怨みつらみの愉快日録
夏風邪
第一章
第1話 共存者
───物心ついた時から”ソレ”はいた。
例えば。
太陽の光が反射してよく見えない看板。
木や電線で羽を休めるカラス。
赤だけやたらと長く感じる信号機。
車線が違えば途端に入りづらくなる道路沿いのコンビニ。
自然と視界に入ってくるそんな日常風景と何も変わらず、”ソレ”はそこにいた。
いつもそこにいて、意識せずとも目に映る”ソレ”───世間一般的に”霊”と表現される彼らは、いつも通りの日常を形成するひとつの要素としてそこに存在していた。
視えない人を羨ましいと思ったことはない。
『人間なんて見えなければいいのに』なんて、よほど穿った考えの人でない限りそうは思わないだろう。
なぜなら、生まれた時から共存している”当たり前”を疑問に思うことなんてないのだから。
霊もそれと同じだ。
生まれた時から視界の端で動いていた彼ら。
感覚で言えば、すれ違う人間と同じ。空を飛ぶ鳥と同じ。初めからそこにある風景と同じ。
だから、視えない世界に興味はあれど、そうあってほしいと願ったことはない。
同じ空間には確かにいるのに、限られた人間にしか認知されない存在。
そんな彼らを感じ、言葉を交わし、祓いながら、今日も明日も明後日も、姿形の違う共存者と生きていく。
それが私の日常だ。
◇ ◇ ◇
ほとんどの人が活動しているのではないかと錯覚してしまう平日の真昼間。
本来であれば大学生らしく大学へ行き、大して面白味もない教授の話を聞き、そこそこ美味しい学食を友人と食べているはず。
しかし学生の本分が勉強とか知ったことか精神で毎日を生きている
木製小物、陶器、よくわからないデザインの置物など、大小様々な商品が陳列する店内はひんやりと涼しい。
今のところ店内に客はいない。
つい先日雰囲気で購入したオルゴール調のBGMだけがゆったりと流れている。
何故千景は学生の身でありながら店を経営しているのか。
それについて話すにはそこそこ長くなる。
しかしそれを議論する上で、千景にとっての本分は果たして学生なのか、本当は骨董品店の店主なのではないか、いやいやもっと別の何かなのでは……などといった話が付き纏う。
先述の件を説明するにしても、まずはどれが本職でどれが片手間なのかを明確にしなくては話は先に進まない。
だからとりあえず今は全て割愛しておこう。
「……眠い」
基本的にこの店が客で溢れることはない。平日なら尚更。
今日来た客といえば、家に置く小物を見繕いに来た夫婦とか、古道具に興味のある老人とか、買い物ついでにふらっと立ち寄った主婦とか。
そういう客が途切れ途切れにやって来るのが
しかし、一般的とは少し離れた世界観で日々を過ごしている千景は、何者にも侵されない静かな空間で一人、のんびりと店番をするこの時間が好きだった。
いや、より正確に言えば”一人”と”二匹”での店番が好きだった。
昼食を食べに一度立ち上がって以降、ずっと膝の上で丸くなっている真っ白な狐。もふもふの体毛に鼻先を埋め、呼吸のたびに小さく体が上下する姿は大変愛らしい。
頭から背中にかけて毛並みを整えるように優しく撫でてやれば、猫のように少し身動ぎ、琥珀色の
そしてもう一匹。
細長い体を器用に千景の首元に巻きつけた、これまた真っ白い蛇。
少し首を捻れば同じくらいの高さにある真っ赤な瞳と目が合う。
つんつんと軽く指先でつついてやれば、あからさまな反応はないにしろ、少しじゃれ付くようにしゅるりと動いた。
真っ白い狐の
どちらも千景のかわいいペットたちだ。
ただ、この店に来るほとんどの客には、そのかわいさを見せつけることができないことが残念で仕方ない。
静かな時間と二匹のかわいさを全身全霊で楽しみながら、今日の晩ご飯何食べようか、なんて呑気に頭の中で献立を組み立てていると、不意に銀の耳がピクリと反応した。
それに遅れて、体に巻きつく朱殷が微かに身動ぐ。
(ああ、これは…来たか……)
キィィ…、と蝶番を軋ませながら店の扉が開いたのは、それからまもなくのことだった。
「……お嬢ちゃん。いるかい」
少し
いつもとは少し纏う空気が違っていたためか、声を聞き姿を見るまで誰が来たのかわからなかった。
だがその顔はよく見慣れたもの。
何を買うわけでもないが、週に一度は必ずやって来る常連の老人がドアノブを握っていた。
「こんにちは、高橋さん」
開口一番、お喋り好きの老人の様子に思わず眉を顰めたくなったが、とりあえずいつものように笑顔で出迎える。
カウンターの向かいに椅子を置き、たぶん今日は手をつけないだろうと思いながらも煎茶と茶菓子も用意する。
出された椅子に腰掛けた老人の向かいに再び座り直せば、しばし沈黙の時間が流れた。
いつもであれば茶を待つ時間にも、今朝こんなことがあった、最近体の節々が痛くて困る、良いお菓子を貰ったからお嬢ちゃんにもお裾分け、なんてまるで孫を相手にするかのように楽しそうに話し出すはずだ。
けれども今日はなんとも沈んだ面持ちだ。今にも溜め息が聞こえてきそうな程に。
「……お嬢ちゃん、少し相談に乗ってくれるかい」
「ええ、もちろん」
老人が千景を可愛がっているのと同じように、千景もまたまるで祖父のような優しい老人が好きだった。
そんな人が明らかに気を落とした様子でやって来れば、それはもう相談に乗らないなんて選択肢はありえない。
頷いた千景に安堵の表情を浮かべた老人は、いつもの明るさがない口調でぽつりぽつりと喋り始めた。
「最近、悪いことがよく続くんだよ。今まで滅多にかからなかった風邪をひいたり、階段から足を踏み外して大怪我を負いそうになったり……一昨日なんて、危うく車に轢かれるところだったよ…」
「……それは、大変でしたね。怪我はありませんでしたか?」
「ああ。幸いどれも無傷では済んだんだ。一歩間違えればと思うとゾッとしてしまうよ」
老人は身震いを宥めるように静かに息を吐き出した。
「家内や知人は不運が続いただけだと言っていたんだが、そういう運とか偶然とか、私にはどうにも違う気がしてならないんだよ。だとしたら、これはもしかして私たちにはどうしようもできない、お嬢ちゃんの領分かもしれないと思ってね」
千景自ら”視える”人間だと打ち明けた数少ない人物である老人は、ともすれば虚言だと笑い者にされても可笑しくないその話を信じていた。
元々そういった類の話を信じる性質なのか。それとも千景が嘘を吐くはずがないという心情からなのか。
どちらにせよ、千景の非現実的な打ち明け話を受け入れてくれたのは確かだった。
だからこそ、このような状況に陥った時、『霊的な何かの仕業なのかもしれない』という馬鹿げた思考に至り、解決の糸口を探しに千景を頼ったのだろう。
今時子供でも厨二病患者でもそんなことを本気で言いはしない。
下手すれば精神異常者の印を押されるか、せいぜい精神病を心配されるだけだ。
しかし結論から言えば、老人がとった行動は限りなく正解に近い。
今現在において、その選択は最も効果的で最短の解決方法であると言える。
(私の領分、ねえ………まったくその通りだよ)
朱殷と銀がじぃっと一点を見詰めたまま動かない。
興味か警戒か。とにかく千景に張り付いたまま離れようとしない。
二匹に倣い、千景もちらりと老人を、正確にはその背後、まるで背におぶさるように張り付いている”ソレ”を確認し、すかさず目を覆いたくなった。
「や、やっぱり何か私に憑いているのかい…?」
千景の視線の動きで自分越しに何かを視ていることに気づいたようだ。
頑なに背後を振り向こうとしない老人は、怯えた様子で苦笑いをこぼす千景の次の言葉を待った。
「ええ、まあ……憑いちゃってますね。ばっちりと」
男の霊が。
そう告げた千景の言葉に老人がサッと青褪めたのは、当然と言えば当然のことだった。
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