8/31日の怪物

ロセ

第1話

「次はー……、祇園。祇園でございます」

 がたん。電車の巨体が揺れ、私は後頭部を強かに打ち付けた。「っつぅ……」打った頭を摩りながら改めて持っていたパンフレットに目を通す。

【 summer / vacation / management / program 】

 夏休み管理プログラム。教育委員会連盟より立案されたプログラムの名称だ。

 もともとは大学だか何だかの研究の一環で学習率が低下していることが報告され、学校はもちろん自宅での修学をより徹底させようとした教育委員会連盟が息抜き期間かつだらけた生活の元になりやすい夏休みに着目した。すると夏休みに配布される宿題の提出率が悪化していることが判明し、一か月という時間を有意義に過ごせるように組まれたのがこのプログラムというわけだ。

 プログラムを起動させると自動的に脳内リンクが行われ、仮想空間へと誘われる。この説明だけ聞いたなら子どもにとっては逆効果と考えるのが普通だろう。しかし夏休み管理プログラムには通称管理人と呼ばれる存在がいる。この管理人がすぐれものだ。遊園地や水族館といったレジャー施設に設けられた仮想空間にも管理人に相当する案内役などはいるが、内蔵される知識量に加え、子どもたちとの意思疎通をそつなくこなせるように出来ている。

 かくして、連盟はこのプログラムを民間の学校に配布使用させることで、僅かながらに学習率の向上を上げることに成功した。

 で、本題だ。成長過程にある子どもたちは自分の夢が叶ったような世界で、遊びたくてしょうがない気持ちを堪え渡された宿題を管理人さんと一生懸命こなす。そうして宿題が終わった暁には、管理人さんたちと共に世界を満喫する。広い世界を思う存分駆け回れ、宿題はきちんと終わる。両親にはえらいねと褒められ、先生を困らせなくても済む。万々歳だ。

 だけれども少しずつ知恵を蓄えていくとあることに気付くのだ。管理人さんだけ得をしていないじゃないかと。それが彼らの仕事だと言われればおしまいだけど仮にも十二年近く教えて貰うだけ教えて貰って終わるというのは恩に仇を返すというやつじゃなかろうか。

 いや、実を言えば私も最初からそういう思いがあってこんな話をしている訳じゃない。なんだかんだ言って私はもう高校二年生で来年には大学受験が控えてしまっている。その後もなんだかんだと忙しくなって、プログラムのことなんて思い出話程度にしか考えなくなるだろう。

 だからだ。今までずうっとお世話になって来た相手にこれまでの感謝を伝えて、きちんとお別れをしなくてはと思った。

「祇園、祇園でございます。お降りの方は――」

 夏休みが始まる少し前から私は一人早く宿題に取り掛かった。大体は教科書とにらめっこをすれば解けるし、書き写しだったりするから根気を持ってやれば終わる。おおかた片付き、階下で洗濯物を干していた母に私は一言声をかけた。先に夏休みの過ごし方を説明していた母は手を動かしながら律儀よねえ、と他人事だ。育て方が良かったのだと返すと、管理人さんはなんていう名前だったかしらと尋ねられる。

「鳩」この時ばかりは母も手を止め、誰に似たのかしらそのセンスと渋い顔をする。そこまでひどいだろうか。納得がいかないけど時間が惜しい。

 部屋に戻り、準備をして夏休み管理プログラムを起動させる。目の前に三、二、一と数字が点滅し、闇が一か所に集中したかと思うと外に広がった。

 さああと心地のいい風が吹いて目を開くと一面田んぼの世界がある。田んぼに植えられた稲は黄金色をしており、収穫の時期を迎えていると分かる。去年来た時はまだ田んぼを耕している途中でこんなにもたくさんの稲を植えられる状態じゃなかった。それを鳩はたった一人で頑張ったんだ。

「すっごいなー……」感動し、体を左右に揺らす稲穂を眺め見ていると稲の中から麦わら帽子をかぶった人がひょっこり頭を覗かせる。遠目で顔がよく見えないけれどこのプログラムで私以外にいる存在といえば管理人さんの鳩だけだ。

「はとー!」口元に片手を添えて叫ぶ。「曜!」と麦わら帽子をかぶった人は私の声を聞いて大きく手を振る。その場でぴょんぴょんと飛び、鳩のところに目がけて駆け走る。田んぼまでは砂利が散らばったくだり道になっている。つま先に勢いが乗り、どんどん速度が加速して行く。そこまでは良かった、が一度乗った勢いは急には殺せずそのまま私は転んだ。「べふぅっ」と自分でもなかなか聞いたことがない声を出した。

 プログラム内では痛覚もリンクしている。現実と仮想空間どちらかで何かがあった際に強制的に思考を強制送還させる方法がないからだそうだ。ので、私の顔面はあちこち痛かったし、転ぶ際に突いた手には細かい砂利が張りついている。この調子じゃ、膝だって怪我をしてるだろう。「曜、大丈夫か」

 降って来た声に顔を上げる。麦わら帽子を被り、額に薄く汗を張りつかせた二十代前半の男の人――鳩が軍手をはめた手を差し出していた。「だ、大丈夫。全然大丈夫」手の砂利を払い落として、差し出された手を握り、立たせて貰う。

「ああ、膝も怪我してるじゃないか。ちゃんとあとで消毒しないと綺麗に治らないぞ」

 鳩の言い方はすこし大げさだ。「平気だよ」と答えると、鳩は真顔になる。何、その顔。こちらも真顔になると鳩がしぶしぶと言った具合に話し出した。

「曜は薬が苦手じゃないか。最初にここに来た時も今みたいに転んであちこち怪我をして泣いていたけど、消毒は染みるから嫌だってわがまま言って大変だったんだよ」

「いったい何年前の話してるの」

 小学校一年生の時のことだとは思うけど、それでも十年も前の話だ。私は呆れ顔を浮かべた。鳩はそんな私をまっすぐ見てぽつりと零す。「曜は大きくなったなあ」

「そりゃね。だってもう十七歳だから」

「十七歳」

「ちなみに私がここに来た時は七歳だったからもう十年経ったことになるんだよ」

 ミィン。申し訳なさげに蝉の鳴き声が追加される。「そっか」と鳩は言う。「そうそう」と私は頷く。鳩は手持無沙汰になってかきょろきょろと周りを見渡し、「宿題は?」と首を傾げる。よくぞ聞いてくれた。私は胸を張り、「もう終わったよ」と自慢げに報告する。鳩は器用に片方だけ眉を寄せた。「嘘はよくないと思うよ、曜」

「嘘じゃないよ! 本当にやったんだってば!」

「前にも同じことを曜は言っていたけど、実際はやってなくてぎりぎりで終らせたりしたじゃないか」

「ぐ、そんなこともあったけど! 今回は終わらせたの! ちゃんと!」

「先生にいい評価は貰えそう?」

「それは提出してみないことにはあれだけどもさ」

「……、まあいいや。最終日に泣かないように」

 信じてないな、これは。いいけどさ、いいけども。気を取り直して私は黄金の頭を垂れた稲を指さす。

「一人で耕したの?」

「うん。曜にいっぱい食べて貰おうと思って」

 カレーも、とろろご飯も、炊き込みご飯も焼きおにぎりも作り放題だよと鳩は笑う。そこまで私は大食らいじゃないが。最近はダイエットにも取り組んで野菜を中心にした食生活を……、じゃない。そこじゃない。「ありがとうございます」頭を深く下げる。「どういたしまして」鳩もぺこりと頭を下げた。

「あ、そうだ。今日のところはそうめんで我慢して欲しいんだけど」

「いいよ」鳩の知識の中には栄養管理面の知識も入っている。いくつかおかずも付くはずで今から夕飯が楽しみだ。

「ね、ね。なにかお手伝いすることない?」

「お手伝い? 曜が?」

「そうだよ、私なんたって宿題終わってるからね。どんとこいだよ」

「そういえばそうか」

「そうそう。稲刈りやろうか。お風呂場の黴除去にお庭のお手入れとか、あ、肩たたき。肩叩きはどう?」

 鳩は半眼になって、「率先してお手伝いを買って出てくれるのは有難いんだけど、急にどうしたの」と尋ねる。私は後ろに手を組んで青い空を見上げる。

「私、十七歳になったって言ったでしょう」

「言ってたね」

「来年は受験なんだ、大学受験。頑張って大学に合格したら学校に慣れるのに時間もかかってドタバタしちゃうだろうし、バイトしてお金も貯めたいなって思ってる。それで大学を卒業出来たら私いよいよ大人だよ。すごいよね。お父さんに聞いたけど社会人になったら、夏休みなんて一週間あればいい方なんだって。だからさ、……たぶん私がここに来れるのは今年が最後になると思って。せめて最後くらい鳩に恩返しをね、したくって。ほら、鳩もさっき言ってたけど私は鳩にいっぱい迷惑もかけてたからここで返さないといつ返すんだよってね」

 下を向いて溢れそうになる涙を堪える。頑張れ、泣くな。今、泣いてまた最後にも泣いたら余計に辛くなるだけだ。止まれ、止まれ、止まれ。

「曜」

 ぽん、と頭に手が乗る。

「泣きやんでくれ」

 夏風が吹き、鳩の麦わら帽子が飛ぶ。空を泳ぐ帽子と一緒に黒い紙が何枚か泳いでいた。

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8/31日の怪物 ロセ @rose_kawata

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