第6話
陽樹の主な仕事は、すっかり三度の食事を用意することへ切り替わっていた。しかし、過去のデータを睨み続けるのが主な仕事だったことよりは、余程ストレスがない。能動的に何かをできるというのは、このたいして娯楽もない場所では思ったよりも重要なことだった。
紗代も永井も、陽樹の料理については一切文句を言うようなことはなかった。三人で鍋を囲んでも、ふたりとも直箸で中身をつついて平然としているのは陽樹ですら意外に感じた。
「おまえはこういうのは嫌がるかと思っていた」
陽樹と同じ感想を持ったらしく、だしの染みこんだ大根と白滝を皿に取った永井が紗代に向かってぼそりと呟く。
「私も意外に抵抗がなくて驚いてる」
程良く茶色になったはんぺんを口に入れながら紗代もあっさりと答えた。
「鍋はほっとするよね!」
午後の間ずっと煮込んだおでんは、卵と大根が特にいい具合に仕上がっていた。自分でも満足しながら陽樹は豆ご飯を口に運ぶ。これは紗代のリクエストだったが、実際に陽樹が作ってみたら紗代が思っていたものとは違ったらしい。
グリンピースを炊き込んだ塩味のご飯は、豆ご飯と言われてすぐに頭に浮かんだものだった。けれど、茶碗に盛られた豆ご飯を見て、紗代は軽く首を傾げていたのだ。
「ごちそうさま。今日も美味しかった」
「どういたしまして。やっぱりミールセットじゃなくてちゃんと作るようにして良かったよ」
米の一粒も茶碗に残さずに綺麗に食べきって満足げな紗代に、毎日食事を作りながら陽樹の方がいつも喜びを感じている。
「そうだ、僕が作った豆ご飯、君が思ってたのと違ったんじゃないのかい?」
今日、ひとつだけ気がかりだったのはそのことだ。陽樹の指摘に紗代は少しためらった後で頷いた。
「陽樹は気づいちゃうんだよねえ……確かに私が思ってたのとは違ったよ。でも、これも美味しかった」
「そう言ってもらえると嬉しいよ。だけど、君の思ってた豆ご飯を作ってあげたかったな。缶詰のグリンピースじゃなくて、えんどう豆をさやごと買ってきて作ったら違ったかな」
「えーと、私の覚えてる豆ご飯は、こういう豆じゃなかったの。豆の名前はわからないし」
「違う豆か……。ここを片付けたら僕の部屋においでよ。豆の画像を調べて、何を使ってたのか探そう」
「いや、そこまでしなくても」
「僕が気になるんだ。豆ご飯と言われてこれしか思い浮かばなかったからね。他のレシピがわかれば僕のレパートリーも増えるよ。手伝ってくれないか?」
陽樹の最後の一言で紗代は頷いた。やはり彼女にはお願いという形が効果的なのだ。
「とうもろこし……も豆ご飯なのか。確かに豆だなあ」
「さすがにとうもろこしは私でもわかるから」
食後にふたりは陽樹の部屋で、並んでパソコンのディスプレイを覗き込んでいた。豆ご飯で検索を掛けるとグリンピースが圧倒的に多いが、中に時々違う豆が混ざってくる。
「枝豆か。これはどう?」
「もっと、大きい豆だった……と思う」
紗代の語尾が力なく掠れた。彼女の言う豆ご飯は祖母の作ってくれたもので、それこそ四十年以上前の記憶の中にあるものなのだ。子供の頃に感じた大きさと、成長してから感じる大きさには違いが出ることが多い。紗代もそれに気づき、記憶の頼りなさに不安を感じ始めたらしい。
「大きい豆、なるほどね。これで大分近づいた気がする。緑色だったかい?」
「緑色だった」
「これ! これじゃないかな、どう?」
陽樹が画面に映し出したのは、大振りの豆を使った豆ご飯の写真だ。それを見た途端に、紗代はあっと声を上げた。
「そう、これだと思う。ほくほくした豆が少し崩れてご飯に混じって、それが好きだったの」
紗代の「豆ご飯」に使われていたのは空豆だった。少しくびれた形の平たい豆は特徴的で、グリンピースとは一目で違いがわかる。これなら紗代が見た瞬間に違うと感じたのも当然だった。
「空豆だね。うん、確かにえんどう豆とかに比べてちょっと手間がかかるけど、炊き込んだら美味しそうだね。今度はちゃんとこっちを作るよ」
紗代の思い出の味を突き止められたことに満足して陽樹は振り返った。けれど紗代は穏やかな顔をして、やんわりと首を横に振ってみせる。
「ううん、別にいいよ。陽樹の豆ご飯はグリンピースだから、それでいい。こうやって、私の中のいろんなことが変わっていくんだよ」
穏やかながら僅かに寂しさを滲ませたような紗代の言葉が、陽樹にはどうしても引っかかる。
「どうしたんだい、急に」
「ここでは、豆ご飯は今まで食べたことがなかったの。だから今まで私の豆ご飯は、お婆ちゃんが作ってくれた空豆の豆ご飯だった。でも、多分今日からは陽樹の作ったものを、私は豆ご飯と呼ぶんだろうなと思ったから」
「……変えなくていいよ、そんなことは。思い出なんだろう?」
「でも、味もはっきりとは思い出せないし、陽樹の豆ご飯を美味しいと思ったから、それでいいの」
思い出を切り捨てようとするかのような紗代の言いように、思わず陽樹は彼女の肩を掴んでいた。
「春になったら、空豆のご飯作るよ。君がそれを食べたいと思ったのは間違いないんだから。君がそうやって思い出すのって、お婆ちゃんもきっと嬉しいんじゃないかな」
「お婆ちゃんも嬉しい……そう思う?」
「僕だったら、嬉しい。もし僕がいなくなった後に、君がこの前喜んで食べてくれたスペアリブのカレーを、どこかで君が同じようなものを食べて僕のことを思い出してくれたら嬉しいと思うよ」
「陽樹が、いなくなる……?」
陽樹が掴んだ肩が強ばったのを感じた。今までそんなことを考えたことはなかったのだろう、紗代は激しくショックを受けたのを隠せずに、愕然として陽樹をみつめている。
紗代の顔は蒼白で、唇は微かに震えていた。その反応に陽樹は己の迂闊さを呪った。
紗代が高熱を出して寝込んでいたとき、陽樹の手を握ってどこへも行かないでくれと懇願していたではないか。あれは熱にうなされていたとはいえ、紗代の心の奥底に眠っていた本心かもしれないのだ。
「僕は……」
どこへも行かない、と言いきりたかった。それでも、紗代の意識がはっきりしている状態で気休めの嘘をつけやしない。
「春になったら」
嘘をつくことは自分で許せずに、陽樹は少し先の未来を語ることにした。春を過ぎたら、夏の約束をしよう。夏の次は、秋の約束を。そうして今を共にすることしかできないのだ。
「空豆は春になったら出回るから、そうしたらまた豆ご飯を作ろう。……僕の意思とは関係なく、僕がここから離れる時が来るかもしれない。でも僕は今は自分からここを去ろうとは思ってないし、ここで過ごす一日一日を大事に思ってる」
「そうだよね……陽樹は、私とは違って普通の人間だった」
紗代が平坦に呟いた響きの中に、陽樹は深い絶望を感じ取った。
どんなに一緒にいると言おうとも、ふたりの命の長さは違う。陽樹はほぼ確実に紗代より先に老いて、ここを去るだろう。それは種の違いによって避けられない未来だった。
無言で部屋を出て行く紗代を、陽樹は黙って見送るしかなかった。
紗代の様子を陽樹は心配したが、翌日の紗代は特に陽樹に改めて距離を取ることもなく、表面上はいつも通りだった。陽樹も昨日のことを蒸し返すことはできず、意識していつも通りに振る舞った。
それが本当の「いつも通り」に戻った頃、少し遅い春の兆しがやっとこの場所にもやってきた。
ジャージに長靴という出で立ちで、陽樹は軍手をはめて中庭の僅かな枯れ草を引き抜いた。ベンチの周りは草を残すようにはするが、永井に許可を取って庭を改造しようとしている。
「……おまえは、どこでそういう物を見つけてくるんだ?」
「ネットで売ってるよ。ちょっと土が飛ぶけど凄く楽だよ! 凄いなあ」
雑草を抜いた後に家庭用の耕運機で土を掘り返している陽樹を見て、通りすがりの永井は大いに呆れた。
陽樹は中庭に畑を作りたいと永井に申し出ていたのだが、永井はまさか耕運機をこんなところで見ることになるとは思ってもみなかったようだ。
「これで三万円くらいだよ。労力に比べたら安いね」
「俺は、家庭用の耕運機なんて物があることすら知らなかった」
「苗とか調べてたらお勧めに出てきたんだ。蛇の道は蛇ってやつかな」
「ところで、おまえは本職以外の仕事をどれだけ増やすつもりだ?」
「おかげさまで本職が暇なものでね。医者が暇なのはいいことさ」
鼻歌を歌いながら楽しそうに畑を耕している陽樹をしばし眺め、額に手を当てて永井は所長室へ戻っていった。入れ替わりに紗代が姿を見せて、耕した土を踏まない程度の距離で物珍しげに耕運機と陽樹を見ている。
「まさか、ここが畑になるなんて思わなかった」
「そうだろうね。特に何か植わってるわけでもなくて殺風景だし、放っておいたら夏は雑草がはびこって大変じゃないかと思って。だったらいっそ、ここで何か育てようと思ったんだ」
「何を植えるの?」
「うーん、実はまだ決めてないんだよね」
陽樹は耕運機を止めて畑を眺めた。なかなかの広さの家庭菜園ともいえる。何種類かの野菜を育てることができるだろうが、耕運機を見つけて善は急げで買ってしまったので、具体的な計画は立てていなかった。耕してしまったのも耕運機が届いてテンションが上がってしまい、使ってみたかったというだけの話で、完全なノープランの結果だ。
「ここ、結構いい土だと思うよ。黒土だし、掘り返してみたら思ったよりガチガチじゃなかったんだよね。野菜向きの土だ」
軍手に土をすくってじっくりと見ていると、すぐ隣から紗代もそれを興味深げに覗き込んでくる。
「トマトとナスは必須だとして、でも植え付けには早いんだよなあ……。まずは小松菜でも植えようかな。すぐに採れるし、朝ご飯の前にちょっと摘んでくれば味噌汁に入れたりもできるしね」
「小松菜って簡単なの?」
「小松菜は簡単。プランターでも育てられる。そうだ、君も何か育ててみるかい? 初心者だとミニトマトなんかお勧めかな。やっぱり実がなると達成感があるしね」
陽樹の提案に紗代は真剣に考え込み始める。陽樹が黙ってそれを見守っていると、やがてぽつりと彼女は呟いた。
「……朝顔を、育ててみたい」
「朝顔を?」
思わず陽樹は聞き返していた。野菜ではなく花の名前が出てきたことを一瞬意外に思ったが、畑といえば野菜という考えに捕らわれていたのは陽樹の方だった。外見通りの精神年齢を持った紗代なら、花に興味を持つことは考えてみれば意外でも何でもない。
うん、と頷き、紗代は空を見上げながら陽樹に答える。
「小学一年生の時に、理科の授業で育ててたの。蔓が伸びて大分育ってきてたのに、蕾が付く前に事故に遭ってここに来ちゃったから花が咲くところを見られなくて。……あの朝顔は、何色の花が咲いたんだろうなぁ」
「紗代……」
ぐっと喉の奥に熱いものがこみ上げてきそうだった。かろうじてそれを堪えて、陽樹は腕を伸ばした。
遠い昔の、ここではない場所の思い出に心を囚われている紗代が、今にも消えてしまいそうに思えた。紗代の体に腕を回してしっかりと抱きしめると、紗代が息を呑んだのが伝わってきた。
「ごめんね……僕が直接したことではないけど、人間が君にしてきたことは酷すぎる。君からいろんなものを奪ってきて。ごめん……」
驚いて身を強ばらせていた紗代は、ふうと息をつくと陽樹の肩に頭をもたれかけ、陽樹を抱きしめ返した。その腕から、紗代が決して人間を恨んではいないと伝わってくる。
言葉にできない想いを交わすように、ふたりはしばらく互いの体を腕の中で感じ合っていた。やがて、陽樹が小さく声を漏らす。
「あ……本当にごめん、君の服に土が付いた」
「気にするところ、そこなの? 本当に変な人」
鈴を振ったような声で軽く笑いながら答えた紗代は、そのまま目を閉じて静かに呟く。
「貴種じゃなくて人間でも――陽樹に会えて良かった」
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