人が人を想うということ -3
書物を積み上げることに疲弊すると、二人は度々食堂へと足を運んだ。卓に着いてあらゆる可能性を議論しつつ、アデイルが何かしら口に入れるものを運んでくれるのを楽しみにしているのだ。
「それ、葡萄酒じゃないの?」
アデイルの抱えている瓶に詰まった、深い紫色をした葡萄の粒。
「これは葡萄の砂糖煮よ。飲むんじゃなくてそのまま食べるの」
アデイルは瓶の封を解いて、中身を器によそった。砂糖水か果汁かに濡れた粒がきらきら光る。
「レイラ島を出る時に、少しだけあなたに持たせたのだけれど。オリバー、これ好きだったから」
アデイルは昔話を口にすることにためらわなくなった。記憶をなくしたオリバーに気を使っていたが、オリバー自身が構わないと言ったのだ。懐かしむことが出来なくても、忘れてしまった自分に繋がるものだから。自分が確かに母や周りの人に、大切にされていたことがわかるから。
「ライエはそういうの、作らなかったなあ。料理、嫌いじゃないのに」
葡萄を一粒口に運ぶと、濃厚な甘さが口中にじんわりと広がった。
「アデイルさんの味に再会できるまで、ライエはあえて作らなかったのかもしれないね」
エルダの優しい想像に、オリバーは胸を温かくしながら器の中身を掬った。
「書庫の本は三分の一くらい読めたかな。小さい部屋とはいえ、一冊一冊見てると結構かかるね」
甘いものを食べて落ち着いたところで、エルダは改めて現状を確認する。
「本を漁る以外にも、何か考えなきゃかな。どんなことができるかは難しいけど」
「呪いを解く方法は、わだかまりを解くこと」
眉間にしわを寄せて考え込んでから、エルダはゆっくりと顔を上げた。
「……お父様ともっときちんと、お話をしましょう」
エルダは静かに言った。
「きっとお話ししづらいことだと思う。だけど、エイミーの父親であることに間違いはないのだもの。私はずっとエイミーのことを認めたくなかったから、そのことについてお父様に尋ねたことはなかったけれど。お話を聞けば、エイミーの心のうちに近づくきっかけが掴めるかもしれない」
わずかに息を吸って、エルダは続ける。
「エイミーや呪いのことだけじゃない。私はずっと、お父様や、お母様に向き合うのが怖かったの」
「だけど王様と王妃の方だって、腫物でも扱うみたいだったんだろ」
「それは確かに、子どもに対してあんまりだと思う、けど。だけど私から歩み寄ることをしても、良かったのかもしれない」
簡単なことではなかったのだろうけれど、と言いながら、エルダの視線はオリバーとアデイル親子を見据えている。
「だって私やっぱり、ヴェルレステの王女だもの。何があってもお父様とお母様の娘でいたいもの」
親子であれば解り合えるなんてのは、きっと幻想でしかない。それでもエルダは、解り合えることを諦めたくないのだ。もう向き合うことを恐れないと決意したのだ。
「とても怖いけれど」
膝の上で固めたエルダの拳が震えていた。その腕に呪いが刻まれていなかったら、オリバーは今すぐにでも震える小さな手を取ったのに。
「城に帰ったら頑張ってみる。それでもし、心が折れそうになったら、オリバーに会いに行ってもいい?」
震えを自身の細い体だけで、精いっぱいに抑えて。潰されそうな心と体で、それでも怖れと向き合おうとして。
「うん。会いにおいでよ」
オリバーはエルダを途方もなく尊敬しながら、それでもなお自分が守りたいと願う。
そしてもしもその身が崩れそうなら、切実に抱きしめてあげたかった。
夕飯の後、エルダは書庫の本を持ち込んで部屋へと下がった。
この部屋はかつてライエが使っていた部屋で、広さは隣のエイミーのいる部屋と同じくらい。エイミーが使っている部屋――呪いに囚われている部屋と言った方が良いかもしれない――は、イリスの使っていた部屋で、エイミーが生まれてからもそのまま親子二人で暮らしていた部屋らしい。
初めてこの部屋で眠った時には、隣の部屋にエイミーがいることに何とも言えない不安と緊張を感じたが、数日で慣れた。
時折、隣にエイミーの様子を覗きに行く。彼女はやはり固く目を閉じて呪いに囚われたまま、何一つ変わることはなかった。
一息ついて、本に目いっぱいに明かりを近づける。橙色の柔らかな灯りに、ぼんやりと幻想的な絵が浮かんだ。高貴な身分らしき女性や、美しい妖精。魔法使いのような人も描かれている。
「エルダ王女。もう暗くて目によくありませんから、本を読むのはお終いにしたらいかがですか」
傍らで寝具を整えていたフランチェスカの声に、エルダは顔を上げた。
「そうね」
心なしかいつもより灯りも弱い気がして、諦めて本を閉じる。同時に、扉を叩く音がした。
「失礼いたします。灯りの油を補充していなくて」
アデイルが頭を下げて入室してくる。エルダは本を放して机の前から離れた。
明かりの油壷に燃料を注ぎたしながら、アデイルは机に載っている本を見やった。
「あら、懐かしい本」
「その本、書庫にあったんです。アデイルさんも読んだことが?」
オリバーが手に取った、胡散臭い魔法だか呪物だかが記されている本と同じ棚にあったものだった。どうやらその棚は、創作物語やお伽噺を記した本の書架だったようだ。
「この本、エイミーが好きな本だったんです」
「エイミーが?」
いらぬことを言ったという様に顔色を変えたアデイルに、エルダの方から話を続けた。
「そうね。その本は小さな子どもが好きなお話ね。呪いと言っても、お伽噺ばっかり」
蛙に姿を変えられた王子様に、歌声で船を沈める水の精霊。恐ろしいような心が躍るような、不思議な世界が繰り広げられている。
「はい。寝物語によく話してあげていました」
ほっとしたようにアデイルが言う。
「じゃあオリバーも好きだったのかな」
「オリバーは本を読むよりも、歌を聞かせてあげる方が好きでしたね」
「ああ、子守歌!」
エルダはぱっと顔を輝かせた。
「私も歌ってもらうのが好きだったの。小さい頃、フランチェスカがたくさん歌ってくれた」
「お恥ずかしながら」
はにかむフランチェスカに、エルダは幼い子どものように笑った。
「呪いにかかる前にね。眠れない夜にお母様が、とんとんって背中を優しく叩いてくれるのが大好きだった。それだけで安心して眠れたの」
遠い記憶の中に沈む夜。それでもエルダには、忘れがたい思い出だった。
「でも体に触れることはできなくなったでしょう。だけどフランチェスカが歌ってくれた。ゆっくりとした拍子で歌われると、まるで背中を優しく叩かれているみたいだったの」
懐かしさに、エルダの心が甘く和らぐ。
「ねえフランチェスカ。子守唄を歌って」
心のままに甘えて言えば、フランチェスカは瞬いた。
「まあ王女、お戯れを」
「ふざけてなんかいないわ。なんだかとても聴きたくなってしまったんだもの。それとも赤ちゃんみたいなこと言って恥ずかしいって叱る?」
「そのようなことは言いません。ただずいぶんと久しぶりのことだったので」
「いいでしょう?」
首を傾けて、フランチェスカの顔を覗き込むようにすれば。
「可愛らしいエルダ王女。そのような顔をされたら断れませんわ。歌いますから、そのままゆっくりお休みなさいませね」
フランチェスカは一息ついて、そっと歌い出す。
お月様とお星さまが目を覚ますと、太陽も空も、木も花も大地も、海も川も湖も、みんな眠ってしまうから。
坊やもお嬢さんも、みんな眠りましょうね。
お父さんもお母さんも、あなたの大好きな人たちもみんな眠るから。
お母さんの胸の中で、お父さんの腕の中で。
幸せなおうちの、温かなお布団の中で。
かわいい子たち、みんな眠りましょうね。
背を叩くような拍子のゆっくりとした旋律が優しく耳に響いて、エルダは目を閉じる。
「……あなたを何度抱きしめたいと思ったか」
眠りの入り口で、エルダは囁く声を聞いた。
「呪われた王女に、お仕えするよう任命された時。なんて期待外れの役目を仰せつかってしまったのだろうと失望してしまいました。だけど初めてお会いした時に、あなたは『私でごめんなさい』とおっしゃった」
囁く声は子守歌ではないけれど、いつでも心の安らぐ声だった。
「その瞬間に。あなたが小さな体で、どんなに精いっぱいに生きているかを思い知ったのです。その小さな体を、思いきり抱き締めたくなった」
あまりにも温かいから、エルダは今すぐにでも眠りに落ちそうになる。
「だけどそれはできないから。私は子守歌を歌い、お話をして。誠心誠意お仕えすることで、抱きしめることに代えたのです。きっと、レナードも同じ気持ちでしょう」
この、エルダを慈しむ声を知らなかったら。いつでもそばに寄り添ってくれていた、二人の存在が無かったら。
エルダはとっくに、何もかもを諦めていた。
感謝の言葉は声にならず、エルダは眠りに落ちて行った。
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