極道の組長?をスカウト
幼児のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世に転生してから、プロイセンの王子として過ごしているが、生活様式が大きく様変わりしたことを除けば、大抵のことは思い通りになるので、良い暮らしである。
前世がコミュ障であったため、人と上手く話せないのだが、史実のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世自身が「不定詞王」と呼ばれるほど話し方に問題がある人物なので、気負い無く暮らせるのが特に良い。
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が誕生したのが1770年8月3日であるが、とある重要人物が1773年に下野してしまうので、それの何とか手元に置こうと思う。
その重要人物とは、後にプロイセン軍総司令官としてナポレオンと戦うゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルである。
ブリュッヘルは、この頃はスウェーデン領であったロストックにて、1742年12月16日に誕生した。14歳に家族と同様にスウェーデン軍に入隊し、1760年からのポンメルンでの戦役に従軍している。ブリュッヘルは、このポンメルンでの戦役において、プロイセン軍の捕虜となったが、そのままプロイセン軍へと入隊する。七年戦争の際には、驃騎兵(フザール)隊の将校として従軍し、勇敢な行動によって多くの戦功を立てた。
史実で、ブリュッヘルがプロイセン軍を除隊して下野した理由は、とある僧侶の模擬処刑が行ったことが原因である。この模擬処刑が1772年のポーランド反乱を支援したという疑われたのであった。この疑惑のため、ブリュッヘルは少佐への昇進を見送られてしまう。
この人事に怒ったブリュッヘルは、フリードリヒ2世(大王)へ辞職の無礼な手紙を送り、大伯父は1773年に承認している。その際に、大伯父フリードリヒ大王は「フォン・ブリュッヘル騎兵大尉は破滅すればよい(Der Rittmeister von Blücher kann sich zum Teufel scheren)」と言ったそうだ。
ブリュッヘルは除隊後に農業を始め、約15年間を田園で過ごし、フリードリヒ大王が亡くなったことで、軍務に復帰することが叶っている。
そもそも、ブリュッヘルの性格はブリュッヘルは粗野で無鉄砲で無教養であり、フリードリヒ大王と性格の不一致が、揉めた原因とも言える。フリードリヒ大王とは反りが合わなかったのだろう。両者の性格を考えれば、水と油である。
ブリュッヘルは、良くも悪くも熱い漢であり、その熱い情熱がトラブルを巻き起こすことがしばしばあったのであった。
そんな重要人物であるブリュッヘルを下野させてしまうのは惜しいので、手元に置いておきたいのだ。ブリュッヘルは、1772年なら騎兵大尉としてプロイセン軍で勤務をしている。フリードリヒ大王とトラブルを起こす前に配置換えをしなければならない。
侍従にブリュッヘル大尉のことを尋ねると、王子が何でそんなことに興味を持つのかと思ったが、王子の言葉なのでそれなりに上手く説明してくれた。
そして、父のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世と会った際に「ブリュッヘル、欲しい。侍従武官」と言った。
父上は、困惑しつつも「何とかしてみよう」と仰る。フリードリヒ大王が薨去した後にブリュッヘルが軍に戻れたことから、父自身はブリュッヘルを評価しつつも、両者の反りが合わないことを気にしていたのだろう。
父フリードリヒ・ヴィルヘルム2世に頼んでから随分と経った頃、ブリュッヘル驃騎兵大尉が俺の前に現れることとなった。父上は大伯父のフリードリヒ大王に頼んで、フリードリヒ・ヴィルヘルム王子(俺)付の侍従武官にすることに成功した様だ。
俺の前に現れたブリュッヘル大尉は、厳つい身体つきで、顔付きも厳しく、極道の組長みたいだ。この人事に思うところがあるのか不満気な表情を隠さない。俺付の侍従武官とは言え、させることも無いので、勉強と雑用でもさせることにしよう。
因みに、ブリュッヘル大尉と反りの合わない大伯父フリードリヒ大王は、父上からの請願に対して「幼子に仕えるなど、ヤツを懲らしめるためには丁度良いやもしれぬ」と愉快そうにしていたそうだ。同じポツダムの宮殿地区に住んでるんだから、顔を合わせそうな気もするが、遭ったら遭ったでお得意の嫌味でも言うつもりなのだろうか?
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