第2話 視えない老人と



 高橋という老人は「霊が視える」という千景の話を信じているだけであって、本人が見えるというわけではなかった。

 その証拠に、いつも千景の側にいる朱殷と銀の存在に触れたことは今まで一度もない。


 現に、いま自分に取り憑いている霊の存在に怯えはしても、必要以上に恐怖を示してはいない。その霊が視えていない証拠だ。


 もし視えているのなら、とても平常心を保ってはいられないだろうから。


(……今日はなかなかにヘビーなのが来たねぇ。高橋さんが視えない人でほんとよかった)


 人の良い老人が目にするには、その霊はあまりにもグロテクスな様相だった。



《……ッアアアアアアァァ、イタイ、イダイヨオ…オオ……メ、ミエナイ、ヨォ……ココォ、ドコォォォォォッ! イダイイダイイダイイダイイダイイダイイダイッ……!》



 喉の奥から苦しみと痛みを叫び散らす霊。

 その様相から察するに、おそらく何かの事故に巻き込まれて命を落としたのだろう。


 左側頭部がぐしゃりと潰れ、顔の大半はもはや識別不能に近い。

 およそ丸い頭の形を保っていない頭部は真っ赤に濡れた骨が覗き、赤黒い血が今もなお乾くことなく溢れ出ている。


 店の入り口からこのカウンターに至るまで、老人の足取りに沿ってポタポタと血溜まりを作っている。

 老人が座る足元にはすでに血の池が出来上がっていることだろう。


 老人が話す間もずっとそんな凄惨な光景と苦しみを訴える叫び声を間近で浴びていた千景は、いくら慣れているとはいえ、さすがに目を覆いたくなっていた。


 なんせそこらのお化け屋敷も尻尾を巻いて逃げるほどのびっくりホラーな光景が目の前にあるのだから。



 老人の話を聞いて、こうして直接視た限りでは、この霊はそこらにわんさかいるようなただの死霊ではない。だんだんと悪霊になりかけている。


 強い怨恨か、それとも未練か。

 どちらにせよ早くはらわなければいよいよ老人の命が危うくなる。


「何か、心当たりのようなものはありませんか? 危ない目に遭い始める前に何かあったとか、何か拾ったとか」


「…ああ、そういえば道端に落ちていたボタンを拾ってね。……血、みたいなものが付着していたからもしかしたらと思って、一応今日も持って来てはいるんだよ。思えば、悪いことが起こり始めたのもこれを拾ったあたりからだったような気もするね」


「ちょっと見せてもらっていいですか」


 恐る恐る上着のポケットからボタンを取り出した老人は、千景の手のひらにそれを乗せた。


 一見どこにでもあるような小さなボタン。

 しかしよく見れば細かい傷がたくさん付いている。何より、乾いて赤黒くなった血液のようなものが付着しているように見えた。



《──コレ、彼のもんで間違いなさそうやねぇ》



 千景の手に乗るボタンにクンクンと鼻先を近づけた銀は、くいっと尻尾の先で老人の背後を指す。


 いつも人前では滅多に口を開かない銀。

 今日は老人が視えない人間ということもあってか、暇つぶし程度に協力してくれるらしい。


 ちなみに朱殷はというと、相変わらず千景に巻きついたまま動かない。

 ある程度社交的な銀と違い、こちらは寡黙というか気難しいというか、あるいは面倒くさがりというか。

 朱殷は人前であろうとなかろうと口をくことはあまりなかった。


 ともかく、人間よりは格段に鼻が利く一応動物とも呼べる類の銀からお墨付きを得たことで、このボタンが霊のものであることは判明した。


 霊が着ている服はおそらく当時のもの。

 ところどころ破れていたり擦った傷がある。よく見ればシャツのボタンが一つ見当たらない。


「まず間違いなくコレですね、原因」


「………やっぱりか」


「これを拾った場所って、もしかして事故現場の近くとかじゃなかったですか?」


「そういえば近くに花が置いてあったような……」


「だとしたら、高橋さんに憑いてる霊はその事故で命を落とした人と見て間違いないでしょう。このボタンは事故の衝撃で飛んじゃったんですね。現場の遺留品だったボタンに被害者の強い念が乗り移り、軽い呪いのようになってしまった。それをたまたま……いや、もしかしたら導かれたのかもしれませんね。第三者である高橋さんが触れてしまい、念とともに彼が乗り移った。死霊にとって生きた人間は格好の憑代よりしろですからね」


 千景は事実と考察と補足を伝える。

 ひっ、と短く悲鳴を上げた老人は縋るように助けを求めた。


「…お、お嬢ちゃんっ。私は、どうしたらいいんだい。このまま死を待つしかないのかい?」


「落ち着いてください高橋さん。大丈夫ですよ。なんとかするために私のとこに来たんでしょ?」


「……なんとか、なるんだね?」


「もちろん。これは私の領分・・ですから」


 口角を上げた千景は薄っすら笑みを刻む。

 その様子がどこか好戦的にも見え、いつも人好きのする笑みを浮かべる千景の顔しか知らなかった老人にはひどく新鮮に映った。


「じゃあ取り敢えず、このボタンを拾った現場に行ってみましょうか。このまま祓うのは簡単ですけど、その霊は元々は成仏しきれなかっただけのなんの害もない死霊です。時間が経つにつれて災いの元になってきてはいますが、まだ悪霊にはなりきってません。なんらかの未練があるから彼はまだ現世うつしよに残っているんです。その思いが晴らせればきっと成仏してくれるはずですよ。このまま悪霊として祓ってしまうこともできますが、それでは彼はあまりにも……」


「…可哀想、か。死霊とか悪霊とか、私にはそういった話はよく分からないけれど……ただ、この霊が心残りなく成仏できる方法があるのなら、私はそうしてあげたいと思う」


 悲しそうに微笑む老人の目には悲哀の情が浮かんでいた。

 たとえ自分がその災いを被っていようとも、無念の死を遂げてしまった霊への同情の気持ちが痛いほど見て取れた。


 老人と交流の深い千景にはわかる。

 根っからの心優しい人間なのだ、この人は。


「では、行く前にひとつ」


 千景はカウンターを回って老人の前に立つ。

 案の定その足元には血の池が出来上がっていたが、それには見て見ぬ振りをして。


 

 軽く目を閉じ、呼吸を整える。

 右手の人差し指と中指を立てて刀印を結び、九字を切る。


「──天地元妙行神変通力」


 そのまま指を老人の額に翳し、小さな声で呟くように唱える。


「──神代、日神、素盞嗚尊、剣玉盟誓の時、剣を真名井に降濯ぎさかみにかみて吹棄て、気吹の狭霧に神霊の現れ玉うの道理、事相を思い奉べし」


 ふっと短く息を吐き、パンッと両の掌を合わせた。




 閉じていた目を静かに開ければ、どこか驚いた様子の老人と目が合った。


「……お嬢ちゃん、今のは?」


「簡単な護身のまじないです。霊に憑かれている今は様々な災厄に遭いやすいですからね」


「……こういうの、フィクションでは見たことあるけど、実際にしてもらうのは初めてだな」


「頻繁にしてもらってたら逆に心配になりますよ。本当は外を出歩くことも怖いとは思いますが、私がついてるんで取り敢えず安心してもらって大丈夫です」


 必ず守りますから。


 この一件が霊の仕業だと分かって以来、頼もしさしか感じていなかった千景に言外にそう言われてしまえば、老人にはもう不安を抱く理由なんてひとつもなかった。


「では行きましょうか」


「ああ、頼むよ」


 千景の左肩には銀が飛び乗り、朱殷は巻きつけた体に少し力を込める。

 その様はまるで、千景を守るのは当然だとでも言うように。


 そうして老人と千景、守り神のような二匹は連れ立って店を出た。



 余談だが、まるで殺人現場と化した店内の血溜まりを綺麗にし、霊の気配や痕跡を消すのはそれなりに大変だった。年末の大掃除並みに気合を入れて床を磨いたことは老人には内緒にしておこう。


 

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