昨夜のあの星を見た時と同じ様に、私の眼から水が零れ落ちていた。何遍手で拭ってもそれは止まる事を知らなくて、私の視界はぐちゃぐちゃだった。

 でも先生は私のそんな様子が見えない為に、言葉を更に紡ぐ。

「そうだ、待ち合わせ場所を決めておこう。フラー、君はどこが良いと思う?」

 楽しそうな先生の声が、落ち着いた水の流れを更に荒れ狂わせる。私はまた何度も水を拭って堪えながら、先生の問いに答えた。

「ここにしましょう、先生。今度会う時にはきっとここは水が戻って、先生が子供のころに見た景色がきっと見えるでしょうから」

「ああ、それは良い考えだ。ではそうしようね、その時までに私はうんと考えよう。私はゆっくり考えながら待つのだから、決して急いだり、慌てたりしなくて良いのだからね。君の歩調で来るんだよ、フラー」

「……お約束いたしますわ、先生」

 そう言って答えた時、果実が潰されるような音がした。

 音が響いた途端、先生が崩れた。いや、先生を形作っていた全てが腐りきったのだ。ガスマスクの中から、ずるずると砂が姿を現す。その砂も、他の砂と変わらず白かった。

 ああ、骨の色。先生の骨の色。

 視界に先生が死んだ証を入れると、胸の奥がびゅうびゅうと音を立てているような気がした。風穴が一つ、開いてしまったのよ。私は私に言い聞かせながら、胸に手を当てて自身に問うた。

 どうしてこうも胸が張り裂けそうになるの、こんな事何度もあったでしょう。そのたびに平気な顔をしていたじゃない、だというのにどうして今さら痛みが分かるようなふりをするの。 

 問いながら、先生が被っていたガスマスクに手を伸ばして手元に引き寄せた。引き寄せる内に先生だった砂が漏れて行くけれど、まだガスマスクの中には砂が半分以上残っていた。

 ガスマスクを抱きしめて、私は呟いた。

「ごめんなさい、先生」

 呟いた直後、私の周囲に青い光が飛び散りはじめた。きっと来たのだろう、迎えが。ガスマスクを抱きしめたまま、ゆっくりと立ち上がる。そこで足がふらついてこけそうになるが、何とか堪えた。

 そのまま頭上を見上げると、銀色の鳥のような機械が浮いていた。そして機械は事務的な口調で私に告げるのだった。

「――フラー博士、お迎えに上がりました」


 ・

 ・


「フラー博士が帰還されました。衛生係はただちに浄化作業を行って下さい。繰り返します、フラー博士が帰還されました。衛生係は直ちに……」

 頭上でけたたましく鳴る放送を聞いていると、遠くから足音を立ててむっくりとした白色の防護服に身を包んだ二人の衛生係がやって来た。

 彼らは左胸の前に拳を当てて、「お帰りなさいませ、フラー博士」と相変わらずの語句を述べた。いつもどおりのそれに言葉を返せないほどに、今回私は消耗しきっていた。

 私のその様子を察した衛生班の一人が、「フラー博士、お疲れですか?」と訊ねてきた。相方の声を聞いてもう一人の衛生係が「でしたら、フーガ博士へのご報告は日を改めた方が宜しいでしょうか……?」と聞く。

 私はその問いに首を横に振って、「いいえ、気にしないで下さい」と答えた。彼らはマスクで覆われた顔を互いに見合っていたが、「博士がそう仰るのでしたら」と気まずそうに言って自分達の仕事を始め出す。

 片手にホースを持っていた衛生係は、そのホースの先を私に向けた。殺菌作用の煙がホースの中には入っている、おおよその菌はこれで無力化できるのだ。

 ホースの煙をあらかた噴射し終えると、メモを取っていたもう一人の衛生係が耳に手を当てて作業が完了した旨を報告している。報告が終わるのを待っている際に、ホースを片付け終わったらしい衛生係がこう尋ねた。

「フラー博士、そのガスマスクは? 捨てておきましょうか?」

 私は手に持っていたガスマスクに視線を寄越して、首を再度横に振った。

 衛生係は「そうですか……」と心なしか残念そうだった。足元がふらつきながら、私は彼等に尋ねた。

「フーガは今何処に?」

「はっ! フーガ博士はただ今第三研究室にいらっしゃるとお伺いしておりますが……」

「分かりました。ではフーガに今から報告に行くと伝えてもらえますか?」

「勿論であります、フラー博士」

 彼等が胸の前にまた拳を当てたのを見て、私は壁に手を当てて伝いながらその場を去った。


  ・

  ・


 最早見慣れた廊下を右へ、左へ、上へ、と移動し終えた場所に第三研究室と書かれたプレートがある事を確認して、私は扉の前に立つ。扉は音もなく横にすっ、と開いた。

 足音をなるべく立てないように入ると、薄い照明の光が部屋の中を照らして居た。部屋の周りは水槽となっており、水槽の中をカラフルな色合いをした水中生物たちが仲良く共存している。

 その様子を横目で見てると、部屋の奥からカタカタと言う音が聞こえた。一歩、一歩と部屋の奥へと進むことで、奥に居た人物が分かった。ふっくらとした椅子に座り、決して顔を上げる事をせず、頑丈そうなデスクに向かって忙しなく手を動かしているその人物に私は声をかけた。

「フーガ」

 名前を呼ばれたその人物は、やっとデスクから顔を上げて動かしていた手を止めた。薄暗い照明の中で、フーガはこれでもかという位に顔を顰めて見せた。

「帰って来たか、フラー」

 フーガは私に素っ気無く言って、手元に高く積んであった書類の一束を取り出し朗々と読み上げる。

「今回は腐敗か……。それでどうだったんだ? 効果の程は」

「私があちらに降り立った時には、既に砂の山で建物はおろか以前はあった森林や湖もありませんでした。腐敗は当初の計画通りに老人と新生児から順に発症。その過程の中で元首を失った彼らは施策を取る事に時間を要し、医療関係者を多く失ったそうです」

 ぎい、とフーガの座っている椅子が小さく鳴き声を上げた。

「それで?」

「最後に生き残っていた研究者も絶えました。腐敗については彼らは表面こそ分かることが出来たようですが、本質や抗体をうみだすには至らなかったようです」

「医療ではアハテサトゥ(水の星)が一番進んでいたんだがな。我々の技術には遠かったか」

 フーガはそう漏らして直ぐに興味を失ったのか、「もういい。ご苦労」と相変わらずの言葉を私にくれる。いつもであるなら、その言葉を聞いて私は早々に立ち去る。

 しかし今回の私は立ちすくんでフーガを見ていた。

 ……いや、訴えかけていた。

 同じ時に生まれ、育ったきょうだいのような彼に。それは彼に伝わった。

「他に用があるなら手短に言え」とフーガはにべもなく言った。 

 ガスマスクを握っていた手が心なしか震えているような気がした。

 私も怖いことはあったのだと思うと同時に、私にとって一番怖いのはフーガなのであると思い知る。

 だからこそ私はいつでも躊躇って、彼の言う事には賛同してきた。

 フーガには私にそういった恐怖を与えているという思いは無いだろう。彼の得意とするところは、観察を終えての結果、そしてそこから求められる結論を述べたり、構想を立てることなのだから。 

 彼をそうしたのは私の父であった。いいや、一概に私の父と言うのはおかしいかもしれない。フーガにとっても父であるのだから。つまりで私たちの父に教えられた事をフーガは疑わず、ただただ素直に従っているだけなのだ。

 ゆえにフーガの行動にはいつも偽りがなくて、迷いも無い。そのために怖いとも言える。私にはフーガの素直さは眩しかった。

 いつも疑念ばかりの私にはとても眩しかった。そんな私であるからこう思えて仕方がなかった。 

 私の一言がフーガを壊すんじゃないかと。きれいなものを、たからものを壊してしまうような気がして、私はフーガが怖かった。真っ直ぐでどんなに恐ろしいこともやってのけるフーガが私は怖かった。

 けれど好い加減に、私はその恐怖から離脱しなくてはいけない。

 フーガを止めれるのは、私だけなのだから。 

 しいんとした部屋にコポポ、と音が漏れる。水槽の中にあるポンプの音が漏れ出しているのだ。その音に私は少し落ち着きながら、彼に言う。

「もう止めましょう、フーガ」

 私がその言葉を吐いた途端、空気が歪な重みを持った。おそるおそる私はフーガへと視線を寄越したのだが、彼は私の言葉を戯言と思ったのか、「何を今さら」と切り捨てる。

 力が拳に集まり強張るけれど、次第に顔も俯いてしまう。だが私は幼かった頃に、いや今でも言いはしなかった自分の意見を今言わなくてはいけなかった。

「私はもう他の星の命を使って実験なんてしたくはないんです」

 その時だ。ばんっ、と甲高いが鳴った。音が空気を振動させ、音を大きく響かせる。顔を上げると、フーガがデスクを叩いていた。そしてこちらをきっと睨む。

「珍しく意見を述べたと思ったら、フラー。どうやらお前はあちらで変な知恵を入れ込まれてきたようだな」

「……違います。フーガ、あなたはおかしいとは思わないんですか。私たちがより長く、より病に強く生きるために、他の星の医療や環境、食物の技術を盗んでは、彼等に感謝の言葉も言わずにむごい実験を行うなんて」

 私のそれにフーガはついに椅子から立ち上がり、私の前につかつかとやって来た。彼の方が背丈がある分、私はフーガに見下ろされる形となる。

「フラー、お前のその考えは俺達にとって悪だぞ。やっと周辺の星に暮らす奴等と同等に生きれるようになった俺達を、お前のその考えが殺すんだ。

 疲れているのなら、しばらくお前は観測者の席から降りてこの場所から離れて過ごせ」

「……フーガ、どうしても分かってくれないのですか」

 フーガは私を苦い顔で見る。

「確かに俺達は自分達が生き延びる為に、他種族を絶滅させるほどの事をやって来た。だがそうしなくては、俺達は他種族たちの半分以下の寿命しか持てず、病にも弱いままの生命としてあるしかなかった。フラー、お前だって覚えていないわけじゃないだろう。どんなにこどもを生んだとしても、直ぐに病気にかかってあっという間に死んでしまう。それがやっと母親はこどもを抱けるようになり、こどもたちはすくすくと成長して元気に遊びまわることが出来るようになった。まだまだ俺達には遺伝子に甘い部分がある、そこを他種族の進んでいる部分を利用して改善できるかもしれないというのに、それをお前は止めろと言うのか。お前はまた誰もが泣いてばかりの日々を見たいのか?」

「そうじゃありません! 私はもっと友好的に、彼等の生命を奪い取るのではなくて歩み寄って、生き延びる方法があるかもしれないと……!」

 私の言葉はフーガに鼻で笑われた。

「それで? 俺達が行ってきた事を奴等に言ったらどうなる?」

「それは……」

「間違いなく戦になるだろうな。こちらに分はあるとしても、労力を割いた挙句に家族を失う。フラー、聞くぞ。これのどこが友好的だ」

 語気を強くして言い切ったフーガの言葉が、私の胸に強く突き刺さった。ふらふらと今足が地に着いているのか、よく分からない。

「分かったなら、その考えを直ぐに捨てろ。いいな、フラー」

 くわん、と頭の奥で歪な音が聞こえた。

 と、同時に私の体があの真白い砂を滑り落ちる前のように、ゆっくりと傾く。

 嗚呼、やっと。

 そう思った時に体に鈍い衝撃が走った。体が床にぶつかったのだ。遅れて、ごん、と頭をしたたかに打った。起き上がろうとする気分は不思議と湧かず、それどころか私を見下ろすフーガの姿も朧に見えた。

「……フラー、お前。何をしたんだ」

 黙っていると、「答えろ」と短く怒気を含んだ声で言われる。

「腐敗です、今回の研究用に作った腐敗と別の、私にも効く腐敗を作って打ち込みました」

「馬鹿なっ! 何でそんな事を」

 降り注ぐ光が滲む光に見える。その光を見ていると、フーガが両膝を床の上について、いつ以来に見たか分からない泣き顔を浮かべていた。

 泣くのは格好の悪いことだから、と言ってすっかり泣かなくなったきょうだいのその顔に、私はとんでもない事をしていると気付くけれど、それでも私はもう生きてはいられない。

 手が強い力で握り締められる。「嫌だ」と言う声が耳朶に張り付いてはがれない。

 きょうだいを泣かせたのは紛れも泣く私で、たった一人のきょうだいの「一人にするな」という言葉に頷きたい気持ちはとてもあったけれど、それ以上に私には約束を破る方が重罪に思えて。

 だからこそ私はフーガに尋ねる。

 私の自慢のきょうだいで、いつも一緒に居てくれたきょうだい。きっと考えを変えてくれる、とそう信じて。

「一体どこで……私たちは生き方を間違えたんでしょう、フーガ」

 真白い砂地が瞼の裏に浮かんだ。


 ・

 ・


「地の女神の月 19日 

 今日でおよそ二百十五年におけるこの研究が終わった。とは言っても、俺は百年しか担当していないから、前半の百十五年のノートは前任の奴が書いたので労力は半分という事になる。

 毎日観察を続けるというのは、酷く根気の要る事の一つだ。赤ちゃんの世話や野菜の育成も同じく。つまりで生物の育成は難しいという事。これに尽きる。

 さて改めてこの研究を振り返ってみたいと思う。

 今回の研究は八つある衛星のうち、水の星と呼ばれているアハテサトゥで行われた。しかしアハテサトゥといえば、前回の実験でアハテサトゥに元々住んでいた生物を一気に根絶やしにしてしまった。

 さすがにピラミッド系図を変えてしまったのは不味かったのかもしれないと、反省する所も多々ある。

 ので今回は反省点も加えながら、最初に自然やアハテサトゥ元来の生物を母なる星に戻すことから始めた。前任の観察によると、もともとの星に帰っただけのことからか生物達に何ら障害はなく、引越しも無事に終わったらしい。

 次に今回の研究は、第一世代であるフラー博士の「腐敗」を使っての実験となった。

 対象となるのは、アハテサトゥの原住民達である。しかし前述にも記入したとおりに、以前の実験で根絶やしにされているため、原住民は居ないのではという声が上がった。

 これを否定したのは、フラー博士と同じく第一世代のフーガ博士だ。どうやら前回の実験の際に、生物を根絶やしにしてしまうことも頭に入れて合ったらしく、原住民を何人か保護をし、眠らせておいたらしい。後日、またアハテサトゥを実験場所として使うことがあるだろうとそういう事で。

 これには研究チームの誰もが舌を巻いた。

 そこまで先の事を予見しているとは、さすが第一世代。俺は拍手を送ったね。

 ところで最後の頁であるわけだし、第一世代についても書いて置こう。ちょっと俺は得意げになれるからな。

 これを見る奴は知っている通りに、俺達は他の衛星に住む奴等よりも短くしか生きれない種族だった。更に病にも弱く、住んでいた衛星には多種多様な病原菌が居り、また亜熱帯のような環境は今日食べる食料を作るのも困難であった。

 その為に赤ん坊が生まれたと思っては直ぐに死んでしまうし、健康に生きていたと思えば病気にかかって死ぬ。寿命を全うしたと言っても、それは二十になったか否かというところだったりした。

 そんな種族に生まれたのが因果なのか、ご先祖様は直ぐに星を出ることに決めた。幸いに資源はあったし、早くから自分達以外にも知的生命体がいる事をご先祖様は分かっていた。

 (勘ではなくきちんとした理由が合ってのことだそうだが、文献が無いので俺からは何とも言えない)

 母なる星を脱出したご先祖の様の中に、とても賢い男が居た。齢十四の少年といってもおかしくはない男だが、俺達の見方からすれば既に良い大人だった。 

 彼は星を脱出してから、他の種族たちを観測していた。そこで彼らが自分達よりもとても長生きをし、また病気にも強く、比べ物にならないほどに高い技術を備えていると知った。

 そこで彼はその技術を俺達の種族の中にも入れ込めるように、まずは先導者を産み出すことに決めた。そのためにはまず長命であり、病気にも強くなければならない。

 男は衛星の中から医療に発展した星を選び、医療について学んだ。学び終わると、男は目的を達するために研究に没頭した。明けても、暮れても、作り、失敗してを繰り返して二百四日後の事だ。

 ついに彼の念願であった病に強く、また長命である第一世代が誕生した。生まれたこどもの数は二人で丁度男と女一人ずつだった。男は、男の子にフーガ、女の子にはフラーという名前を与えて色んな事を教えながら育てた。

 やがて二人のこどもたちは立派に育ち、フーガ博士とフラー博士という皆を導く先導者へと変身した。

 フーガ博士は主に研究内容の立案、構想を。

 フラー博士はフーガ博士の指定した研究内容を可能とさせる物を作っては、彼らを観測した。

 だいぶ寄り道をしたが、この研究に使われた「腐敗」もフラー博士が作ったものだ。中身についてはフラー博士から他言無用と言われているので、ここにも書けない。が、あれはむごいものだと言っておく。

 「腐敗」の様子を見た奴なら分かると思うのだが、たとえ腐敗をして生命器官がお陀仏になっても、本体は死ねないのだ。要するに生殺し状態。

 まあ今回の研究テーマは腐敗自体が他種族にどれだけ効果が与えれるのか、また衛星自体を規模とするならどれくらいの年数が掛かるのかの測定であったのでしょうがないかもしれない。

 アハテサトゥも本来の環境を取り戻しつつあったし、何より原住民であった彼等の医療技術もほどほどに発展して来ていた頃だった。そろそろ頃合だとフラー博士は腐敗をアハテサトゥの水に混ぜ込んだ。

 どうして水なのかというと、アハテサトゥの原住民たちにとっては水が主食であったからだ。彼らの口に絶対に運ばれる、それを見越してフラー博士は入れたわけである。

 熟すのを待つのに、約十五年の歳月が掛かった。しかしそこからの展開は早いもので、一ヶ月を満たない間に人口の半分が腐敗によって滅ぼされた。それからどんどんと人口が削られて、人口が両の指の数だけになった時。

 フラー博士がアハテサトゥに降り立った。

 一重に、観察の為である。

 フラー博士の名前の意味する所は、観測である。また俺達はこの突如変わる事態を原住民達に他の衛星の住民が仕掛けたことと知られてはいけないわけである。出来うるなら、彼らが突然の自体にどう思っているかも知りたい。勿論、効果もだ。

 この二つのためにフラー博士は毎回の研究で、各衛星に降り立つ訳である。ところでこの行動、見ようによっては自殺行動なのだが、フラー博士は万全の体制を敷いているためにそこら辺に抜かりは無い。

 俺ならまだしも、フラー博士だ。

 しかし今回は違っていたらしく、フラー博士も腐敗に掛かってしまっているらしい。しかもこの腐敗というのが新種であり、抗体も無いのだそうだ。医療班はそう言って、フラー博士がどこまで酷い状況なのかをフーガ博士に説明していたのだが、博士にその言葉が届いているかは分からないそうだ。

 フーガ博士はフラー博士の手を握って動かなかったそうだから。

 無理も無いと思う。

 フーガ博士とフラー博士はいわばきょうだいのようなものだ。今目の前で姉、あるいは妹が死にそうなのである。全てが虚ろになってしまうだろう。

 まだ次の研究まで時間はあるし、俺もフラー博士が掛かってしまった腐敗の抗体を作れるように研究室にこもる予定である。この船の大半の連中は皆そう答えていた。

 フラー博士やフーガ博士は俺達にとって母や父に等しいのだから。長く生きていて欲しいし、苦しい姿も見たくは無い。

 ところで医療班に俺は友人が居るのだが、そいつから妙な話を聞いた。

 フラー博士の治療を行っていた際に、フラー博士が誰かの名前を呟いたと言うのだ。

 確か、くいる……とか先生とか……。そんなのだそうだ。一応名簿も確認してみたが、この船の中にそういった名前の奴は居ないし、フラー博士の看護に付きっ切りのフーガ博士にその事を聞くのは躊躇われた。

 しかしフラー博士が先生と言うくらいだから、さぞかし尊敬できる人なんだろう。願わくば、俺も会ってみたいと思う。

 おっと、そろそろ時間だ。やや砕け口調に書いてしまったのはご愛嬌って事で宜しく。最後くらいは真面目に〆るから。

 本日、地の女神の月の19日を最後として、衛星アハテサトゥにて行われた実験が終了した。

 よって、研究「腐敗の日」の終了をここで宣言す。以上。」

  うーん、と椅子に座っていた青年は背伸びをして、椅子ごと後ろに引き立ち上がる。

「さてと……、研究室に行きますかね。ん?」

 部屋を出て行こうとしていた青年の眼に、真白い砂が目に留まる。腰を屈めて、砂に手を触れて見るが砂は酷くサラサラとしている。ふうん、と思いながら、どうして椅子の下に砂があるのか、首を傾げても答えは見えない。

 まあたいしたことではないだろうと思い、青年は部屋を後にした。

 自身の片耳が無いことにも気付かずに。

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腐敗の日 ロセ @rose_kawata

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