第1話 派遣

 一体何時いつからだったろうか、自分という存在が不気味に思い始めたのは。他人と触れ合うことに、同じように笑うことに、少しの痛みを感じ始めたのは。






 初冬、旅立ちに相応しかったはずの空はすっかりとその顔色を変え、墨色の空はどこか不吉に感じさせる。何か、何でもいいから飲み物が欲しい。乗り物酔いに侵された頭が痛み、吐き気と眩暈を伴っている。



 澱んだ視界の中、どこまでも厚い雲に覆われた重く暗い曇天を見上げると、ユート・サングレイスは早々に自己のメンタルケアにと取っておいた溜息を吐いてしまった。赤と黒の軍服を纏った軍人らしからぬ華奢な体格。男性ではごくごく平均的な身長、碧眼に少し掛かったブラウンの髪。この軍人らしからぬ要素に加えておどおどとした性格のせいで女性だと勘違いされることや揶揄されることもあったが、もう慣れてしまった。



 そんなユートが降り立ったのはラディスラヴィア連邦国中央国境審査管制駅、通称 《国境駅》。暗い空色のせいか廃棄された監獄の牢屋のように見えるプラットフォームに降り立ち、ひび割れたコンクリート製の台を踏んでいるはずの両足はまだ列車の酔いが残っているのか、得体の知れない浮遊感に包まれてはっきりとしない。空気中を漂う煙草の香りが荒んだ心情を少し宥めたが、ホームを満たすこのどこに行っても変わらない喧騒には、いつまで経っても慣れることはないのだろう。いつもはもう冬だというのに容赦なく照りつけてくる太陽も、今は空を覆い尽くす黒い雲に隠れて全く見えない。その様子がまるでこれから先の困難を予見しているようで、ユートは更にげんなりとした気分になった。



 先程降りた列車の汽笛がユートを笑うように重く鳴り響き、そのまま彼を見放すようにゆっくりと進み出すと、列車は曇天の中へと消えていった。



 少し離れた改札前の階段から、赤い風船を持った男児がこちらを指差して何か言っている。聞き耳を立てようとしたが、すぐに買い物袋を抱えた母親らしき人が駆けつけて来た。男児に駆け寄った母親は我が子を見つめる不審者もとい、ユートに気付いたのか、男児に一言叱るような素振りを見せた後、そそくさと手を引いて階段を下って行った。聞き耳を立てようとしても、この喧騒の五月蠅うるささではか細い会話など聞き取ることは出来ないだろう。それに何より、母親の様子から察するに、こちらに対して何か失礼なことを言っていたに違いない。それなら聞こえない方が良い。これ以上体と心に傷を付けられるのはごめんだ。


「どうしてこんなことに…...」


 お人好しというのはこうも困難に巻き込まれやすいものなのか。まぁ、頼み事は断れないし困っているなら進んで助けてあげたくなってしまうのは子供の頃から変わっていないはずだし、これからも変わることは無いのだろう。こんな面倒な性格にしてくれやがって。もしも本当に神なんてものが存在するのなら、今すぐにでも殴りに行きたい。



 ユートは少し感覚の戻り始めた足で駅のホームから改札へと向かい、階段を降りると青白く発光している認識装置に向け手早く交通結晶こうつうけっしょうをかざす。呼び出しベルのような聞き慣れた受理通知音を聞いた後、開いたゲートを通って駅から出た。



     *  *  *  *  *



 雲間から差し込む陽光に眩んだ、ユートの目に飛び込んで来たのは針山のように乱立した煙突の数々だった。遠くから眺める分には別におかしな所はなかったがこうして内側から見渡せば帝国にはない異質だらけだ。帝国と何より異なっているのはこの地形。地面にボウルを埋め込んだような独特の地形をしているこの国は、元々巨大隕石によるクレーターを地盤とし、隕石により得た鉱石に落下の衝撃で剥き出しになった鉱山などの資源に恵まれ、独自の発展を遂げてきた。そしていつからかその豊富な資源を狙う《国盗くにとり》と呼ばれるやからから国を守る為、強固な防壁を何重にも重ねた結果、この何層にも重なったミルフィーユの様な不思議な地形を作り出していた。


 乱立した煙突の下には住居があり、その下にまた住居がある。各住居から伸ばされた地盤が集まるようにして、階層を作り出し、階層間は階段が鉄格子のように繋いでいる。まるで巨大な蜂の巣のようだ。そして住宅層の端、何重にも重なった防御基盤の頂上から遥か直上、国を囲む防壁や各地の連絡通路を柱代わりにし、何か巨大な物が浮かんでいる。あれがラディスラヴィアの王族の住まう場所、王都リバティーノウトだ。



 天高く居座る王城から視線を下げれば、何か幾何学的な光を放つ球体が目に入ってくる。その大きさは目測でも幅数百、いや、一キロメートルはあるだろう。この国の中央に位置している場所にある、人々が『セントラル・ガイア』と呼ぶその「旧世界の遺物きゅうせかいのいぶつ」だと伝えられているとかいう巨大な球体が、生命の維持に必要なエネルギーを創り出し、そこから血管のように繋がったダクトを通って魔力を国中に流しているのだ。何でも、あの球体の機能が失われてしまえばこの国は忽ち崩壊してしまうのだとか。何とも恐ろしい機能と代償を持った構造物だが、放つ光は不思議と安心感すら与えてくれる。"煙突と神秘の国"ラディスラヴィア連邦国。ユートはその名に恥じぬ街並みを瞬きも忘れ、暫く食い入るように見つめていた。



「……さてと、そろそろ行くとするかな」



 たっぷり十五分ほど景色を堪能した後、軍服のポケットに入った懐中時計を見る。任務開始まではあと三十分ほどだ。ユートは年季の入った革製の旅行鞄を持つと歩き始めた。



     *  *  *  *  *


「さ、寒い……。予報だと雪も降らないはずだったのに、何で?」


 思考を思わず口に出してしまう程に寒い。雪のちらつく国一番の大通り、吐いた息の白さから見るに気温はおそらく氷点下近くにはなっているだろう。街ゆく人は皆暖かそうなコート着ていたりマフラーを巻いていたりして、それに比べて軍服だけしか纏っていないユートの貧弱さと言ったらない。寒空の下、身体を震わせただ歩くユートは、冬の寒波を舐めきって防寒具を鞄に入れなかった数時間前の愚かな自分を恨んでいた。

 


 薄い帝国指定の軍服の下にシャツを一枚重ねただけの装備では容赦なく吹き付けてくる寒風には到底敵わず、白雪の道から伝わる冷気と僅かな隙間から入って来て全身を芯まで凍えさせる寒風が働く気のない脳を凍結させ、下手な比喩でも誇張表現でもない凍えるような寒さ以外何も感じなくなった。それもこれも昨日の自分ユートのせいだ。



 任務移動前日までばたばたと準備に忙しかった上、十分な睡眠時間も確保できなかったのにあれこれと優先準備を考えた結果、最低限のものだけ用意して直ぐにベットに飛び込んだせいだ。その上今日、案の定寝坊をしたせいで暖かいコートも準備する暇がなく、こんな雪の中馬鹿みたいに軍服で向かう羽目になってしまっているこの状況に、ユートは凍える下唇を噛んだ。痛みからか、噛んだそこだけが少し温かく感じた。



 最初にこの国に訪れたのは二年前、当時はまだ友好的な市民が多くいて、それなりに帝国との外交関係も良好だっため、この国の人たちも丁寧に道を教えてくれたりと何かと親切にしてくれた。いつかまた訪れたいとは思っていたし、理不尽なこの任務も目的地がラディスラヴィア連邦国なので渋々だが受け入れられた。しかし、敵対国となってしまった今ではほとんどの市民たちから向けられる視線は冷たく、冷ややかだ。そりゃそうだ、戦争で殺し合ってきた敵なのだから。敵意を隠そうともせず、むしろ剥き出しにした視線に晒され、ユートはほんの少し寂しさを覚えた。



     *  *  *  *  *


 

「……ひさしいな、何年ぶりだ少佐」

「二年ぶりでしょうか、ご無沙汰しておりました。准将じゅんしょう



 背筋を正し、揃えた右手を額に当てると機械的にユートは敬礼をする。ここはモルトピリア帝国大使館。豪奢な建築を取り囲む鉄柵には生ゴミやら空の缶詰やらが投げつけられ、周囲はまるで夜通し行われたパーティーの後のような汚らしさだった。格子状の窓硝子はひび割れ、エントランスの隅には何故か端の焦げ付いた木片が積み上がっていた。敵対国となった今ではここにたとえ一秒でも居たくもないが、軍隊という統率された組織において上官の命令は絶対だ。反逆者、異端者はすべからず排除される。ならば目立たぬように身を潜め、様子を伺って行動するのが最善だろう。



 対話の相手は初老ではあるもののその体は筋肉に覆われていて、いかにも軍人といった体つきをしている。まだ黒い髪に同じ色をした髭、獣のそれと同じ眼は鋭く、その視線だけで紙程度なら貫けそうだ。同じ人間でありながらもまるで猛獣を相手にしているかのような錯覚を覚える彼はれっきとした名の通った魔術師であり、ユートの師匠でもあるアガレス・レーディライクだ。



「つもる話もあるだろうが、まぁ座れ」



 アガレスに席を促され、ユートはゆっくりと席に腰を下ろす。何年も会っていなかったせいだろうか、それともただ単にこのアガレスという人物が苦手なだけなのだろうか、ユートはアガレスを前にして冷や汗をかいていた。まるで人と話しているとは思えない、顔面を手で握られているような巨大な破城槌の前に顔を置いているような、重厚な威圧感が六畳半程の空間とユートを支配していた。



「さて、あまり時間がないので早速本題に入るが、少佐。今回の任務については覚えているな?」


 アガレスに問われる。白銀の双眸がユートを射抜く。


「勿論です。例の、"あかの魔術師"の護送ですよね」


 

——あかの魔術師。今や魔術は世界中に知れ渡った常識だが、魔術を用いて戦い、研究し世界の神秘を解き明かそうとする……俗に言う魔術師は実のところかなり少ない。確かに存在してはいるが、魔術を用いる仕事上、その研究漬けになり研究所から出てこなくなるのが殆どで、少し外に出てみたとしても世界の目まぐるしい変化についていけず、再び研究所に籠ることになるのが関の山だ。そんなただでさえ中々お目にかかれない魔術師だがそんな魔術師の中でも皇帝陛下直々に任命された、いわゆる色彩称号カラー・プライドを持つ程の実力者はそういない。なので、《彼女》の事はある程度は知っている。 


「その"あかの魔術師"なんだが、運の悪いことにどうやら『シティ・グレイ』にいるらしい」


 それを聞いてユートは苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。「シティ・グレイ」、その場所は確か、このディスラヴィア連邦国の中でも特に治安の悪い六地区を総称した呼び名だ。ユートが今いるこの中心街から溢れ出した黒煙は、気流に流されそこに流れ着く。割れ窓理論と同じように、少し先ですら見えないほど濃い煙に包まれたその区画にはルールなど存在しない。窃盗、密売、人身売買、闇取引に殺人依頼まで、この世のあらゆるタブーが集うその場所は言わば、実在する"闇"そのものだ。



 ユートの本心に気づいたのか、アガレスはさも申し訳なさそうな顔をした。


「嫌な事は重々承知だ少佐。私としても行かせたくはないが、かの魔術師はそこにいるんだ。分かってくれ」

「えぇ、分かっています。必ずかの魔術師を帝国に護送して見せます」


 本心としては全く行きたくは無いが、ただでさえお人好しのユートに、大恩あるアガレスの頼みを断ることができるわけもなかった。第一、それに断ったら自分がどうなるのかは容易に想像できるし、そうはなりたくない。


「それに僕には魔術があります。何が起きたとしても必ず連れ帰るので、ご安心を」


 アガレスに教え込まれた魔術はまだまだ未熟で一人前には程遠いが、一般人とのいざこざならユートの未熟な魔術でも十分何とかなる。


「これでも僕は軍人です。こんな任務くらい、朝飯前でしゅよ」

「……若干噛んだ所が少し不安だが、頼んだ。今回の任務は極秘だぞ。くれぐれも、それを忘れるなよ」

「……はい。それでは、失礼いたします」



 そう言ってユートは席を立ち、足早に大使館を後にすると、黒煙の覆うシティ・グレイへと向かって行った。


「言い忘れたが少佐、もし例の魔術師を見つけたとして、女だからといって気を抜くなよ。殺されるぞ」


 向かう途中、聞こえたアガレスの声は周囲の雑音にも負けず、ユートの耳にはやけにはっきりと聞こえた。ユートはなんとなく不安になった。なんでこれから行かなくてはならない部下にそんな縁起でもないことを言うんだ。ユートは今すぐにでも戻ろうと訴えてくる自身の危機管理能力を気合いで黙らせると、黙って足早に向かって行った。

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