アメリカ独立戦争の国際戦への展開

 アメリカ独立戦争も後半に入り、様々な情報がヨーロッパにもたらされていた。そのため、プロイセンのポツダムにもアメリカ独立戦争の戦況などの情報が入ってくる。

 アメリカ独立戦争は、フランスやスペインなどの諸外国が介入したことで、アメリカとイギリスとの戦いから、国際戦へと変貌していたのであった。


 アメリカ独立戦争が始まった時、イギリスはアメリカ植民地に対して、圧倒的な海軍力を誇っていた。イギリス海軍の規模は、戦列艦が100隻以上と多くのフリゲートやその他小さな艦船が所属していたのだ。しかし、老朽艦が多く、海軍大臣サンドウィッチ伯爵が非難していた様に、あまり整備が行き届いているとは言えなかった。開戦後の3年間、イギリス海軍は主に陸上兵力の移送と商船の護衛に使われている。

 一方、アメリカ植民地側には、戦列艦など1隻も無く、イギリスの商船を襲う私掠船に頼るところが大きかった。私掠船は、フランスが戦争に加担する前から、フランスのイギリス海峡に面した港を拠点として活動している。そのため、私掠船がイギリス海軍を困らせることで、英仏関係を拗れさせていた。フランスが参戦した後も、アメリカの私掠船はそのままフランスの港を利用し続けている。

 しかし、アメリカの私掠船が得た物質的な戦果の割には、アメリカ独立戦争全体に与える影響が小さかった。

 1775年10月、大陸会議はアメリカ海軍の創設を承認したが、その規模は小さかったため、主に商船への襲撃を行っている。

 1778年4月24日、ジョン・ポール・ジョーンズ船長が英国艦HMSドレークを鹵獲したことで、アメリカ海軍では最初の英雄になった。このノース海峡の海戦は、イギリス海軍に対する最初のアメリカ艦船の勝利となる。


 フランスが戦争に加担したことで、イギリス海軍の優越性はそれ程の大きなものではなくなってしまう。しかし、フランスとアメリカの連合軍は、1778年のロードアイランドの戦いや1779年のサバンナの戦いではうまく機能しなかった。その原因の一つはフランスとアメリカの軍事的な優先順位が異なっていたからである。

 フランスからアメリカに対する財政的な援助は既に厳しい段階にであった。そのため、フランスはアメリカの独立を確保する前に、西インド諸島にあるイギリスの占領地を取りたかったのだ。

 1780年7月、ロシャンボー伯爵が率いる大部隊が到着するまで、フランスとアメリカの連合軍は、軍事的に有効な結果に繋がるまでには至っていない。


 スペインがアメリカ側で参戦した意図として、1704年にイギリスに割譲されたジブラルタルとメノルカ島を奪い返すということも含まれていた。そのため、スペインくは3年以上にわたってジブラルタルの包囲戦を行っている。

 しかし、イギリス軍の守備隊は頑強に守り抜く。1780年、サン・ビセンテ岬の月光の海戦において、ロドニー提督率いるイギリス海軍が勝利する。その後、ジブラルタルは補給も適い、イギリス軍は防衛に成功した。それでも、フランスとスペインは何とかジブラルタルを取ろうとしたものの、失敗に終わっている。

 一方、メノルカ島は1782年2月5日にフランスとスペインの連合軍で奪取に成功した。そのため、スペインはアメリカ独立戦争後は正式にイギリスから領有を認められることとなる。


 西インド諸島では、多くの戦闘が行われ、特に小アンティル諸島では何度も支配者が入れ替わっていた。

 1782年4月、セインツの海戦でイギリス海軍のロドニー提督が、フランス海軍のド・グラス伯爵の艦隊を打ち破る。そのため、フランスとスペインの連合軍が目指していたジャマイカなどイギリス植民地奪取の望みは絶たれることとなった。

 1782年5月8日、スペイン領ルイジアナ総督であったベルナルド・デ・ガルベス伯爵が、バハマのニュープロビデンス島にあったイギリス海軍基地を占領する。このような結果にも拘らず、フランスが占領したトバゴ島の小さな島を除いて、1783年の休戦後は西インド諸島での支配関係を開戦前の状態に戻すことで合意されることとなった。


 メキシコ湾岸では、ガルベスが1779年にマンチャックの戦い、バトンルージュの戦いおよびナチェズの戦いでミシシッピ川沿いにあったイギリスの基地を占領している。ガルベスは続いて1780年にモービルを占領し、1781年にはペンサコーラのイギリス軍基地を降伏させた。この結果、スペインは1783年の休戦時に東フロリダと西フロリダを獲得することとなる。


 北アメリカの戦争の余波は、インドでの英仏間の争いにも飛び火することとなった。

 1780年、第二次マイソール戦争が起こるとフランスとの同盟の中心人物であった、マイソール王国の支配者ハイダル・アリーと息子のティプー・スルターンが、マドラスのイギリス政府に対抗する。

 1782年、戦争を指揮していたハイダル・アリーは戦死するが、その後も戦争は続けられた。そのため、イギリスはマンガロールに包囲(マンガロール包囲戦)されるなど、厳しい戦いを強いられる。

 1784年、第二次マイソール戦争はマンガロール条約で休戦となった。これはインドの歴史でも重要な条約となる。それは、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからだ。

 ウォーレン・ヘースティングスは、これを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えることとなる。


 1780年、イギリスは武装中立同盟に関わったネーデルラント連邦共和国に対して、先手を打って攻撃をした。ロシアが中心となった武装中立同盟には、我がプロイセンを含むヨーロッパの数カ国が加盟している。

 それぞれの国の思惑もあり、中立国船舶の航行の自由と禁制品以外の物資輸送の自由を宣言したものであった。結果として、イギリスはヨーロッパで孤立することとなる。

 イギリスは、ネーデルラントが公然とアメリカ反乱軍を援助するのを許したくはなかった。アメリカ独立戦争によって刺激されたオランダ急進派の扇動、オランダ政府のアメリカに対する友好的な態度は、イギリスの攻撃を呼ぶこととなる。この第四次英蘭戦争は1784年まで続き、オランダの商業経済に破壊的な影響をもたらすこととなった。


 我がプロイセンは、バイエルン継承戦争が起こったため、アメリカへの支援は消極的なものになっている。

 プロイセンに直接的な影響は少ないだろうが、オランダの総督であるウィレム5世に叔母が嫁いでいるため、オランダの影響を受けてしまうのが困りものだ。

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